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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

東海アマ氏の「欲望絶対肯定」論

「東海アマ」ブログ記事で、「倫理」の重要性を信じる私とは正反対の意見だが、参考のために載せておく。まあ、自分の欲望はほとんど必ず他者の欲望と衝突するのであり、その解決は最終的には暴力しかない。つまり、「新自由主義」の究極である。
ちなみに「ワクワク=快感」という等式は成立しない。「ワクワク」は快感を求める感情であり、快感は「ワクワク」に導かれた行為の結果だ。もちろん、その行為が失敗に終わり、さらなる不満や抑圧感を生み出すことが「社会秩序」の中では普通にある。だから倫理は常に「禁止の体系」なのである。
アイドルタレントに性欲を抱く若者は膨大にいるが、そのタレントを衆人環視の中で強姦する者はいない。東海アマ氏が称揚する性欲など、基本的にオナニーをすれば終わりである。「快感の達成」というのは様々なレベルがあり、「ワクワク」感など、人それぞれである。人を殺すことにワクワクする人間もいれば、自然を眺めてその美しさにワクワクする者もいる。探せば、どんな小さな物の中にもワクワクするものはある。
人は欲望充足のために生きているという説は俗耳に入りやすいが、欲望など便意と同じで、「始末する必要がある」から人を動かすだけだ。四六時中「ウンコをしたい」とだけ考えている人間は精神異常だろう。(便秘に悩む女性のことは措いておく)。

(以下引用)

人は快感=ワクワクを求めて生きていること


 

 バシャールが、「人間にとって一番大切なことは、ワクワクを持ち続けること」と言っていたような気がする。
 確かに、この指摘は晴天の霹靂で、我々の心の誰も気づかなかった奥底の原動機を指摘してくれた。
 我々が未来に希望を持てるとすれば、それはワクワクするような事態に遭遇できることを信じているからだ。死ぬまで苦痛しかない、ワクワクから見放された世界では、もう生きてゆく希望など何一つ残らない。

 しかし、奴隷として苦役を強要される立場でも、与えられる次の食事にワクワクし、希望をつないでいると聞いたこともある。
 また「奴隷は、自分につけられた鎖を自慢する」という言葉もある。
 だから、ワクワクとは何なのか? という問いは深い課題だ。
 他人を痛めつけることにワクワクする人だっている。人を騙すことにワクワクする人もいる。ワクワクは、必ずしも良いことばかりではない。

 人が人生に希望を失って自殺したりする鬱から引き戻すのに、その人にとって、ワクワクするような情報を与えることが最大の効果を発揮するのだろう。

 いったい、人間は何にワクワクするのだろう?
 ざっと思いつくのは、コンプレックスに包まれた状態から解放され、優越感に浸れること。これは深い差別社会にがんじがらめにされた者ならではの発想で、たぶんポリネシアなんかの自由で平等な社会では成立しない感情なのだろう。
 我々日本人は、上は天皇から下は死刑囚までの人間の序列支配に挟まれて、死ぬまで自分の置かれた階段の高さに一喜一憂しながら、他人を羨み、また小馬鹿にする価値観に溺れているので、誰も、心のワクワクに気づこうとしない。

 誰でも容易に、最初に考えるワクワクは、たぶん性欲を満たすことではないだろうか?
 年老いても、LGBTになっても性欲は残る。
 性交やSMプレイ、アナルセックスといった生々しい快感が、もちろん人をワクワクさせることは、ラブホテルに向かう男女の表情を見ていれば鮮明に分かる。
 みんな、何気なくしらばくれていても、強烈なワクワクを内に秘めた表情をしている。

 このワクワク感は鮮烈で、LGBTの掲示板を覗いてみると、露骨で生々しい性欲のワクワクが手にとるように分かる。見ているうちに、普段何気なく使っていた公園の駐車場なんかが出会いの場になっていて、公園のトイレに入ることも、はばかられるようになった。
 よくも、ここまでエゲツなくなれるもんだというのが正直な感想だが、これも、私が前時代の序列価値観に束縛されているからで、人間の飾らない本当の心根を示している貴重な表現なのかもしれない。

 性欲が50歳程度で消えてゆくというのは真っ赤な嘘だ。男どもは、自分の娘よりも若い女性が働く風俗店に平気で入ってゆく。世間体よりも性欲が勝っている。
 また、50歳前後にもなると世間体を気にして、エッチを想像するのも恥ずかしいことと、自分を金縛りにしてしまう男女も多いが、意思で性欲を縛り付けていても、抑圧された欲望は火山のマグマのように出口を探して彷徨っている。

