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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

少女というニンフェット(妖精、非性的対象)への恋愛

私は男だから、女性がこの事をどう感じるのか、感じているのか知らないが、「自分が動物であること」への嫌悪の感情は女性にもあるのだろうか。当然だ、と言うのなら、女性にはセックス嫌悪症があまり見られないようなのはなぜか。いや、たくさんいるが、マスコミではそれが秘匿されていて、あらゆる女性はセックス大好きだ、という話に改造されているのだろうか。
私にとっては、セックスとは「人間が動物でしかない事実を否応なしに突きつける試練」である。それは、性欲の満足を求める欲望が無いことはまったく意味しない。単なる美感と嫌悪感の問題だ。つまり、哲学的問題だ。偽善的連中がどう言おうと、性交のさ中には男も女も性欲の満足しか求めていないはずである。嫌悪や憎悪や軽蔑の対象である人間を相手にしても、性的絶頂は訪れるはずだ。それは感情とも知性とも無関係なのである。性交の前まではともかく、性交のさ中にそこにあるのは動物的欲望を充足したいという抵抗不可能な衝動だけだ。

さて、ここから本題だ。シュトルムに「みずうみ」という作品があり、レイ・ブラッドベリにも同名の名作短編がある。(後者は萩尾望都の見事な漫画化もある。)この後者は前者の影響で書かれたものではないか、と昨晩、シュトルムの同作品を読んで感じたのだが、どちらも、「少女への恋愛」を描いている。
少女への恋愛をロリコンと簡単に片づける向きもあるだろうが、これは恋愛とセックスを分ける大きな問題なのである。つまり、少女への愛はセックスという「人間の動物性の象徴」から切り離された高みにある、「純粋恋愛」だ、というのが、ここで私が仮定している哲学的命題である。そして、世間一般の「ロリコン」は少女を性的対象としており、この両者はまったく対極的なのではないか、というのが私の説だ。これは、ナボコフの「ロリータ」の主人公(語り手)が、恋愛対象の少女と結局は性交までしたことから来ている誤解であり、「ロリータ」の語り手のハンバート・ハンバートは、最初は相手の少女、ロリータを純粋に少女美の崇拝対象としていたのであり、性的欲望は、自分でも意識していなかったと思う。

ついでながら、SF作家(SF志向の強い漫画家も含む)にはロリコンが多いと思うのだが、それはSF作家が抽象的思考、論理的思考を好む結果だと思う。つまり、恋愛とセックスは違う、という事実(あるいは直観)から、上記の「少女愛こそ純粋恋愛である」という結論に(無意識的であっても)至るのではないか。まあ、少女愛の代わりに同性への愛を持ってきても成り立つ議論かもしれないが、同性愛も結局は性欲の満足を求めるなら、やはり別物だろう。


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媒質の存在しない「波」www

まあ、下の引用記事は「科学の嘘」だろう。波というのは媒質があって存在するのであり、媒質のない真空(本物の真空)の中で波が伝わるはずがない。光も波であるとするなら、下の解説は嘘になる。つまり、「エーテル」という、まだ人類が発見していない媒質が宇宙全体に広がっている、と見るのが正解のはずだ。これが、波と媒質の定義から来る必然的結論である。でなければ、「電磁波」や「光波」は波ではない、と定義を変えるべきである。

さらに妄想を言えば、私は、波というのは力を伝達するのではなく、力が伝達された後に起こる現象だと思っている。つまり、作用と反作用の連続だという考えだ。ただ、その「力」の種類によって、いろいろな波が起こるのだと思う。中には、「無時間」で宇宙の端から端まで到達する波もある可能性もある、と空想している。言い換えれば、A点からB点まで到達するのが波ではなく、A点とB点を「つなぐ物」が波で、そのAとBが、さらにC、D、E……と、どんどん連続して長大な波になる、という考えである。
たとえば、棒の両端で押し合う場合、A点で押した力がB点に到達するのに時間はかからない。「即時」という伝達形式もあるということだ。つまり、何かの運動には必ず時間がかかるというのは錯覚にすぎない、ということである。これが、ニュートン、アインシュタインを超える、第三の物理学革命思想である。なーんちゃって。

たとえば、絶対に曲がらない長大な棒があったとして、その両端が月と地球にあって、その一方を月で押した場合、地球でそのもう一方を持っている人間が、月でのその動きを感じるのに時間はかかるか? どのくらいの時間が? 材質の問題を度外視しての話である。ここに、「力波」とでもいうものがあって、それが棒を伝わって地球に到達するのに、時間がかかるとでもいうのだろうか。いや、「即時」で伝わるはずだ。


(以下引用)

電磁波の媒質は何ですか?
電磁波 真空中における電磁波や光波の媒質は、現在では空間そのものと考えられている。 古くはエーテルという架空の媒質が想定されていたが、アインシュタインの特殊相対性理論によって、想定の必要性は否定された(「存在しない事が完全に証明された」のではなく「存在していようがしていまいがどちらでも構わない事が判明した」の意)。

