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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ニーチェの「倫理」論(承前)



『これがニーチェだ』P.25では、以下のように書かれています。

ニーチェは、人が道徳に服従する根拠を他の誰もがなしえなかったほど正確に捉えている。「人が道徳に服従するのは道徳的であるからではない。---道徳への服従は君主への服従と同じく、奴隸根性からでも、虚栄心からでも、利己心からでも、断念からでも、狂信からでも(中略)ありうる。それ自体では、それらはなんら道徳的なことではない」(『曙光』九七)。
「道徳的理想の勝利は、あらゆる勝利と同じ『不道徳な』手段によって得られる。すなわち、暴力、嘘、誹謗中傷、不公正によって」一八八六年末 - 八七年春、7〔六〕)
<略>
それにしても、なぜ、他の人々は誰もこうした明白な真理を、口にしようとしなかったのか。いまもしないのか。---それは彼らが不道徳で恥知らずだからである。これがニーチェの答えである。つまり、このようなことをあえて語るニーチェだけが(その道徳自身の基準に照らして)道徳的である、という逆説がここで成り立つ。

ニーチェ曰く「道徳それ自体が不道徳の一つの特殊形態」なのです。

私が思うに、「(道徳的な)正しさ」は、元をたどると、次の2つのいずれかに立脚していることが多いです。

(1)社会の多数派にとって損でない。(損得勘定由来)

(2)嘘をつかない。(誠実性由来)

(1)の損得勘定由来の道徳は、長い時間をかけて内面化されているため、多くの人は、それを単なる損得勘定だとは感じず、道徳だと思っています。

「人を殺すのは(道徳的に)正しくない」と言われるのは、(1)損得勘定由来の正しさに反するからです。
実際、「人を殺すのは正しい」ということになったら、いつ殺されるかわからないから、社会生活がとても不便になります。
だから人を殺すことは悪いということにしよう。そうじゃないとみんな困るから。実際に悪いかどうかはともかく、そういうことにしとかないと、不便でしょうがないから。
というのが実情でしょう。
しかし、それは本来、単に人々の損得勘定の話であって、「人を殺すのは悪い」ということが真実かどうかとは関係ない話です。「都合上、悪いということにしている」ということと、「本当に悪い」ということは別の話なのです
これが原因で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、欺瞞になってしまうことが多いです。
それについて、『これがニーチェだ』P.26-27では以下のように記述しています。

さて、このようなニーチェの視点からすれば、多くの子供たちが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを立てないのは、誇りによってではなく、奴隸根性と断念によってであることは明白である。もちろん、「聖人」たちはその奴隸根性や断念や、虚栄心や利己心や臆病さを、誇り、尊厳、真の自由、……といった言葉を用いて称賛する。その種の隠蔽工作がすなわち、「暴力、嘘、誹謗中傷、不公正」である。 道徳哲学者や倫理学者も同じである。彼らは「なぜ人を殺してはいけないのか」をはじめとする道徳の根拠の問題に答えようとするとき、結局、それは道徳に反するからだ、というトートロジーしか与えることができない。なぜ道徳的であるべきなのか、という問いに、その方が道徳的であるからだ、と答えることの無力さを感じている彼らは、そこに誇り、尊厳、真の自由、等々の嘘を忍び込ませるのである。

「道徳的に正しい」ことは、それを「道徳的に正しい」ということにした方が、社会の多数派の人が得をするから、それが「道徳的に正しい」ということにしただけであって、それは「真実かどうか?」というと、嘘なことが多いのです。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、トートロジーになるか、「多くの人がそのような質問をしないのは誇りがあるからだ」とか「道徳的に生きることこそが真の自由なのだ」とかの嘘で隠蔽工作せざるを得なくなるのです。
しかし、それは嘘ではあるけれども、それが嘘であることを、みんなで忘却することによって、この社会は成立しています。
つまり、道徳というのは、嘘と欺瞞で作られた、便利で有益な装置なのだけど、それがそういう装置であることをみなが忘却することによって成り立つ装置なのです。
それが「道徳」の正体です。
そのへんは、永井均さんの『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』も合わせて読むと、わかりやすいです。