 私は50歳前後で、数年間も血尿が続いて、尿の出が悪くなったりする症状があったので、前立腺癌を抑制するシテロンという男性ホルモン抑制剤を10年近くも飲み続けていたのだが、これを飲んでいると、性欲がほぼ強制的に遮断される。
 効果は実に強烈で、過剰性欲に悩んでいる人には最高だが、ただし副作用も強い。

 これは女性に対する関心が完全に消え失せる。もちろん男性に対する関心も出ない。目の前で見目麗しい若い女性が素っ裸になっていても、何一つ心を動かされない。関心が湧かないのだ。
 だから、性欲が、どれくらい性ホルモンの支配を受けているか思い知らされた。

 「やりたい、ワクワク」というものの正体は、性ホルモンだったのだ。
 シテロンは副作用で、乳房肥大が起きるので、私はLGBTに間違えられることも多い。若ければ、そのままLGBTとしての人生を送るのも一興だが、残念ながら歳をとりすぎて、「LGBT老人」を相手にしてくれる目出度い人物もいない。
 まあ、世間が求める性欲ワクワクは50歳あたりまでなので、私は遅すぎた。それでも、シテロンを中止して性欲が戻れば、女性になったつもりでレズプレイをしてみたいなんて性的妄想に苛まれることもある。

 若ければ、きっと出会い掲示板なんかに書き込んで性欲に狂っていたかもしれない。
 だが、60歳近くになって、突然、自分の心の抑制から解放されて、性欲を謳歌することに目覚める人もいる。どちらかといえば女性が多い。
 今の60歳以上の人々は、昔の封建的な男女観の影響を受けていて「はしたない」なんて自己規制感情とともに、「夫婦のあるべき姿」とか「真面目な人間性」とかの作り上げられた虚像に縛られている人が多い。

 だが、人間の本質は、何よりもワクワクと快感を求める動物なのだ。
 どんな封建的な名家の一員に収まっていても、快感を得たいという欲望から逃れることはできない。押し殺せば押し殺すほどに、心の底に欲求が渦巻いてゆく。
 ちょうど、宮本恒一の「忘れられた日本人」のなかで、有名な「土佐源氏」という本があるのだが、これなど、人間の本当の心が何をもたらすのか、実に深く示してくれる。
 人間の心に隠された真実に光を当てた名著中の名著だ。
 https://story.nakagawa-masashichi.jp/56730

 結局、人間というものは、幼い頃からすり込まれた世間体や封建的価値観による抑圧のなかで、「性欲ははしたない」という鎖に縛られて生きてきたが、ある日、その鎖が、思い込みだけで、本当は糸こんにゃくか、うどんのように簡単に壊れる虚構にすぎないと気づくと、突然、心のなかで何か爆発が起きて、60歳近い人が抑制を失った性欲に溺れるのだ。

 だが、容姿の衰えは隠しようもなく、若者たちは相手にしてくれない。狂いたくとも狂う相手がいないという焦燥のなかで、中高年、老人向けの出会いサイトは恐ろしいほど盛況で、その内容は驚くほどえげつない。
 それでも、支配者が民衆の心を支配してきた封建的虚構から解き放たれた人々が、ネットの自由な世界に触れて、人生の真実を見いだすというストーリーは素晴らしい。

 私の世代のような老人たちが、封建的価値観のくびきから解放されて、自由なセックスを楽しむということは、目指してきた「人間解放」の成果だと考えている。
 穏やかで、抑制の効いた関係もいいが、露骨な性欲に突き動かされた荒々しい性的満足もいい。変態セックスも素晴らしい。アナルでも、なんでもやったらいい。
 人生の大半をがんじがらめに束縛されてきた、ワクワクを追求することで、虚構の仮面が剥がれ落ちてしまえばいい。

 もちろん、そうした性的自由は、一夫一婦制の倫理観を根底から破壊することになる。
 だから、旦那様、奥様と仲良く人生を終えたい人は、これまでどおりの貞操価値観を大切にしてゆくことになる。
 でも社会が一夫一婦制から抜け出そうとしていることは、高知県の男女関係に現れている。
 https://master-jack.net/2018/06/02/%E9%AB%98%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%9C%AA%E5%A9%9A%E7%8E%87%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%84%EF%BC%93%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E3%80%82/

 ワクワクすることは、「自分が本当にやりたいこと」を端的に教えてくれる。
 今、ワクワクしながら夢中になって取り組んでいる仕事、食事の時間さえ忘れて、集中していること。
 これが、本当に自分の心が求めているものだ。

 なかには、変態性欲行為に夢中になっている人もいるだろうが、それはそれでよい。
 結局、ワクワクは快感の延長である。人は快感を得られることをしたいのだ。
 それが世の中を変えてゆく。
 みんなが一番快感を得られる世界を想像してみればいい。
 それは少なくとも、ナチズムや中国共産党のようなファッシズムではないはずだ。

