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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

我々は「世界に対する信仰と希望」を持っているか

小谷野敦の「退屈論」の解説(野崎歓)の中に、ハンナ・アーレントの次の言葉が引用されている。


(以下引用)

「わたしたちのもとに子どもが生まれた」という言葉こそは、世界に対する信仰と希望を告げる最高の表現である。      (「人間の条件」)

(引用終わり)

「世界に対する信仰」という言葉が素晴らしい。我々は今、世界に対する信仰と、そして希望を持っているだろうか。先進国のすべてで少子化が起こっていることは、人類の多くが世界に対する信仰と希望を失ったことを示しているのではないだろうか。

世界は、挑戦し改革し支配する対象ではなく、「信仰」すべきものかもしれない。なぜなら、それは無限の神秘に満ち、無限の美に満ち、あらゆる生き物に無限の恩恵を与える存在だからだ。
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「無意識のバイアス」が生じる理由

「紙屋研究所」から転載。
正直言って、私は差別問題にはあまり興味が無いので、これは思考課題として保存するだけである。
私が指摘したいのは、差別する側の「差別の快感」と「差別という娯楽」の点である。そこを追求しないと、差別の根本的解消はできないのではないだろうか。他者を劣った存在とみなし、自分を優れた存在と思うことは、誰にとっても快感なのである。つまり人間の普遍的心性だ。そこにこそ「無意識のバイアス」が生まれるのではないか。

(以下引用)

ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』

 リモート読書会は、ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店、山岡希美訳、 高史明解説)。

 

 

 著者・エバーハートの主張する「無意識のバイアス」のメカニズムを正確に理解することがまずは必要だ。

  1. 格差社会(差別社会)の中で大量の格差・差別的現象に触れることによって
  2. 脳の器質的なしくみ・構造によって引き起こされる

…というものだとぼくは理解した。

 大量の差別現象の中で起きる脳の構造によるものである以上、そういうバイアスを持ってしまうのは、その人が思想的な差別主義者だからではない。あるいは心の奥底に差別意識を持っているからではない。誰にでも起こりうることなのだ、とエバーハートは言う。

潜在的なバイアスは人種差別主義の別名ではない。実際、潜在的なバイアスの影響を受けるのに、あなたが人種差別主義者であるかどうかは関係ないのだ。潜在的なバイアスは私たちの脳の構造と格差社会がつくり出した歪んだレンズのようなものである。

(ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス人はなぜ人種差別をするのか』KindleNo.123-125) 

 ぼくは、この本を読んで、表題から想像される「バイアスが引き起こされる自然科学的なメカニズム」のようなものにはあまり関心を持たなかった。

 一番ぼくにとって「驚き」だったのは、米国の黒人を取り巻く状況が、依然差別的なものであるというエバーハートの説明、彼女が説く米国における黒人の状況、というものに一番「驚いた」のである。それが本書を読んでのぼくの最大の「収穫」だった。

 ぼくなりに読み取ったのは次の4点である。

  1. 黒人は依然として米国社会で警察から不当な扱いを受け、一瞬で殺されるかもしれないという危険にさらされた意識を持っている。
  2. 刑事司法においても不利に扱われ、長い拘留で借金を背負うかも、失業するかも、親権を失うかも…という不安にさらされるあまりに、それを回避するために、してもいない罪を認める「自白」をしてしまう。
  3. コミュニティや教育において依然として実質的な隔離が行われている。
  4. ビジネスや採用の場面において、黒人差別は事実上行われている。

 え? お前、つい最近起きて全米・全世界が震撼したジョージ・フロイド殺害事件やその後に起こったBLM運動をまさか知らないの? と言われそうだけども、1.〜4.をとトータルに聞くことで、黒人への差別・抑圧構図が依然として、黒人の日常的な意識を支配し規制するほどに強力なものだという認識が構成された。逆に言えばそういう認識がなかったのである。つまり早い話が、「差別はもうだいたい終わったのではないか」。これだけ衝撃を受けている、ということはぼくは結局その程度の認識をしていたということなのだろう。

 これは日本ではたぶんポイントになる点で、本書の解説でも、黒人社会の差別の現状への認識が「BLM運動への冷笑」を生んでいると述べている。

 ぼくは福岡で行われたBLMを叫ぶデモにも参加した。

 しかし、あらためて米国の黒人差別の状況の皮膚感覚について問われるなら上記のような有様なのだ。

 読書会参加者のPさんは米国で暮らしていたことがあり、黒人が暮らしている区画の状況やたいていの黒人の子どもが処世術として警察への態度を親からどう教えられるかなどについて話があった。