『これがニーチェだ』という本は、結果的にニーチェという毒を巧妙に無害化する解毒薬になっています。
また、ニーチェの本を読んで「この社会は嘘と欺瞞によって成り立っている!」という真実を知ってしまってイキっている中二病患者たちも、『これがニーチェだ』は批判しています。ニーチェのロジックを使って。
その意味で、この本はとても「道徳的に正しい」です。
そしてそれは、この本を出版するために必要なことです。
なぜなら、「道徳的に正しい」本にしないと、「道徳的に正しい側」に立って「道徳的に悪い側」を安全地帯から一方的に叩きのめすのが楽しくてしょうがないという卑劣で醜悪な人たちが集まってきて、道徳棍棒で袋叩きにされてしまうからです。

ニーチェは(2)「誠実性」由来の道徳的な正しさを追い求めた人ですが、そうすると結果的に(1)「損得勘定」由来の道徳の欺瞞を暴くことになり、不道徳だという誹りを受けがちです。
すると、道徳棍棒の振り下ろし先を探して舌なめずりしている「道徳的に正しい」人たちの餌食になりやすくなります。
そして、ニーチェについて誠実に語ろうとする本もまた、その宿命を背負っています。

このジレンマを切り抜けるために、『これがニーチェだ』は、先ほどの(1)と(2)の両方の道徳的正しさを同時に満たすというアクロバティックなことを、絶妙のバランス感覚でやっています。
つまり、できるかぎり嘘をつかずに、社会の多数派にとって不都合にならないような落とし所に、話を持って行っているのです。

と、道徳的に正しいオチがついたところで、この記事を終わりたいと思います。

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ニーチェの「倫理」論

「分裂勘違い君劇場」の「ふろむだ」氏(fromduskrtilldawn氏)の文章だが、「道徳(倫理)」の根源に関する貴重な内容なので転載する。
私は、宗教に立脚しない倫理をどう打ち立てるか、という考えで倫理の考察をしているので倫理の根幹が功利主義であるとされても何も痛痒は感じない。むしろ私の思想に近いし、また倫理は「社会秩序の維持」のために作られた、というのも同感だ。それを「奴隷の思想」などと卑しむ必要は無い。強者が倫理を守らないのは自明の事実であり、しかし彼らがある程度以上の暴虐をしない、あるいは悪行をしばしば慎むのは倫理への世間の感情のためであり、それが世間の弱者を利してもいるわけだ。つまり、倫理は社会秩序維持の上で大いに役立つ虚構であって、その有益性を知らない中二病の馬鹿たちがニーチェの「超人思想」などに憧れるのである。

(以下引用)


「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい

ふろむだ@分裂勘違い君劇場

『たまたま「これがニーチェだ(永井均)」を読んでいたら「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにニーチェがどう答えたかという話があったので一部引用してみます。』
という小野ほりでいさんのツイートに対し、「ニーチェの答えがすごい」というコメントがいくつも寄せられています。

その小野ほりでいさんのツイートで引用されたのは永井均『これがニーチェだ』の以下の部分です:

この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかないー きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。 それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない。
二つの応答の可能性が考えられる。一つは「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでもかまわないと思っている」という応答である。この応答に強い説得力があるのは、自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力であることを、それが教えてくれるからである。何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではないー それが ニーチェ の主張である。 だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということ を、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとつ ては、あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない。
(永井均『これがニーチェだ』P.22-23より引用)

もちろん、これは「永井均先生の理解するところのニーチェの答え」です。
僕自身は哲学研究者ではないし、ドイツ語も読めず、ニーチェの原著の日本語訳を数冊読んだ程度ですから、「ぼくの理解するところのニーチェの答え」など書いてもしょうがないです。
そこで、この記事では、あくまで「永井均先生の理解するところのニーチェの答え」について書きます。
(永井均先生は哲学研究者かつ哲学者です)

小野ほりでいさんが「一部引用してみます」と言っているように、これは、(永井先生の理解するところの)ニーチェの答えの「一部」でしかありません。
残りはどうなっているのでしょうか?

