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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

セックスワーク擁護(容認)論の危険性

「紙屋研究所」から記事後半を転載。(長い記事なので前半は割愛)
セックスワークにおける、当人の人生をマイナスにするから反対、という姿勢は古風なのかもしれないが、下に書いてあることも、セックスワークを容認するより、セックスワークをしなくても女性が子供を育てながら生きられる余裕のある給与を貰える社会にする方向に行くべきだろう。
安易なセックスワーク容認論は、社会の暗部をより巧妙で悪質なものにする可能性が高いと私は思っている。
共産党系の人間は昔から「フリーセックス」容認の傾向が、なぜかある。それは「私有財産は悪だ」したがって「女性の私有財産化(独占)は悪だ」という論理だろう。しかし、結婚という制度は、女性(男性)が老化し醜くなっても、最後まで相手と連れ添うという強烈な束縛を持っているのである。これは相手を愛するという行為に「最大の責任を取る」ことだと思う。

(以下引用)

 福岡市議会での態度に限らず、国会では共産党と立憲民主の議員が当時、「ナイト産業を守ろうの会」と共同して動いていた。

www.buzzfeed.com

 こうした国会や福岡市議会での左翼・リベラル系議員、まあ特に共産党議員の実際の姿を見て、「性風俗業は性的搾取である」という原理論を先に立てて全て切り捨ててしまうのではなく、具体的に目の前で困窮している問題で、やはり具体的に解決策を見出し、共同する、という真骨頂を見た思いがした。

 その時のぼくの、いわば「感動」が次の文章になった。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 そこでもアナロジーとして書いたのだが、マルクスの理論から言えば中小企業であっても労働者を搾取している。しかし、では共産主義者は中小企業家や中小業者と敵対するのかといえば、そんなことはなく、むしろ一貫して革命の統一戦線の担い手、つまり社会を変えるパートナーとして中小企業家たちと協力関係を結んでいる。「社長」をやっている共産党員は決して少なくない。搾取は法律で根絶できるものではなく、剰余価値を社会がコントロールできるようになった時に、すなわち、社会の仕組みとして搾取を「克服」した時に、初めて「なくなる」のである。法律で「禁じ」ればなくなるというものではない。

 法律上の狭義の「強制」や「暴力」については当面厳しく規制をくわえながらも、働いている現場を改善すること、職場をよくしていくことは十分共同できるはずである。

 同じことは「性的搾取」でも言えないだろうか? それがぼくが書いた一文の趣旨であった。

 

 AVや性産業においてそれが働いている人にとって「強制」かどうかよく議論になる。お金のために「嫌々やらされている」のだ、という問題だ。*2

 それは労働一般に関しても同じで、マルクスは、労働者は自分の労働力商品を「売らざるを得ない」というある種の「強制」的状況に置かれているのであるが、当の労働者は必ずしも「嫌々」労働しているわけではない。もちろん『蟹工船』のような現場もある。しかし、自分の労働に誇りや生きがいを持って労働者が働いていることは非常によくあることである。

 「誇りや生きがいをその労働者が感じながら働いていること」と、「その労働者が搾取されている現実」は両立する

 逆に言えば、「やりがいを持って働いているんだ! 『お前は搾取されている』なんて失礼じゃないか!」とマルクスを怒鳴ることはできない。主観的にどう思おうが、学問の目で見て客観的な状況を規定することはできるからだ。

 マルクスは、搾取を法律によって「根絶」「禁止」しようとしたのではなく、社会そのものを大きく変えることで解決しようとしたし、また、社会が発展して法則的に解決されるだろうという見通しを示した。

 ノンフィクション系のコミックである蛙野エレファンテ『AV男優はじめました』には、筆者(蛙野)が仲良くなったAV女優としっぽりと飲んで話している時に、その女優が、

「騙されて嫌々やらされているんでしょ?」って言う人いるの!(略)

嫌々やってできるような仕事じゃないのに!