なぜ戦国武将は「男色」したか

やや、猥褻扱いされそうな内容になりそうなので、あまり人の読まないこのブログに書いておく。
それは、戦国武将がなぜ男色をしたかという問題だ。
その理由が、男色とは「後背位」だからだ、という奇矯な説を最初に書いておく。
で、もっと普通の説を述べると、性交の身体的危険性を避けるため、つまり自分の生命を守る手段が男色だったということだ。

戦国時代に女性とは「生む機械」だったというのは常識だろう。学問も無いし、社会的常識もない。単に家事・労働をし、性交相手をし、子供を産むのが女性という存在の位置付けだったのである。当然、非常時の「戦力」にはならない。
ところが、その「産むこと」が、戦国武将にとっては二律背反的な難問の種になるのである。戦国武将にとって、子供がいることは、家の存続の絶対条件であり、その点では女性は貴重だが、子供の産めない女性には存在価値はない。ところが、子供を産んだら産んだで、新たな問題が出て来るのである。それは、生まれた子供が「家の相続者」となり、その母親も権力者になることだ。とすれば、現在の「夫」は妻にとっての潜在的な「敵」になるのである。妻への愛情が薄くなれば、新たな「女」がその愛情を占有し、さらにその女が子供を産めば、その子供が家督を継ぐ可能性が高い。そうなると、「夫を殺す」ことが、妻の選択肢に入るのも理の当然だろう。夫が死ねば、自分の子供が家督を継ぎ、自分はその母親として権力を得られるのである。
ということで、戦国武将にとっての「妻(愛人としての女性含む)という存在」は非常に厄介なものだったことは自明である。

しかも、性交の場というのは、男が完全に無防備になる場である。性交の際に男の陰嚢を握り潰す(引き千切る)だけで、男は悶絶し、その生殺与奪は簡単だろう。
そこで、稚児小姓という存在が浮上する。これは、家督相続と無関係だから、君主に害意を持つ可能性は少ない。主君によって取り立てられるのだから、むしろ主君に感謝の念を持ち、忠節であるだろう。
そして、性交の相手として、「後背位」であるから、性交の際の小姓の側からの暗殺が非常に困難になるのである。

以上が、簡便に述べた稚児小姓の存在意義である。

これは、柳田国男ですら言っていない、なかなかの説ではないだろうか。

自己心理学と「トラウマ」問題

「シロクマの屑籠」記事の一部で、メモ、あるいは思考材料としての保存であるが、内容に感心したわけではない。そもそも、内容があまりに漠然としていて、コフートという人の思想がどういうものか、これだけでは分からない。
ただ、「自己心理学」と言うと事々しいが、自分自身の心理の分析というのは、私の習慣のようなものなので、関心を持っただけだ。
で、ナルシシズム(動物の「自己保存本能」と本質は同じ)が、人間の心理の核だというのは、当たり前の論だと思うが、あまり世間の人は気にしていないようだ。常に、彼らの目は外部に、特に「外部の敵」に向けられる。だから行動が支離滅裂で的外れになる。(内部の敵はひとつだが、外部の敵は複数で、錯綜した利害関係や異なる動機を持っているからだ。そもそも、相手が敵かどうかも確かではないのだから、その正しい対応は、「何もせず敵の自滅を待つ」だろう。もちろん、ビジネスの場ではそうはいかないが、ビジネスでは基本的に敵味方の区別は明白だ。そこに非人道的で悪質な合理主義の発生源もある。「あいつは敵だ。敵は殺せ」である。)

私は、「GS美神」の横島の「己れほど信じられないものがあるかー!」というのを、心理学の絶対的基礎だと思っている人間だが、その信じられない自分をいかに探求するかを趣味としている。
で、コフートとやらが何を言っているのか知らないが、この「自分自身を人は知らない」というのはフロイトが精神分析学の基礎とし、ソクラテスがその哲学の土台としたものだ。そして、そこに「無意識」という領域を精神分析学の「補助線」として置いたのは、フロイトの偉大な業績だろう。
ただし、「夢」というものに過大な意味を置いているのが、欠点ではないか、と思う。夢は昼の精神活動の残滓である、というのもフロイトが見出した偉大な発見だと思うが、それが何かの大きな精神的外傷(トラウマ)を示しているかどうかは、議論の余地があると思う。
精神的外傷は、無意識の中にではなく、繰り返し意識に上る想念の中にこそあるのではないか。私で言えば、小学校や中学校での運動(スポーツ)の場での屈辱である。これが、私を決定的に気弱な、劣等感の強い人間にしている。
スポーツとは基本的に「戦い」だから、私の「戦争憎悪」の遠因も、案外そこにあるのかもしれない。

注:「あいつは敵だ。敵は殺せ」は、埴谷雄高が、政治(あるいは政治的闘争)の根本原則として(たぶん、批判的に)言ったものである。これが、すべての戦争の(隠された)モットーであるのは言うまでもない。(「戦闘」においては、このモットーは隠されたどころか、ほとんど唯一の生存条件になる)