少し長くなりますが、(永井先生の理解するところの)ニーチェの答えに相当する部分を『これがニーチェだ』P.28-30より引用します。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」---だれも公共の場で口にしないとはいえ、 これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ 一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分のその悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人は、まずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。これは、世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている多くの人々には決して---少なくとも公的には---受け入れることができない見解であるかもしれない。しかし、それでもこの見解には究極的な正しさがあるのではないだろうか。「正しい」という語のある特別の意味において、それは決定的に正しいのではあるまいか。少なくとも私にはそう感じられるのである。
社会の健全さ、いやそれどころか社会の存続それ自体と本質的に矛盾するような価値というものがある、と私は思っている。その視点を考慮に入れていない倫理はむなしい。だから、これまでのあらゆる倫理学説は本質的にむなしい。殺人という例が極端すぎるというなら、いじめの場合で考えよう。人生が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった子供が、あるとき友達をいじめることで、はじめて生の悦びを感じることができたとする。それはよいことだ、とは誰も言わない。だが、それでも、それはよいことなのではあるまいか。その子は、以前よりもよい人生を生きているのではあるまいか。共存の原理に反しているからといって、そのよろこびは偽物だとか、ほんとうのよろこびは友達と仲良くするところにあるのだ、といった道徳イデオロギーによって、その子を断罪すべきではないと私は思う。その子は、そういう言説が〈嘘〉であることを、身に染みて知っているはずなのだ。

このニーチェの考えは不道徳だと思いましたか?
しかし、「この考え方を不道徳だとすること」が不道徳であることを明らかにしたのが、ニーチェのやった仕事なのです。

倫理についての基本

改めて、「現代倫理学」の考察をし、これを、残りの人生の主目的としようと考えている。
以前に書いた内容と重複していたりするだろうが、それは後で調整する予定だ。
まず、「倫理の性質」「倫理の目的」について、現段階での考えを書く。

1:「倫理の性質」

倫理とは「禁止の体系」である。(これは前にも書いた。)

2:「倫理の目的」

倫理の目的は、「個人と社会の幸福の増進」で、この2者(個人の幸福と社会の幸福)は一致することも相反することもある。
近視眼的に見れば、倫理が「禁止の体系」である以上、それは個人の幸福を阻害すると感じられる。幼児や若年層の非行や大人の犯罪・邪悪な行為は、この「禁止への反抗」である。しかし、倫理は社会秩序の基本であり、その適正化は、社会の幸福を増進し、ひいては個人の幸福を増進する。このメカニズムへの無理解が、社会秩序を悪化させ、個々人をも不幸にする。
弱者援助や弱者保護は、「強者の利益」を削減するので強者には不評だが、強者が弱者に転落したらその幸福を保証するのは弱者援護や弱者保護の「倫理」である。つまり、一般的に強者は倫理を必要とせず、むしろ「強者の利益を阻害するもの」と見做す心理的必然性がある。強者の「倫理の無視」は、社会全体の倫理水準の低下を招く。

3:「倫理の障害としての自己愛」

倫理の最大の障害は「自己愛」である。自己愛は人間の根本的本能であるので、倫理とは「不自然なもの」となる。これは、「文化」、特に宗教が不自然であるのと同様である。すべての宗教は不自然なのである。それは、人間に「動物である以上のこと」を求めるのである。
男より自然な動物である女性は、倫理という「禁止の体系」に重きを置かない。倫理は論理と同様に「頭で作ったもの」なので、感情の生き物である女性にはほとんど通用しない。しかし、女性は「愛情の生き物」でもあるので、老人や子供、弱者などへの自然な同情を持っていて、それが倫理の代わりとなる。だが、男性でも女性でも、究極的には「自己愛」が他者との関係の根本的障害となる。

犯罪者の心理

私の知人がその親戚から聞いたという又聞きの話で、その人は公務員で非行少年少女と接する仕事だったが、「犯罪をやった人は、まったく反省などしないよ」と言っていたそうだ。その犯罪者の家族も「被害者のほうが悪い」と主張するらしい。

(以下「文春オンライン」から転載)

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自慰行為を強要した時の経緯

――公園で爽彩さんが自慰行為を強要された件は覚えていますか?

「……いや。あ、(自分も)いた」

――誰が指示をしていたのでしょうか?

「あぁ、それはD子が言ってた」

――自慰行為を強要されて、爽彩さんは嫌がっていたのではないですか?