と憤るシーンがある(4巻p.122)。

 「騙されて嫌々やらされている」と言う人、そうでなく誇りを持ってやっている人、その中間の人――意識の状況では様々であろう。それは労働一般にも言えるはずである。「誇りを持ってやっている」という事実や意識を否定する必要もないし、逆に「騙されて嫌々やらされている」という事実や意識を否定する必要もない。

 その上で、性を商品とする産業に対する理論的な評価はお互いに探求すればいい。

 だけど、問題は、当の(ぼくをふくめた)共産主義者が、そうした労働・仕事についての根源的な理論的評価がさまざまあったとしても、当面の具体的な問題で共同するという「仕草」が実際に取れるかどうかがものすごく大切なのだと思う。

 

 「中小企業の社長というのは、資本家であり搾取者ではないか!」などと言って、敵対する態度をもし日本共産党がとってきたら今日の日本共産党はないだろう。民主商工会中小企業家同友会の人たちと真剣に手を組んでいる同党の姿が今日の到達を築いてきた。他方で、労働者を違法にいじめる「ブラック企業」に対しては容赦がない。

 そういうような使い分けが性産業でもできるはずであり、このナイト産業をめぐる請願の経緯はその明るい可能性を感じさせるものであった。

 

 

 『マンガ論争24』における荻野幸太郎・うぐいすリボン理事との対談の際に、左派やリベラルの界隈から紙屋のような立場への反発はないのかという問いに対して、ぼくは次のように答えた。

最近、ちょっとあったのは、セックスワーカーの問題についてですね。セックスワークは絶対駄目なのかっていうことについて同人誌に書いたことがあったんですが、そうしたらセックスワークの容認は絶対に駄目だという反論みたいなものがあった。しかしそれはぼくから見ると性急な感じがするんです。いろいろな立場の学者がいて、考え方も分かれているのに、特定の立場の学者の意見だけを引用して、容認は絶対にあり得ないと簡単にまとめてしまうというのは、キツいなと感じました。(p.35-36)

 「セックスワーク(容認)論は絶対にダメ」という原理論を先に立ててしまって、共同の可能性をふさいでしまうのは、あたかも「資本主義的搾取容認は絶対にダメ」という原理論を先に立てて、共同の可能性を否定してしまうことに似ている、とぼくは危惧したのである。

 

 このような一部に生まれた「原理主義的態度」は克服されていくのではなかろうか。政治は根源的な理論の見通しを持ちながら、それと整合性を保ちつつ、共同を広げ、「敵・友」のうちの「友」を広げていく技術である。*3

 克服されつつあるし、克服されるに違いない。

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精神の資本主義とセックスワーク

或る種のフェミニズム運動における「セックスワーク擁護論」に関する内田樹の論考の一部である。長いので、面白く感じた部分だけ転載する。論理的には他の部分のほうが明晰だが、この部分に女性の「性的自由」のパラドックス(それは「肉体の道具化」から生じている)が指摘されていて面白いからだ。内田の論自体には、まだ不十分な印象があるが、それがなぜかは「現代倫理学」の一部としていずれ考察したい。
売春を実行中の女性が客を軽蔑している、という視点は非常に重要だと思う。これは、女を買う男自身も自己軽蔑をしているのである。つまり、「欲望の動物」としての猿のような自分のどこにも、売春の場では高貴性が無いからだ。しかし、それは売春をする女性が見下げる資格があるというわけではない。性欲があるのは男も女も同じであり、性交の場ではどちらも動物なのである。つまり、「カネを払う」ことで、男は自分が相手より下の存在であるとされるわけだ。まさに、資本主義化された精神の一面だろう。

(以下引用)

4・
 上野千鶴子は小倉千加子との対談で、売春は女性にとって貴重な自己決定機会であるという議論を展開している。

「小倉:そしたら上野さんは、援助交際する女の子の気持ちも分かりませんか?
上野:わからないことはない。ただではやらせないという点で立派な自己決定だと思います。しかも個人的に交渉能力を持っていて、第三者の管理がないわけだから。(・・・) 援交を実際にやっていた女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしていました。男から金をとるのはなぜか。『金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ』ということをはっきりさせるためだ、と。(・・・)『私はあなたの所有物でない』ことを思い知らせるために金を取るんだ、と彼女は言うんです。」 (上野千鶴子、小倉千加子、『ザ・フェミニズム』、筑摩書房、2002年、231頁)

