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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ニーチェの「倫理」論

「分裂勘違い君劇場」の「ふろむだ」氏(fromduskrtilldawn氏)の文章だが、「道徳(倫理)」の根源に関する貴重な内容なので転載する。
私は、宗教に立脚しない倫理をどう打ち立てるか、という考えで倫理の考察をしているので倫理の根幹が功利主義であるとされても何も痛痒は感じない。むしろ私の思想に近いし、また倫理は「社会秩序の維持」のために作られた、というのも同感だ。それを「奴隷の思想」などと卑しむ必要は無い。強者が倫理を守らないのは自明の事実であり、しかし彼らがある程度以上の暴虐をしない、あるいは悪行をしばしば慎むのは倫理への世間の感情のためであり、それが世間の弱者を利してもいるわけだ。つまり、倫理は社会秩序維持の上で大いに役立つ虚構であって、その有益性を知らない中二病の馬鹿たちがニーチェの「超人思想」などに憧れるのである。

(以下引用)


「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい

ふろむだ@分裂勘違い君劇場

『たまたま「これがニーチェだ(永井均)」を読んでいたら「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにニーチェがどう答えたかという話があったので一部引用してみます。』
という小野ほりでいさんのツイートに対し、「ニーチェの答えがすごい」というコメントがいくつも寄せられています。

その小野ほりでいさんのツイートで引用されたのは永井均『これがニーチェだ』の以下の部分です:

この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかないー きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。 それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない。
二つの応答の可能性が考えられる。一つは「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでもかまわないと思っている」という応答である。この応答に強い説得力があるのは、自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力であることを、それが教えてくれるからである。何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではないー それが ニーチェ の主張である。 だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということ を、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとつ ては、あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない。
(永井均『これがニーチェだ』P.22-23より引用)

もちろん、これは「永井均先生の理解するところのニーチェの答え」です。
僕自身は哲学研究者ではないし、ドイツ語も読めず、ニーチェの原著の日本語訳を数冊読んだ程度ですから、「ぼくの理解するところのニーチェの答え」など書いてもしょうがないです。
そこで、この記事では、あくまで「永井均先生の理解するところのニーチェの答え」について書きます。
(永井均先生は哲学研究者かつ哲学者です)

小野ほりでいさんが「一部引用してみます」と言っているように、これは、(永井先生の理解するところの)ニーチェの答えの「一部」でしかありません。
残りはどうなっているのでしょうか?

少し長くなりますが、(永井先生の理解するところの)ニーチェの答えに相当する部分を『これがニーチェだ』P.28-30より引用します。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」---だれも公共の場で口にしないとはいえ、 これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ 一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分のその悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人は、まずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。これは、世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている多くの人々には決して---少なくとも公的には---受け入れることができない見解であるかもしれない。しかし、それでもこの見解には究極的な正しさがあるのではないだろうか。「正しい」という語のある特別の意味において、それは決定的に正しいのではあるまいか。少なくとも私にはそう感じられるのである。
社会の健全さ、いやそれどころか社会の存続それ自体と本質的に矛盾するような価値というものがある、と私は思っている。その視点を考慮に入れていない倫理はむなしい。だから、これまでのあらゆる倫理学説は本質的にむなしい。殺人という例が極端すぎるというなら、いじめの場合で考えよう。人生が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった子供が、あるとき友達をいじめることで、はじめて生の悦びを感じることができたとする。それはよいことだ、とは誰も言わない。だが、それでも、それはよいことなのではあるまいか。その子は、以前よりもよい人生を生きているのではあるまいか。共存の原理に反しているからといって、そのよろこびは偽物だとか、ほんとうのよろこびは友達と仲良くするところにあるのだ、といった道徳イデオロギーによって、その子を断罪すべきではないと私は思う。その子は、そういう言説が〈嘘〉であることを、身に染みて知っているはずなのだ。

このニーチェの考えは不道徳だと思いましたか?
しかし、「この考え方を不道徳だとすること」が不道徳であることを明らかにしたのが、ニーチェのやった仕事なのです。

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