「うーん……まぁ、うん」

爽彩さんのお宮参りと百日祝いの時の記念写真。下のアルバムはエコー写真(母親提供)

――どういう経緯でそうなったのでしょうか?

「えぇ? そのときC男もいたから、C男が写真の件の話を出して、じゃあできるならここでやってみろよ、みたいな。確か。それでD子がやれって言った」

――その時、A子さんはどうしていましたか?

「うちとB男は離れてた。その場から。見たくもないし聞きたくもないし」

「どっちにせよ最終的には(自慰行為を)やってるんだから」

――A子さんがイジメの主犯格だったという証言もあります。

「私ではない。別のZ中学の子(C男、D子、E子)が私を悪者にしている」

――これらの行為をイジメだと思いませんか?

「うーん……別にどっちでもないんじゃないです? 本人最初嫌がっていたとしても、どっちにせよ最終的には(自慰行為を)やってるんだから」

――爽彩さんがウッペツ川へ飛び込んだ事件については覚えていますか? 

「あれは(爽彩さんが)自分から飛び込んだ」

――どうしてそうなったのでしょうか?

「どうして? わかんないです。死にたくなったんじゃないですか?」

旭川東警察署 ©文藝春秋

――爽彩さんに向かって「死ぬ気もないのに死にたいとか言うなよ」と言っていたという証言があります。

「それは言いました。周りに小学生いるのに死にたい死にたいとか、死ぬ死ぬとか言ってて、どうせ死なないのに次の日またあそこの公園に現れてたから。小学生にはそういうのはダメでしょ? と思って言ったんです」

亡くなったと知って「正直何も思ってなかった」

――爽彩さんが亡くなったと知ってどう思いましたか?

「うーん、いや、正直何も思ってなかった」

 A子に長時間話を聞いたが、最後までイジメに対する謝罪も、爽彩さんが亡くなったことに対するお悔やみの言葉もなかった。

東海アマ氏の「欲望絶対肯定」論

「東海アマ」ブログ記事で、「倫理」の重要性を信じる私とは正反対の意見だが、参考のために載せておく。まあ、自分の欲望はほとんど必ず他者の欲望と衝突するのであり、その解決は最終的には暴力しかない。つまり、「新自由主義」の究極である。
ちなみに「ワクワク=快感」という等式は成立しない。「ワクワク」は快感を求める感情であり、快感は「ワクワク」に導かれた行為の結果だ。もちろん、その行為が失敗に終わり、さらなる不満や抑圧感を生み出すことが「社会秩序」の中では普通にある。だから倫理は常に「禁止の体系」なのである。
アイドルタレントに性欲を抱く若者は膨大にいるが、そのタレントを衆人環視の中で強姦する者はいない。東海アマ氏が称揚する性欲など、基本的にオナニーをすれば終わりである。「快感の達成」というのは様々なレベルがあり、「ワクワク」感など、人それぞれである。人を殺すことにワクワクする人間もいれば、自然を眺めてその美しさにワクワクする者もいる。探せば、どんな小さな物の中にもワクワクするものはある。
人は欲望充足のために生きているという説は俗耳に入りやすいが、欲望など便意と同じで、「始末する必要がある」から人を動かすだけだ。四六時中「ウンコをしたい」とだけ考えている人間は精神異常だろう。(便秘に悩む女性のことは措いておく)。

(以下引用)

人は快感=ワクワクを求めて生きていること


 

 バシャールが、「人間にとって一番大切なことは、ワクワクを持ち続けること」と言っていたような気がする。
 確かに、この指摘は晴天の霹靂で、我々の心の誰も気づかなかった奥底の原動機を指摘してくれた。
 我々が未来に希望を持てるとすれば、それはワクワクするような事態に遭遇できることを信じているからだ。死ぬまで苦痛しかない、ワクワクから見放された世界では、もう生きてゆく希望など何一つ残らない。

 しかし、奴隷として苦役を強要される立場でも、与えられる次の食事にワクワクし、希望をつないでいると聞いたこともある。
 また「奴隷は、自分につけられた鎖を自慢する」という言葉もある。
 だから、ワクワクとは何なのか? という問いは深い課題だ。
 他人を痛めつけることにワクワクする人だっている。人を騙すことにワクワクする人もいる。ワクワクは、必ずしも良いことばかりではない。