 上野は知識人であるから「政治的に正しいこと」を言うことを義務だと感じている。だから、ここで上野は売春を単に「容認する」にとどまらず、それが端的な「父権制批判」の「みごとな」実践であることをほめ称えることになる。自分が容認するものである以上、それは「政治的に正しい」ものでなければならない。それは上野の意思というより、上野が採用した「論理の経済」の要請するところである。
 たしかに売春こそ父権制批判の冒険的実践の一部であるとみなすならば、フェミニスト廃娼論をとらえたピットフォールは回避できる。しかし、「政治的な正しさ」を求めるあまり上野は売春をあまりに「単純な」フレームの中に閉じ込めてしまってはいないか。
ここのわずか数行で上野が売春について用いているキーワードをそのまま書き出すとその「単純さ」の理由が分かる。
「自己決定」「交渉能力」「第三者」「管理」「金」「金」「所有物」「金」。
 これが上野の用いたキーワードである。ご覧の通り、ここで上野はビジネスターム「だけ」を使って売春を論じている。上野にとって、売春はとりあえず「金」の問題なのである。「金」と「商品」の交換に際して、「売り手」が「買い手」や「問屋」に収奪されなければ、 それは父権制的収奪構造への「みごとな」批判的実践となるだろう。
 たしかに話はすっきりしてはいる。だが、すっきり「しすぎて」はいないだろうか。
 ここでは売春について私たちが考慮しなければならない面倒な問題が看過されている。
それは「身体」の問題である。
 売春する人間の「身体」はここでは単なる「商品」とみなされている。だが、身体を換金商品とみなし、そこから最大のベネフィットを引き出すのが賢明な生き方であるとするのは、私たちの時代における「ドミナントなイデオロギー」であり、上野が批判している当の父権制を基礎づけているものであることを忘れてもらっては困る。
 私たちの時代においてさしあたり支配的な身体観は「身体は脳の欲望を実現するための道具である」というものである。
 耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れるのも、身体的には不快な経験のはずである。そのような行為が「快感」としてあるいは「政治的に正しい」実践として感知されるのは、脳がそう感じるように命じているからである。身体が先鋭な美意識やラディカルな政治的立場の表象として、あるいは「金」と交換できる商品として利用できると脳が思っているからである。
「金」をほしがるのは脳である。当たり前のことだが、身体は「金」を求めない。
 身体が求めるのはもっとフィジカルなものである。やさしい手で触れられること、響きのよい言葉で語りかけられること、静かに休息すること、美味しいものを食べること、肌触りのよい服を着ること・・・身体は「金」とも「政治的正しさ」とも関係のない水準でそういう望みをひかえめに告げる。だが、脳はたいていの場合それを無視して、「金」や「政治」や「権力」や「情報」や「威信」を優先的に配慮する。
 私は脳による身体のこのような中枢的な支配を「身体の政治的使用」と呼んでいる。
 上野が援交少女において「自己決定」と名づけて賞賛しているのは、この少女の脳がその身体を、彼女の政治的意見を記号的に表象し、経済的欲望を実現する手段として、独占的排他的に使用している事況である。少女はたしかにおのれの性的身体の独占使用権を「男たち」から奪還しただろう。しかし、それは身体に配慮し、そこから発信される微弱な身体信号に耳を傾け、自分の身体がほんとうに欲していることは何かを聴き取るためではなく、身体を「中間搾取ぬきで」100%利己的に搾取するためである。収奪者が代わっただけで、身体が脳に道具的に利用されているというあり方には何の変化も起こっていない。
 セックスワーク論は売春の現場においては、売春婦の生身の身体を具体的でフィジカルな暴力からどうやって保護するかという緊急の課題に応えるべく語りだされたもののはずなのだが、それを「売春は正しい」という理説に接合しようとすると、とたんに「生身の身体」は「道具」の水準に貶められる。
「金を払っていないあいだはあなたのものではないよ」と宣言することは、「金をはらっているあいだはあなたのものだ」ということに他ならない。だが、それは世界娼婦会議の売春婦たちが望んでいる、「金をはらっているあいだも、はらっていないあいだも」、売春が違法であろうと合法であろうと、人間の身体に対しては無条件にそれに固有の尊厳を認められるべきだという考え方とはずいぶん狙っているところが違うような気がする。

