『これがニーチェだ』P.25では、以下のように書かれています。
ニーチェ曰く「道徳それ自体が不道徳の一つの特殊形態」なのです。
私が思うに、「(道徳的な)正しさ」は、元をたどると、次の2つのいずれかに立脚していることが多いです。
(1)の損得勘定由来の道徳は、長い時間をかけて内面化されているため、多くの人は、それを単なる損得勘定だとは感じず、道徳だと思っています。
「人を殺すのは(道徳的に)正しくない」と言われるのは、(1)損得勘定由来の正しさに反するからです。
実際、「人を殺すのは正しい」ということになったら、いつ殺されるかわからないから、社会生活がとても不便になります。
だから人を殺すことは悪いということにしよう。そうじゃないとみんな困るから。実際に悪いかどうかはともかく、そういうことにしとかないと、不便でしょうがないから。
というのが実情でしょう。
しかし、それは本来、単に人々の損得勘定の話であって、「人を殺すのは悪い」ということが真実かどうかとは関係ない話です。「都合上、悪いということにしている」ということと、「本当に悪い」ということは別の話なのです。
これが原因で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、欺瞞になってしまうことが多いです。
それについて、『これがニーチェだ』P.26-27では以下のように記述しています。
「道徳的に正しい」ことは、それを「道徳的に正しい」ということにした方が、社会の多数派の人が得をするから、それが「道徳的に正しい」ということにしただけであって、それは「真実かどうか?」というと、嘘なことが多いのです。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、トートロジーになるか、「多くの人がそのような質問をしないのは誇りがあるからだ」とか「道徳的に生きることこそが真の自由なのだ」とかの嘘で隠蔽工作せざるを得なくなるのです。
しかし、それは嘘ではあるけれども、それが嘘であることを、みんなで忘却することによって、この社会は成立しています。
つまり、道徳というのは、嘘と欺瞞で作られた、便利で有益な装置なのだけど、それがそういう装置であることをみなが忘却することによって成り立つ装置なのです。
それが「道徳」の正体です。
そのへんは、永井均さんの『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』も合わせて読むと、わかりやすいです。
『これがニーチェだ』という本は、結果的にニーチェという毒を巧妙に無害化する解毒薬になっています。
また、ニーチェの本を読んで「この社会は嘘と欺瞞によって成り立っている!」という真実を知ってしまってイキっている中二病患者たちも、『これがニーチェだ』は批判しています。ニーチェのロジックを使って。
その意味で、この本はとても「道徳的に正しい」です。
そしてそれは、この本を出版するために必要なことです。
なぜなら、「道徳的に正しい」本にしないと、「道徳的に正しい側」に立って「道徳的に悪い側」を安全地帯から一方的に叩きのめすのが楽しくてしょうがないという卑劣で醜悪な人たちが集まってきて、道徳棍棒で袋叩きにされてしまうからです。
ニーチェは(2)「誠実性」由来の道徳的な正しさを追い求めた人ですが、そうすると結果的に(1)「損得勘定」由来の道徳の欺瞞を暴くことになり、不道徳だという誹りを受けがちです。
すると、道徳棍棒の振り下ろし先を探して舌なめずりしている「道徳的に正しい」人たちの餌食になりやすくなります。
そして、ニーチェについて誠実に語ろうとする本もまた、その宿命を背負っています。
このジレンマを切り抜けるために、『これがニーチェだ』は、先ほどの(1)と(2)の両方の道徳的正しさを同時に満たすというアクロバティックなことを、絶妙のバランス感覚でやっています。
つまり、できるかぎり嘘をつかずに、社会の多数派にとって不都合にならないような落とし所に、話を持って行っているのです。
と、道徳的に正しいオチがついたところで、この記事を終わりたいと思います。