 もう一人の参加者Qさんは、荻上チキが本書を紹介していたのを聞いて、この「無意識のバイアス」の解決策に興味・関心を持って本書を読んだことを紹介した。

 Qさんは、本書の中で「賢明なフィードバック」という介入に注目していた。

 単なる日記を書かせたグループと、自分のアイデンティティや価値観に関わることをふりかえらせる日記を書かせたグループとでは後者の方が「明らかに高い成績を収めていた」。

この研究は特に、早い段階での学力不振に対し、より大きな心理的脆弱性を示す黒人の学生において、心理状態と学習過程の関連性を裏づけている。肯定感の利点は、平均以下の学力で最も苦しんでいる成績の低いアフリカ系アメリカ人の子どもたちの間で最も顕著であった。彼らにとって、早い段階で受ける落第点は「他の子たちほど頭がよくない」「学校ではよい成績がとれない」というステレオタイプを確証するものとして認識される恐れがある。価値観の肯定課題によって、自らの妥当性に対する感覚を回復させ、心理的ストレスを軽減させ、成績不振へ至る悪循環を断ち切ることができた。(前掲書KindleNo.3375-3380)

 さらに同じような介入として「賢明なフィードバック」がある。

 白人の教師から同じように作文の課題を与えられた黒人の生徒群と白人の生徒群をつくり、批判的なコメントをつけながら「もっとできるはずだ」というメッセージを送ると、再提出の割合が黒人群で大きく伸びた。内容も優れていた。これは黒人群ではそういう明示的な安心感・信頼感を渇望している、という解釈ができるのだと言う。

 Qさんは、「これって生活綴り方運動みたいだと思った」と述べた。自分にとって忘れがたい体験となった小学校のクラスでは先生が作文を書かせて自分の生活を見つめなおさせていた。生活を客観的に捉えさせ、そこに必要な教育的介入を与えることで、得難い体験をクラスとしてした、今でもそのクラスのことは忘れない、とQさんが述べた。

 実は、Pさんもエバーハートが刑務所で囚人たちに作文を書かせてそこに批判的なコメントをつけて激励したところ、ものすごく熱い反応が返ってきた箇所に心を打たれていた。

 PさんもQさんも、こうした差別問題に与える教育の介入というものの力に強い感動を覚えたのである。

 ただ、ぼくはそこには少し距離があった。

 それらのエピソードは、差別されている側、つまり打ちひしがれ、尊厳を失わされている人たちにとって教育は大きな力を発揮するという証明ではあるが、差別する側のバイアスを正す力に果たしてなるかどうかは疑わしい。仮になるにしても、そうした丁寧な教育や啓発によって変えられる部分は、限られている上に、なかなか手間がかかる。いや…確かに特効薬はないのだから、手間がかかるし、初めは限定的なものなのだろう。それを倦まず弛まずやるしかないのかもしれない。

 

 ぼくは、解決策として注目した部分についていえば、多様な人たちとの交流は、交流自体では偏見の除去の解決にはならず、逆に偏見を強化してしまう恐れもある、という本書の主張であった。

当時、人種バイアスは一般的に無知の産物であると考えられていたのだ。そこで、人々を互いに交流させるだけで、誰もが大まかなステレオタイプを個々の名前、顔、事実に置き換えることができ、敵対的な人種的態度を和らげることができると考えられていた。バイアスの壁が緩和されれば、社会的統合は少数派の台頭を可能にするであろうと。……

しかしながら、バイアスへの解決策を約束した学校の人種的統合は、主唱者たちが予想していなかった障壁をもたらすことになった。結局のところ、ただ単純に同じ教室に座っているというだけでは、時代遅れの偏見はなくならないのだ。……

他の人が信頼する権威のある教師から、日常的に軽蔑されることで、不平等の規範が支持されているのである。……

交流は衝突を改善するのではなく、悪化させる可能性があることを発見した。

(前掲書KindleNo.3138-3163)

 

 エバーハートが紹介する「単なる交流」の中で起きていた教師による差別は相当に露骨なものである。今日これほどの差別が許容されているとは思えないのだが、エバーハートが別のところで書いているように、「無意識のバイアス」はちょっとした表情やしぐさの中に現れ、それは社会的に伝染してしまう。だから、この部分は解決策を書いているというよりも、「交流により解決する」という「解決策」のナイーブさを指摘している箇所として読んだ。

 それは、黒人の話ではないが、例えば、日本で「同じ偏差値のような人々だけでなく多様な人がいる学校やクラスの方がいい」という主張が一理ある反面で、かえって差別感覚を助長してしまう難しさについても考えてしまった。そこにはやはり意識的な教育介入がなければ、偏見を強化してしまう危険があるのだろう。

 

 という具合に、ぼくは本書に何か解決策を見出した、という読み方をしなかったし、できなかった。差別についての現状、起きる仕組み、解決の難しさについてむしろ思い知らされるような一冊となった。