 人が人生に希望を失って自殺したりする鬱から引き戻すのに、その人にとって、ワクワクするような情報を与えることが最大の効果を発揮するのだろう。

 いったい、人間は何にワクワクするのだろう?
 ざっと思いつくのは、コンプレックスに包まれた状態から解放され、優越感に浸れること。これは深い差別社会にがんじがらめにされた者ならではの発想で、たぶんポリネシアなんかの自由で平等な社会では成立しない感情なのだろう。
 我々日本人は、上は天皇から下は死刑囚までの人間の序列支配に挟まれて、死ぬまで自分の置かれた階段の高さに一喜一憂しながら、他人を羨み、また小馬鹿にする価値観に溺れているので、誰も、心のワクワクに気づこうとしない。

 誰でも容易に、最初に考えるワクワクは、たぶん性欲を満たすことではないだろうか?
 年老いても、LGBTになっても性欲は残る。
 性交やSMプレイ、アナルセックスといった生々しい快感が、もちろん人をワクワクさせることは、ラブホテルに向かう男女の表情を見ていれば鮮明に分かる。
 みんな、何気なくしらばくれていても、強烈なワクワクを内に秘めた表情をしている。

 このワクワク感は鮮烈で、LGBTの掲示板を覗いてみると、露骨で生々しい性欲のワクワクが手にとるように分かる。見ているうちに、普段何気なく使っていた公園の駐車場なんかが出会いの場になっていて、公園のトイレに入ることも、はばかられるようになった。
 よくも、ここまでエゲツなくなれるもんだというのが正直な感想だが、これも、私が前時代の序列価値観に束縛されているからで、人間の飾らない本当の心根を示している貴重な表現なのかもしれない。

 性欲が50歳程度で消えてゆくというのは真っ赤な嘘だ。男どもは、自分の娘よりも若い女性が働く風俗店に平気で入ってゆく。世間体よりも性欲が勝っている。
 また、50歳前後にもなると世間体を気にして、エッチを想像するのも恥ずかしいことと、自分を金縛りにしてしまう男女も多いが、意思で性欲を縛り付けていても、抑圧された欲望は火山のマグマのように出口を探して彷徨っている。

 私は50歳前後で、数年間も血尿が続いて、尿の出が悪くなったりする症状があったので、前立腺癌を抑制するシテロンという男性ホルモン抑制剤を10年近くも飲み続けていたのだが、これを飲んでいると、性欲がほぼ強制的に遮断される。
 効果は実に強烈で、過剰性欲に悩んでいる人には最高だが、ただし副作用も強い。

 これは女性に対する関心が完全に消え失せる。もちろん男性に対する関心も出ない。目の前で見目麗しい若い女性が素っ裸になっていても、何一つ心を動かされない。関心が湧かないのだ。
 だから、性欲が、どれくらい性ホルモンの支配を受けているか思い知らされた。

 「やりたい、ワクワク」というものの正体は、性ホルモンだったのだ。
 シテロンは副作用で、乳房肥大が起きるので、私はLGBTに間違えられることも多い。若ければ、そのままLGBTとしての人生を送るのも一興だが、残念ながら歳をとりすぎて、「LGBT老人」を相手にしてくれる目出度い人物もいない。
 まあ、世間が求める性欲ワクワクは50歳あたりまでなので、私は遅すぎた。それでも、シテロンを中止して性欲が戻れば、女性になったつもりでレズプレイをしてみたいなんて性的妄想に苛まれることもある。

 若ければ、きっと出会い掲示板なんかに書き込んで性欲に狂っていたかもしれない。
 だが、60歳近くになって、突然、自分の心の抑制から解放されて、性欲を謳歌することに目覚める人もいる。どちらかといえば女性が多い。
 今の60歳以上の人々は、昔の封建的な男女観の影響を受けていて「はしたない」なんて自己規制感情とともに、「夫婦のあるべき姿」とか「真面目な人間性」とかの作り上げられた虚像に縛られている人が多い。