 ヘーゲルの示した「世界は合理性に向かう=絶対精神へ」という命題も、人々がもっとも強い快感を得られる世界に向かってゆくという意味だろう。
 我々が、どういうときに快感を得ることができるのか?
 これを心の底に置いておけば、それが社会の進む道である。

 こうした意味で、船井幸雄が示した「長所伸展法=短所是正法」のメカニズムも、今では、長所伸展法がもたらす素晴らしい世界=快感の強い世界が、どれほど社会を前進させているか気づく人も多くなった。
 逆に短所是正法=叱りつける、文句を言いまくる、短所を厳しく指摘するという、およそ不快感をもたらすだけの人間支配が、社会をどれほど逆行させ、人を不幸にしているかも知られるようになった。

 これなどは、社会を規定する根底に、ワクワクと快感があることさえ理解できれば、誰にでも分かることだと思う。
 しかし、さんざん他人から文句を言われてきた人に、その恨みを他人にぶつける人もいる。そうしてワクワク感を得ているのかもしれないが、それは、自分を縛る鎖をより太く強固にするだけだ。

 自分を縛り付けている、たくさんの鎖から解き放たれよう。価値を定めるのは世間体ではない。他人の指摘でもない。ワクワクする自分の心を満足させるため、鎖を引きちぎって前進してゆくのだ。
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「悪の凡庸性」への疑問

念のために先に言っておくが、私は「悪の凡庸性」を言ったハンナ・アーレントの著作を読んだことはない。ただ、この言葉についてだけここでは論じる。
はたして悪は凡庸だろうか。
確かに、凡庸な人間が悪事を行うことは多いだろうが、それは悪が凡庸だという話になるか、ということだ。「悪が容易に行える条件がある時に、誰でも悪を容易に行う」ということは、「悪が凡庸だ」という結論に論理的に結びつくとは私は思わないわけだ。
もちろん、通常は「倫理のハードル」があって、普通の人は容易に悪を行わない。しかし、誰も目撃者がおらず、悪を行った証拠もまったく残らないという条件がある時に、悪を行わずにいることは普通人には困難だろう。
これは、バルザックの小説の中で「君がうなづくだけでシナの役人の首が飛び、君にはそれで大金が手に入るなら、君は頷かないでいられるか」と、悪党ヴォートランが見事に寓話化した問題だ。
つまり、悪を行うには行うだけの条件が必要なのであり、それは悪自体がけっして凡庸な事象ではない、ということを意味していると私は思う。
日常生活では虫も殺さない優しい人間が原爆を投下して数百万の人間を殺戮できるのも、それが戦争であり、自分はその数百万の死を目視していないという条件によるのである。
果たして悪は凡庸なものだろうか。
悪が凡庸だと言うなら、それは倫理が凡庸だ、と言うに等しいのではないか。
念のために言うが、私は「凡庸な人間でも物凄い悪事を行える」ということを否定しているわけではない。単に、凡庸な人間をそういう行為に仕向ける悪という存在の異常な力を言っているのである。凡庸な人間が悪を為すことは、「悪霊に憑りつかれる」というキリスト教的な言い方のほうが現実に近いのではないか。日本でも普通に「魔が差す」とも言う。

女性がなぜDV男やヤクザ男に惚れるのか

私は、恋愛についての女性の思考形態が理解できないのだが、下の「はてな匿名ダイアリー」記事コメントは案外的を射ていると思う。
要は、女は強い男が好き、ということで、(まあ、一般論であるが)DV男やヤクザが案外モテるのはそこだろう。で、弱い男でも演技で強そうに見せればいい、という面もありそうだ。人間というのは他者の内面などそれほど洞察できない。
もちろん、弱い男やダメ男でも女性の母性本能(というものがあると仮定して)を刺激して、好きになることもあるだろう。「めぞん一刻」の響子さんの最初の結婚も、他の女生徒たちから馬鹿にされている冴えない教師への同情心が母性本能を刺激したのではないか。大事なポイントとして、響子さんは女子高だったので、自分の美人さの価値をさほど高く感じていなかっただろう、ということがある。自己評価が高ければ、あんな結婚はしないはずだ。あるいは、三鷹のハンサムさをさほど感じてもいないところを見ると、美的感性に欠陥があった可能性もあるww

ちなみに、私は性的には引退しているので、これはただの趣味的考察である。


(以下引用)

暴力的な男はモテる

オスとして強いという証明からな。

DV男がモテるのは、「自分に平気で暴力を振るえると言うことは女に困ってないんだな。モテる優秀なオスなんだな」と女の脳が判断するから

弱者男性暴力性と加害性を高めればモテるようになるよ。

「性的なこと」を社会はなぜタブー視してきたか

私は「1+1はなぜ2なのか」のような、根本に疑問を持つことやそれを考えることが好きなので、この問題を考えてみる。
考察は、問題転載の後にする。

(以下引用)