(以下引用)

特に重要なのがH.コフート『自己の修復』ですね。より正確には『自己の分析』『自己の治癒』も含むコフートの自己心理学三部作です。二次元でも三次元でも、遠くのインフルエンサーでも近くの先輩や後輩でも、向社会的な心理的欲求とその充足*1について、私はコフート三部作に基づいて考えています。これを下部構造として、ポスト構造主義的ないろいろが乗っかってあれこれを考えているわけです*2
 
フロイトやその弟子筋の自我心理学の述べてきた事々と比較して、コフートが創始した自己心理学・およびそのナルシシズム論は、核家族化が進行し一人世帯が増えた社会によくフィットしていると私は考えています。自己心理学は、統合失調症や双極症など明確な精神疾患を紐解くものではありません。コフートは自己愛パーソナリティ(障害)からスタートして、やがて、20世紀後半以降のありふれた個人のありふれた心理的欲求とその充足を取り扱えるナルシシズム論へと転向しました。大筋として彼は、ナルシシズムの否定でなく、ナルシシズムのメカニズムとナルシシズムの成長可能性について記しています。
   
リースマン『孤独な群衆』でいえば、フロイト時代に相当する「内部志向型人間」の次である「他人志向型人間」の心理的欲求とその充足にしっくり来るのがコフート(とその自己心理学)、といえばイメージが伝わるでしょうか。
 
そしてコフートの理論立ては、心理的欲求とその充足に際して、友達や師匠や恋人といった他者が実際にどうであるかよりも、その人自身にとってどのように体験されているのかを重視しています。ナルシシズムをみたしてくれる対象を「自己対象」と呼び、ナルシシズムがみたされた体験を「自己対象体験」とわざわざ呼ぶのもその反映です。自己対象の論立ては人間だけでなく、「萌え」や「推し」の対象であるキャラクターにも適用できます*3。私が「萌え」や「推し」について語っている時は、必ずといって良いほど背景にはコフートの論立てがあり、その人自身にとってキャラクターがどのように体験されているか、ひいてはどのような心理的欲求のニーズに基づいて、どのように欲求充足が行われているのか(または欲求充足がうまくいかなかったのか)を念頭に置いてしゃべっています。
 
ただし私は、そのコフートと自己心理学も絶対的なものでなく、相対的なものだとみなしています。たとえば、さきほど挙げた『孤独な群衆』でいう「内部志向型人間」の時代にはコフート三部作はあまり有効ではなく、フロイトのほうがしっくり来るのではないでしょうか。狩猟採集社会にもコフート三部作は不向きでしょう。
 
私は精神分析諸派がわりと好きですが、ひとつの精神分析モデルを絶対視するより、時代や社会によって相対化され得るモデルとみるのが好きです。そうしたわけで、私がコフートに基づいて「萌え」や「推し」について考える際にも「でも、これって核家族化や一人世帯化の進んだ社会の話ですよね?」というリミテーションをいつもくっつけています。そういうリミテーションの話も本当はもっとしたいですが、まだできていません。その話は21世紀後半の社会状況に見合った精神分析モデルがどんなものなのか、考えることにも通じているでしょう。

無駄になった「準備行為」の貴重さ

勝海舟もよく散歩をしたらしく、しかも磁石を手にしての散歩だったという。つまり、町の地形や状況、状態の把握が散歩の目的のひとつだったわけで、その心底(しんてい)には、外国との戦争、あるいは維新派と佐幕派の戦争が想定されていただろう。江戸城引き渡し会談の際にも、前もって江戸が戦場になることを想定し、身近な火消しの親分にその対策を伝えていたという。
「無駄になった(災害への)準備」ほど素晴らしい行為はない。馬鹿は、その無駄さを批判する。その結果のひとつが、能登大震災だ。

(以下引用)

2024-01-19 11:54:24
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最近、散歩をよくします。

 

歩いて「避難」することになるときのための体力作りを兼ねて…

 

そして、あちこち歩いて「土地勘」を身につける…

 

給水施設とか、消防とか、コンビニとか…どこに何があるかを覚えていく。

 

あるいは、火元になりそうなところとか、事前におさえておく。

 

 

歩けば、いま履いている靴が、足に合っているかとかもわかってくる。

 

いざとなったら…

 

トイレはどうしよう?

 

水は?食料は?

 

缶詰はなにがいい?

 

カセットコンロとかあるといい?

 

軍手やポリ手袋、ゴミ袋、断熱シート、毛布…

 

全部は、持ち運べない…ならば、最低限、どれにする?

 

 

母は、いろいろ菓子がもらえて単純に喜んでいるが…

 

食料備蓄の一環での試みとは、わかってはいない…

 

 

「避難」を考える人もいますが、

 

日本に安全な場所なんてないです。

 

 

それよりも…その土地をよく知り、そこでの「つながり」を強化すべきでは?