5・
 身体を道具視した視座からのセックスワーク論は、上野に限らず、身体を政治的な権力の相克の場とみなすフーコー・クローンの知識人に共通のものだ。次の事例はその適例である。売春容認の立場を鮮明にしている宮台真司のインタビューに対して、東大生にして売春婦でもある女性は売春の「効用」を次のように熱く語っている。

 「いろいろ経験したけど、自分の選択が正しかったと今でも思います。ボロボロになっちゃったから始めたことだったけれど、いろんな男の人が見れたし、今まで信じてきたタテマエの世界とは違う、本音の現実も分かったし。あと、半年も医者とかカウンセラーとかに通って直らなかったのに、売春で直ったんですよ。(・・・)少なくとも私にとって、精神科は魂に悪かったけれど、売春は魂に良かった。(・・・)私は絶対後悔しない。誇りを売っているわけでもないし、自分を貶めているのでもない。むしろ私は誇りを回復したし、ときには優越感さえ持てるようになったんですから。」 (宮台真司編『〈性の自己決定〉原論』、紀伊国屋書店、1998年、279頁)

 彼女の言う「誇り」や「優越感」はやや特殊な含意を持っている。というのは、この大学生売春婦が「優越感を感じた」のは次のようなプロセスを経てのことだからだ。

 「オヤジがすごくほめてくれて。体のパーツとかですけど。それでなんか、いい感じになって。今までずっと『自分はダメじゃん』とか思っていたのが、いろいろほめられて。(・・・) 最近になればなるほど優越感を味わえるようになって、それが得たくて。オヤジが『キミのこと好きになっちゃったんだよ』とか、『キミは会ったことのない素晴らしい女性だ』とか・・・。まあ・・・いい気分になっちゃいました。(・・・) オヤジは内面とか関係なく、私の体しか見てないわけじゃないですか。『気持ち悪いんだよ、このハゲ』とか思っているのも知らずに、『キミは最高だよ』とか言ってる(笑)。」(同書、276-7頁)