そろそろ、「なぜ性的だといけないのか」質問していいだろうか。

(以上引用)

まず、ほとんどの先進国で性的なことはいけないとされてきた事実がある。それはキリスト教文化圏がほとんどだろうが、しかし、儒教圏でもやはり「表には出さないほうがいい」ものとして社会のモラルとなっていたわけだ。仏教圏でも色欲は戒められている。
つまり、性的なことは「社会秩序や人間関係を破壊しやすい」という共通認識があるのだろう。もちろん、性的束縛やそのモラルが人間を苦しめてもいる部分はある。
その性的な禁止や束縛の理由を考えてみると、「異性所有者の独占欲が侵害されることからの憎悪の発生」ではないかと思われる。つまり、誰でも好きなように好きな相手とセックスできる社会において社会秩序が成り立つか、ということだ。私が自分の勤める会社の社長の奥さんや娘さんとセックスして、それが許されるか、ということだ。侍社会なら、大名の奥方を平の侍が寝取って許されるか。
つまり、性的秩序は、階級や権力の維持と関係するのではないか、というのがここでの私の仮説だ。もちろん、同じ階級の者同士でも、異性の奪い合いは殺し合いになる可能性はある。
動物ですら(ゴリラだったと思うが)その集団のボスになった雄は、他の雄を皆殺しにするという話がある。(本当か嘘かは分からない)つまり、自分の種を確実に残すには、他の雄は邪魔であり、危険であるわけだ。
家とか子孫とかいう概念が希薄化したことと、フリーセックスとは強力な関係があると思う。

ここでの問題は「性的なこと」の話で、フリーセックスはその一部でしかない、という反論もあるだろうが、性的タブーの解禁は将来的にはフリーセックスに行き着くのが当然であり、場合によっては近親相姦や幼女強姦の解禁まで進む可能性もあるだろう。それは、女性の「物(モノ)化」をむしろ進めるのではないか。もちろん、そういう世界では恋愛という概念は消滅する。今の時点ですでに、女性は男性を憎悪し、あるいは軽蔑し、男性は女性を憎悪し、あるいは軽蔑する傾向がかなりあるのである。と同時に、性自体はいわば単なる性欲の「排泄」行為として市民権を拡大していくわけだ。
逆説的だが、性がタブーであるほど、性的な存在(広く言えば異性そのもの)の価値は高くなるのである。








フェミニズムにおける強姦と買春の「犯罪度」比較

米山隆一と仁藤夢乃の例の口喧嘩(まあ、論争と言うべきかww)を見ていてふと思ったのだが、女性にとって強姦と買春はどちらが罪が重いのだろうか。仁藤の米山氏への非難の凄さを見ると、女性一般にとって男の買春というのはよほど凶悪な犯罪に思えるのだろうか。妻帯者や恋人持ちの男が買春したら、そりゃあ批判していいだろうが、独身の非モテ男の買春がなぜ批判の対象になるのか、私にはそこが分からない。かえって、強姦された場合でも、それが好きな男や好みのタイプだったら途中から和姦になって、罪でも何でもなくなるのではないかwww
まあ、売買春が批判されるのは、「人間をモノとして扱う」その精神が低劣だ、というところにあるのだろうが、仕事だろうが何だろうが、カネが介在したら、そこには人間のモノ化が起こるのである。つまり、被雇用者は雇用主にとってはただの道具であり、モノだ。美しい女性でもカメラマンにとっては単なる被写体、つまりモノである。
では、売買春はなぜ犯罪なのか。最近のフェミニズムでは売春をセックスワークと言って地位を上げていると見えるのだが、買う方(男)は犯罪者扱いである。これは何なのだろうか。
なお、女性の買春は、これは男性である私には「この世にあってほしくない」ものだが、それは私がゲーテ的な意味のフェミニストだからだと思う。つまり、女性を天上的な存在として崇めたいのに、それが動物化した姿を見せるのだから。まあ、女性の買春よりは売春のほうがマシに思える。後者はカネのためで、前者は性欲のためだが、生きるためにカネの必要な境遇の女性が、どうしようもなくて売春をするのは何の罪でもないと思う。ソ連が国家解体した時に、女性の多くが売春婦になったが、それを犯罪だと責める馬鹿がいるだろうか。

(追記)まあ、上の話とのつながりがあるような無いような記事を載せておく。

JCを誘拐したイケメンのニュース、女性達でコメント欄が地獄wwwwwwwwwwwwwwwwww

 
1: 風吹けば名無し 2021/11/12(金) 12:03:55.13 ID:hEa0t1AXp
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