若い女性はなぜBL漫画やBL小説を好むのか

私にとっての長年の謎は、少女漫画はなぜあれほど男性同性愛に関心を持ってきたのか、という問題だ。その答えが、前にも引用した小谷野敦の「聖母のいない国」の中に出ていたので、引用する。これは小谷野自身の言葉ではなく、中島梓(栗本薫)の言葉(要旨)らしい。

「それは思春期を迎えた少女たち、そしてそれがやや成長した若い女たちの、女性性からの逃走である」「ゲイを描き鑑賞している限りにおいて、彼女らは自らのセクシュアリティに直面せずに済む」

これは自分自身でもBL小説を書いて同人誌などを主宰していた栗本薫の言葉だけに、かなりの信頼性があるのではないか。つまり、知的な女の子たちが架空の舞台で「男をおもちゃにして遊ぶ」遊びがBL小説やBL漫画なのではないか。その裏側には、彼女たちが自らのセクシュアリティ(適切な日本語が必要だ)を重荷に思っているという事実があるかと思う。
というのは、彼女たちの人生は「自分のセクシュアリティをどのような形で社会に『売る』か、あるいは『売らない』で生きるか」ということが大きな問題として控えているからである。このセクシュアリティは彼女たちの大きな資産でもあるが、災いを呼び込む可能性を持つ資産でもある。
男の場合には、セクシュアリティは、ホモセクシュアルな人間を除いてほとんど問題にならない。と言うのは、男は何かの刺激で発情しても、それは自慰行為で即座に解消されるからである。一般男性にとって自らのセクシュアリティは自分の人生の資産にもならないし、重荷にもならない。
そういう「重荷を持たない男」を同性愛というセクシュアリティの中に投げ入れて重荷を負わせる遊びがBL文学やBL漫画ではないか。ある意味「男社会への復讐」でもあるだろう。
ということで、長年の疑問がやっと解決したようだ。まあ、その解答が正しいかどうかではなく、一応の解答が得られただけで満足である。



女性と恋愛と冒険性

小谷野敦の「聖母のいない国」の中に、女性は「男女関係のどろどろ」を書いた小説が好きだ、という趣旨の言葉があるのだが、これは示唆的である。単に「男女関係を描いた小説」が好きなのではなく、それが「どろどろ」の関係であるのが好きなのである。こういう指摘はこれまであまりなされなかったのではないか。どこで誰が言った言葉か忘れたが「自分(男)にとって少女漫画とはめんどくさい少女たちのめんどくさい関係を描いた漫画だ」という趣旨の言葉があって、至言だな、と思うのだが、一般に女性というのはめんどくさい人間関係の話を好むと言えるのではないか。それが頭の単純な男にとっては謎なのである。で、そのめんどくさい関係とは基本的に男女の恋愛とそれに当然付随する性的関係であり、先に書いた「男女関係のドロドロ」なのである。それを少し表面をきれいに見せたのが少女漫画だったのだが、最近は少女漫画の中でも性行為を露骨に描いているらしい。
問題は「なぜドロドロでなければならないのか」「なぜめんどくさい関係でなければならないのか」である。そうでなければ物語にならないということもあるだろうが、ここには「女性にとっての冒険」というのは恋愛と結婚(現在は結婚はもはや若者にとって魅力のある制度ではないかもしれないが)である、というのが大前提としてあるのではないだろうか。もちろん、現実には女性の冒険家もいるし豪傑もいるだろうが、一般的には女性は恋愛と性関係に冒険性を求めると考えていいのではないか。そこで、「いい人」がなぜ恋人として女性から好まれないのかも分かる。「いい人」は「事件を起こさない」のである。つまり、人生にスリルを作り出さない。
女性が恋愛に求めるのは一種の冒険性である、という仮説をとりあえず提起しておく。
ちなみに、夏目漱石が「文学評論」の中で書いているスゥイフトの「ガリヴァー旅行記」の中に出て来るエピソードだが、ラピュタ島のある高官の妻が地上に逃げて、その優しい夫が連れ戻しに来たが、すべてを許すと夫が言っても帰らない。で、彼女が地上で一緒になっている男は貧しく汚らしい老人で、毎日のように妻を殴ったり蹴ったりするような男なのである。このラピュタの高官は人格者で人間の鑑のような人物なのである。この話の結語として「女には茶人が多い」と言ったか「女にも茶人がいる」と書いてあったか忘れたが、茶人とは普通人には分からない奇妙な嗜好を持つ連中のことである。