 上野が挙げた援交少女とこの学生売春婦に共通するのは、いずれも自分を「買う男」を見下すことによって、「相対的な」誇りや優越感を得ているということである。彼女たちは彼女たちの身体を買うために金を払う男たちが、彼女たち自身よりも卑しく低劣な人間であるという事実から人格的な「浮力」を得ている。
 しかし、これは人格の基礎づけとしてはあまりに脆弱だし退廃的なものだ。私たちが知っている古典的な例はニーチェの「超人」である。ご存知のとおり、ニーチェの「超人」は実定的な概念ではない。それは自分のそばにいる人間が「猿にしか見えない」精神状態のことを指している。だから「超人」は「笑うべき猿」、「奴隷」であるところの「賤民」を手もとに置いて、絶えずそれを嘲罵することを日課としたのである。何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動をニーチェは「距離のパトス」と呼んだ。その嫌悪感だけが人間「自己超克の熱情」を供与する。だから、「超人」へ向かう志向を賦活するためには、醜悪な「サル」がつねに傍らに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが不可欠となる。
 上野の紹介する「みごとな」援交少女と宮台の紹介する「誇り高い」売春婦に共通するのは、買春する男たちが女性の身体を換金可能な「所有物」や観賞用「パーツ」としてのみ眺める「サル」であることから彼女たちが利益を得ているということである。ニーチェの「超人」と同じく、彼女たちもまた男たちが永遠に愚劣な存在のままであり続けることを切望している。それは言い換えれば、父権制社会とその支配的な性イデオロギーの永続を切望するということである。
 この学生売春婦は性を「権力関係」のタームで語り、上野の「援交少女」は「商取引」のタームで性を語る。「権力関係」も「商取引」も短期的には「ゼロサムゲーム」であり、ゲームの相手が自分より弱く愚かな人間であることはゲームの主体にとって好ましいことである。だから、彼女たちが相対的「弱者」をゲームのパートナーとして選び続けるのは合理的なことである。しかし、彼女たちは、長期的に帳面をつけると、「自分とかかわる人間がつねに自分より愚鈍で低劣であること」によって失われるものは、得られるものより多いということに気づいていない。
 宮台によれば、「昨今の日本では、買う男の世代が若くなればなるほど、金を出さない限りセックスの相手を見つけられない性的弱者の割合が増える傾向にある。」 女性が「ただではやらせない」ようになり、そのせいで男性が「金を出さない限りセックスの相手をみつけられない」という状況になれば、たしかに性的身体という「闘技場」における男の権力は相対的に「弱く」なり、性交場面において女性におのれのわびしい性幻想を投射する「オヤジ」の姿はいっそう醜悪なものとなるだろう。当然それによって「今まで信じてきたタテマエの世界」の欺瞞性が暴露される機会が増大することにもなるだろう。だから、性的身体を「権力」の相克の場とみなす知識人たちが、売春機会(に限らず、あらゆる形態での性交機会)の増大に対して好意的であることは論理のしからしむるところなのである。
 しかし、私は依然として、この戦略的見通しにあまり共感することができない。
「自分より卑しい人間」を軽蔑し憎むことで得られる相対的な「浮力」は期待されるほどには当てにできないものだからだ。仮にもし今週一回の売春によってこの学生売春婦の優越感が担保されているとしても、加齢とともに「体のパーツ」の審美的価値が減価し、「オヤジ」の賛辞を得る機会が少なくなると、遠からず彼女は「餌場」を移動しなければならなくなる。他人を軽蔑することで優越感を得ようと望むものは、つねに「自分より卑しい人間が安定的かつ大量に供給されるような場所」への移動を繰り返す他ない。
「東電OL殺人事件」の被害者女性がなぜ最後は円山町の路上で一回2000円に値段を切り下げてまで一日四人の売春ノルマに精勤したのか、その理由はおそらく本人にもうまく説明できなかっただろう。私たちが知っているのはこの女性が「学歴」と「金」に深い固着を有していたということ、つまりその性的身体のすみずみまでがドミナントなイデオロギーで満たされた「身体を持たない」人間だったらしいということだけである。
 
 これらの事例から私たちが言えることは、売春を自己決定の、あるいは自己実現の、あるいは自己救済のための機会であるとみなす人々は、そこで売り買いされている当の身体には発言権を認めていないということである。身体には(その身体の「所有者」でさえ侵すことの許されない)固有の尊厳が備わっており、それは換金されたり、記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるという考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人たちにもひとしく欠落している。性的身体はこの人々にとってほとんど無感覚的な、神経の通わない「パーツ」として観念されており、すべすべしたプラスチックのような性的身体という「テーブル」の上で、「権力闘争」のカードだけが忙しく飛び交っている。だが、この絵柄は私たちの社会の権力関係と商取引のつつましいミニチュア以外の何ものでもないように私には思われる。権力闘争の場で「権力とは何か?」が問われないように、経済活動の場で「貨幣とは何か?」が問われないように、性的身体が売り買いされる場では「身体とは何か?」という問いだけが誰によっても口にされないのである。

誰もが不快に思いながら、誰も言葉に出さない不行儀

些細な問題だが、公衆道徳のレベルは人によって違う。行列への割り込みなど、平気でできる人間もいれば、絶対にやらない人間もいる。
基本的に、用があって列を離れたら、戻ってきたら最後尾に並ぶのが当然だと思う。逆に、割り込みをしてほんの少しの時間のメリットを得て、人生に何の得があるのか。下品さの垢を心に重ねるだけである。

2006/12/22 22:32

6回答

順番待ちで代表者が先に並び後から友達が横入りするの頭にきます?