 だが、人間の本質は、何よりもワクワクと快感を求める動物なのだ。
 どんな封建的な名家の一員に収まっていても、快感を得たいという欲望から逃れることはできない。押し殺せば押し殺すほどに、心の底に欲求が渦巻いてゆく。
 ちょうど、宮本恒一の「忘れられた日本人」のなかで、有名な「土佐源氏」という本があるのだが、これなど、人間の本当の心が何をもたらすのか、実に深く示してくれる。
 人間の心に隠された真実に光を当てた名著中の名著だ。
 https://story.nakagawa-masashichi.jp/56730

 結局、人間というものは、幼い頃からすり込まれた世間体や封建的価値観による抑圧のなかで、「性欲ははしたない」という鎖に縛られて生きてきたが、ある日、その鎖が、思い込みだけで、本当は糸こんにゃくか、うどんのように簡単に壊れる虚構にすぎないと気づくと、突然、心のなかで何か爆発が起きて、60歳近い人が抑制を失った性欲に溺れるのだ。

 だが、容姿の衰えは隠しようもなく、若者たちは相手にしてくれない。狂いたくとも狂う相手がいないという焦燥のなかで、中高年、老人向けの出会いサイトは恐ろしいほど盛況で、その内容は驚くほどえげつない。
 それでも、支配者が民衆の心を支配してきた封建的虚構から解き放たれた人々が、ネットの自由な世界に触れて、人生の真実を見いだすというストーリーは素晴らしい。

 私の世代のような老人たちが、封建的価値観のくびきから解放されて、自由なセックスを楽しむということは、目指してきた「人間解放」の成果だと考えている。
 穏やかで、抑制の効いた関係もいいが、露骨な性欲に突き動かされた荒々しい性的満足もいい。変態セックスも素晴らしい。アナルでも、なんでもやったらいい。
 人生の大半をがんじがらめに束縛されてきた、ワクワクを追求することで、虚構の仮面が剥がれ落ちてしまえばいい。

 もちろん、そうした性的自由は、一夫一婦制の倫理観を根底から破壊することになる。
 だから、旦那様、奥様と仲良く人生を終えたい人は、これまでどおりの貞操価値観を大切にしてゆくことになる。
 でも社会が一夫一婦制から抜け出そうとしていることは、高知県の男女関係に現れている。
 https://master-jack.net/2018/06/02/%E9%AB%98%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%9C%AA%E5%A9%9A%E7%8E%87%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%84%EF%BC%93%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E3%80%82/

 ワクワクすることは、「自分が本当にやりたいこと」を端的に教えてくれる。
 今、ワクワクしながら夢中になって取り組んでいる仕事、食事の時間さえ忘れて、集中していること。
 これが、本当に自分の心が求めているものだ。

 なかには、変態性欲行為に夢中になっている人もいるだろうが、それはそれでよい。
 結局、ワクワクは快感の延長である。人は快感を得られることをしたいのだ。
 それが世の中を変えてゆく。
 みんなが一番快感を得られる世界を想像してみればいい。
 それは少なくとも、ナチズムや中国共産党のようなファッシズムではないはずだ。

 ヘーゲルの示した「世界は合理性に向かう=絶対精神へ」という命題も、人々がもっとも強い快感を得られる世界に向かってゆくという意味だろう。
 我々が、どういうときに快感を得ることができるのか?
 これを心の底に置いておけば、それが社会の進む道である。

 こうした意味で、船井幸雄が示した「長所伸展法=短所是正法」のメカニズムも、今では、長所伸展法がもたらす素晴らしい世界=快感の強い世界が、どれほど社会を前進させているか気づく人も多くなった。
 逆に短所是正法=叱りつける、文句を言いまくる、短所を厳しく指摘するという、およそ不快感をもたらすだけの人間支配が、社会をどれほど逆行させ、人を不幸にしているかも知られるようになった。

 これなどは、社会を規定する根底に、ワクワクと快感があることさえ理解できれば、誰にでも分かることだと思う。
 しかし、さんざん他人から文句を言われてきた人に、その恨みを他人にぶつける人もいる。そうしてワクワク感を得ているのかもしれないが、それは、自分を縛る鎖をより太く強固にするだけだ。

 自分を縛り付けている、たくさんの鎖から解き放たれよう。価値を定めるのは世間体ではない。他人の指摘でもない。ワクワクする自分の心を満足させるため、鎖を引きちぎって前進してゆくのだ。