なお、女性にとって恋愛が冒険である、というのは少し前までは当たり前の話であり、たいていの女性はどういう男とくっつくかによって自分の一生が決まったのである。だが、基本的に男は「恋愛の食い逃げ」ができたから、男にとって恋愛は冒険的な意味合いは少ない。だから恋愛に冒険性など求めないわけだ。むしろ冒険であっては困るというのが正直なところだろう。

(追記)同じ本の中に小谷野敦は「恋愛というエゴの暴走」という表現をしており、これも秀逸な言葉だと思う。恋愛は一見相手のことを思い詰めているように見えるが、実は「恋をしている自分に陶酔しているだけ」という場合が多いのではないか。これは今敏の「千年女優」で示された思想でもあるように思う。
恋愛においては、相手ではなく、相手をネタにして自分が作り上げた妄想が、「恋愛対象の本質」だというのは、スタンダールが「恋愛論」で明示した思想だ。彼はそれを「結晶作用」という美しい表現をしているが、内実は「エゴの暴走」なのである。

ただし、相手のためには自分のすべてを犠牲にしてもいいという恋愛もあり、それはエゴの暴走的な恋愛とは別物だろう。つまり、恋愛にはふたつある、と見るべきだろう。女性より男性の恋愛のほうに、この種の「エゴを消滅させる恋愛」が時に見られるような気がする。愚劣な映画だったと私は思っているが、「タイタニック」で男は死に、女は生き残ったというのが、わりと象徴的な感じはあるwww

(追記2)

これも同じ本の中にある言葉だが、「結婚や性関係によって自分自身が憧憬の対象としての価値低下を引き起こすというメカニズム」は、「結婚や性関係は恋愛の終わりである」、というメカニズムと言ってもいい。だから、すべての恋愛物語は結婚か性関係の締結で終わるのだが、その読者や視聴者は、それが「話の終わり」だとしか思わず、「恋愛の終わり」であることに気づいていない。つまり、そこで恋愛は死んで、結婚生活や性関係という別の相に移行するのであり、相手への幻想もそこで終わるわけだ。
そう考えると、見合い結婚や仲人結婚という昔の習慣、つまり「恋愛抜きで結婚する制度」は案外賢明だったかもしれない。なぜなら、そこには幻想が無く、したがって「失望」も無いからだ。逆に、そこから「夫(妻)への恋愛」が始まる可能性すらある。相手の実態を知った上で愛情が持てるなら、それこそ最高の関係だろう。


他者から欲望されたいという欲望

私は浅学のため女性の哲学者を知らないのだが、それが非常に少ないことは確かだろう。これは「哲学とは何か」という問題(哲学はこの問題に答えているか? www)とも関係してくると思うが、女性は哲学と相性が悪そうである。
と言うのは前置きで、ここで私が問題にしたいのは、女性における「愛されたいという欲望」のことだ。「愛とは欲望である」という、前回に書いたテーゼからすると、「愛されたいという欲望」は「欲望されたい欲望」ということになる。これは奇妙な言い方ではあるが、少しも不合理性は無いと思う。つまり、女性には「男性から欲望されたい欲望」がある、ということだ。それは、無数のマスコミ雑誌やネットに出回る無数のヌード女性(しばしば素人である。)の写真から明白だろう。彼女たちが単にカネのためにヌードになっているとは私は思わない。
さらに言えば、「他者から欲望されることが女の価値を決める」という信念がそこにはあると私は思っている。まあ、これを公言している女性は見たことが無いし、公言したら彼女はその瞬間に「すべての女性の敵」になるだろう。だが、身体の美しい女性や顔の美しい女性でそう思っていない人間がいたら奇跡なのではないか。地味な素人女性が自分のヌードを赤の他人に撮影させたり、それをネットに投稿したりするのは、それを示しているだろうし、女性が化粧をしたり衣服にカネをかけたりするのも「自分を高く評価させたい」わけで、それは「他者から欲望されたい欲望」のなせるわざだろうと私は思うわけだ。
なお、「男にも他者から欲望されたい欲望はあるだろう」と女性側から反撃があるかもしれないが、それは(性的な意味に限定すれば)ごく特殊な性癖の人間だけだと思う。男は何よりも「性的刺激によって性欲が発動する」のであり、ファッションなどに気を使うとしたら、それは単なる趣味嗜好の問題だろう。別に愛されたいから身なりに気を使うわけではない。
最初に書いたことと関連させるなら、男は抽象的思索を好むというのは、男は肉体から遊離した思索で遊ぶことができるということ(これを象徴的に言ったのがリラダンの「生きることなどは召使どもに任せておけ」である。)で、女性の思考は(潜在的にだが)常に自分自身の肉体(特に子宮)から離れないのではないか、と思うわけだが、それは言い過ぎかもしれない。まあ、「女性はエロス的存在である」と恰好良く言えば許されるだろうか。