政治、社会問題・11,538閲覧

6人が共感しています

ベストアンサー

呉下の阿蒙(ごかのあもう)

2006/12/22 23:51(編集あり)

12人がナイス!しています

質問者からのお礼コメント

体験談を教えていただきありがとうございました。

お礼日時:2006/12/23 18:45

「恋とは何でしょう」

徳川夢声の「問答有用」の中で、女郎買いの好きな教師の話が出て来るが、女郎を買った翌朝、顔なじみの生徒の家で着替えをして、学校に行って修身の授業をしたそうだwww
夢声がそれに対して「女郎を買った後は聖人君子みたいな心境になりますからねえ(笑)」と言うのだが、これは男における女郎買いの意味合いをよく示していると思う。つまり、ただの生理現象である。顔のいい女郎を好むにしても恋愛ではない。
逆に、女性は非常に売買春を嫌悪し非難するが、恋愛を非常に好む。絶え間なく恋愛していたい、とすら思うようだ。つまり、次から次へと新しい恋愛をするわけだ。
これは男の女郎買いと何が違うのだろうか。単に金銭が介在していないだけだ、という考えもあるが、実はプレゼントの贈答などでの金銭は介在している。これは女郎買いなどとは違う高尚なものとみなされるらしいwww
女性のホスト狂いも、あれは性欲ではなく恋愛だ、と推定できる。つまり、女性の恋愛幻想を満たすのがホストという売春夫なのだろう。上手い者は性交の相手もせず、カネだけ搾り取る。それで女性の側も満足するわけだ。
女性が売買春における金銭の介在を嫌うのは、実は単にケチだからという見方もできそうだ。「恋愛能力」が高ければ金銭不要で恋愛も性交もできるのだから、金銭を使うのは馬鹿げているというわけだ。まあ、恋愛における性交の存在価値が女性にとってどの程度のものかは男性である私には分からないが、少なくとも恋愛要素のほうが大事だ、とは言えるのではないか。
私が特殊性格なのか分からないが、私などは性交の前後に口説きや事後の愛撫などを期待されるとうんざりする。まあ、恋愛をしていれば話は別で、性交自体が二義的なものになるのだろうか。しかし、射精後の「聖人君子」の心境でいる時に、横にいる女の裸などまったく触れる気持ちにもならないのが自然なのではないかwww

で、恋愛とは何ぞや、という問題だが、次から次へと相手を代えて恋愛するというのは、それは恋愛と言えるのだろうか。年を取っても恋していたいと馬鹿な女の言うあれだ。私などの感覚では、恋愛というのは一生に一度のものであり、別の恋をするなら、前の恋も後の恋も恋愛でも何でもない、ただの恋愛ごっこか浮気か性的冒険だと思う。念のために言えば、恋愛は結婚に必須のものだとはまったく思わない。結婚は、その相手とこれから死ぬまで共同生活をするという契約だと思っている。そこには「相手が不快ではない、むしろ好ましい」という気持ちはあっても、燃えるような恋愛などむしろ「将来の崩壊要素」だと思っている。
つまり、恋愛も結婚もどちらも「once in a life」だというのが私の考えで、そのふたつが同じ相手であれば結構だが、そうでなくてもどちらも「生涯に一度だけ」であるのが理想だろう。



「閉じたもの」と「開いたもの」

ベルクソンについての林達夫の文章の中に出てきた

「閉じた道徳、開いた道徳」「閉じた宗教、開いた宗教」

という言葉、いや、その概念は(その内容は知らないが)新しい「倫理学」を考察する上で重要な概念になりそうな気がするのでメモしておく。

倫理も宗教も基本的に「閉じたもの」だろう。つまり、固定的で変更不可能なものである。それに異を唱えるものは新しい宗派や新しい宗教を打ち立てるしかない。では、「開いた」倫理や「開いた宗教」は可能か、あるいはその意義はどうなのか、考察する価値がありそうだ。