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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

性的行為と犯罪

この手の事件は山ほどあって、新聞種になるのは氷山の一角なのだろうが、なぜ性犯罪というのがこれほど多いのか、という問題の参考として保存する。特に、「いじめ」という言い方で犯罪を矮小化し、問題化を避けるのは学校という組織が意図的に広めてきた気がする。
まあ、私自身、思春期には性欲の塊だったから、偉そうなことを言うつもりはないが、頭の中で妄想するのとその性欲を犯罪的行動、あるいは明白な犯罪に結びつけるのは大違いだろう。まして、大人になっても性犯罪を犯すのは、これはサイコパスであると言えるが、社会的地位を利用してその種の行為をする人間は多いようだ。
ちなみに、私は今、「道徳」が生まれる以前の社会についての物語を書きたいと思っている。具体的には、儒教や仏教が普及する以前の日本社会の話で、「古事記」や「日本書紀」には道徳のカケラも無い。まさに、「欲望→行動」の世界である。秩序を作るのは物理的力か権力しかない世界である。道徳は「共同幻想」でしかないが、それが無いと野獣の世界になる。


(以下引用)


女子中学生の服脱がせ、動画撮影し拡散 横浜市でいじめ

3/6(金) 21:20配信

カナロコ by 神奈川新聞

 横浜市教育委員会は6日、いじめ防止対策推進法に基づく重大事態調査の結果、市立中学校で1件、小学校で2件、いじめがあったと認定し、調査した報告書を公表した。中学校では、女子生徒が同級生から服を脱ぐよう要求されるなどし、その様子を撮影した動画が近隣中学校まで拡散されていた。
 
 報告書などによると、中学2年だった女子生徒は2015年6月に2回、同級生の女子生徒5人に校外の多目的トイレに連れて行かれ、上半身を触られたり、服を脱ぐよう要求されたりした。同級生の1人が、一部始終をスマートフォンで撮影。動画を5人で共有した上、同級生に転送するなどした結果、同学年の男子生徒や近隣中学校の生徒まで拡散した。生徒は不登校になり、その後、転校した。

【写真】超小型カメラでスカート内を盗撮、1ミリ未満の穴にレンズ

 学校は6月末に同級生の保護者から連絡を受けるまで、把握していなかった。学校は対策委員会を開くとともに警察に通報し、市教委にも報告。警察は児童相談所に通告した。

 調査した市いじめ問題専門委員会は被害生徒の精神的ケアも含め、学校、教育関係者らだけでの対応には限界があると指摘。被害生徒側が申し立てるまで、市教委がいじめ重大事態として扱わなかった点も問題視した。

 小学校の1件は、15年当時小学2年だった男児を巡る事案で、学校関係者と弁護士ら第三者でつくる「市立学校いじめ防止対策委員会」は、被害児童の保護者が申し立てた12件のうち、3件をいじめと認定。保護者が学校に不信感を抱いた背景に「組織対応の遅れ」を挙げた。

 小学校のもう1件は、17年当時小学4年だった女児が、同じ学年の女児に前髪を切らされるなどし、不登校になった。専門委は担任がほぼ一人で対応していたとし、学校や市教委がチームで対応していれば、事態が改善した可能性があると指摘した。

神奈川新聞社












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災害時に人間の本性は出る

長い記事で、まだきちんと読んでいないが、重要な内容だと思うので保存しておく。災害時は無法状態となり、普段は隠されている本性を現わす人間が多いということだろう。

(以下引用)ブログ容量オーバーのため後半カット

「避難所でのレイプ」災害時の性暴力に光を当てたドキュメンタリーの教訓

3月1日放送の「埋もれた声 25年の真実〜災害時の性暴力〜」(画面を筆者撮影)

「性暴力」をめぐる報道が少しずつ増えている

 女性に対する「性暴力」の被害の実態がいろいろな形で明らかになっている。

 #MeToo運動の広がりなどでこれまで被害を受けても口をつぐんできた被害女性たちが少しずつ声をあげ始めたからだ。

 とはいえ、まだまだ被害にあった当事者の「自己責任」や「本人にも非が」などと被害者を責める風潮は今もこの国には根強い。

 特に震災などの「非常時」になると、とりわけそうした傾向が強くなってしまう。被災者がいる避難所や仮設住宅などで子どもや女性がレイプなどの性暴力被害にあうケースはこれまでごく一部の関係者にしか知られてこなかった。

 被災者であるという”弱み”。周囲の善意に依存せざるをえない弱み。避難所などは被災者全員が不自由や苦労を共有することで苦情や抗議、権利主張をするのをはばかる空気などで「声」をあげられない構図。そんな背景があるからだろうか。

「災害時の性暴力」の本格的なドキュメンタリーをNHKが放送した

 3月1日(日)の午前中に放送された「明日へつなげよう 証言記録『埋もれた声 25年の真実〜災害時の性暴力〜』」

 48分の長編ドキュメンタリーだ。 

 被災地で子どもや女性たちにこうした問題が起きているらしいことは、2011年に東日本大震災が起きた直後、筆者も取材で訪れた避難所などで耳にしたことがあった。しかし関係者も固く口を閉ざし、当時は取材を進めることはできなかった。

 テレビでは非常にデリケートすぎて扱うことが難しかったこの問題をNHKは今回、取りあげた。そこに紹介されたケースは被害者の壮絶な体験談がベースになっている。

 「被災地の性暴力」についてNPOや研究者などの協力を得て隠されてきた実態を掘り起こしたすぐれた報道番組だ。かなり長い文章になるが内容をくわしく紹介したい。その上で今回の報道が持つ意義について論考したい。 

 まず、この番組は性暴力などの被害を受けた当事者から支援団体や研究者らが1年がかりで聞き取った膨大なデータを基にしている。つまり、番組の中核は、番組制作者が当事者にインタビューしたのではなく、支援者や研究者が行った聞き取り調査結果そのものなのだ。結果はぶ厚い書類になっているが、その一つひとつの事案は悲痛なものだ。

避難所のリーダーに、「(夫を亡くして)大変だね。タオルや食べ物をあげるから、夜◯◯に取りに来て」と言われ、取りに行くと、あからさまに性行為を強要されました。(震災で夫を亡くした女性)

仮設住宅にいる男性がだんだんおかしくなって、女の人を捕まえては暗い場所で裸にする。周りの人も、“若いから仕方がないね”と、見て見ぬふりをして助けてくれませんでした。(20代女性)

複数の男性に暴行を受けました。騒いで殺されても、海に流され津波のせいにされる恐怖があり、その後、誰にも言えませんでした・・・。(避難所で性暴力を受けた女性)

出典:NHK「クローズアップ現代+」番組ホームページ

 同じような被害体験は2011年の東日本大震災をきっかけにスタートした24時間対応の電話相談窓口「よりそいホットライン DV・性暴力相談」にも寄せている。電話は24時間ずっと鳴りっぱなしで半分以上が性被害。相談件数は年間5万件に上るという。

「レイプ」「極限」「打ち明けたい」「苦しい」「怖い」「悲しい」

 画面には相談員が記した手書きのメモが映し出される。文字が生々しい。

被災地の性暴力の問題が浮かび上がったのは25年前の阪神淡路大震災

 阪神淡路大震災で被災した神戸などの被災地で性暴力のケースが報告されていた。避難所や仮設住宅などで女性や子どもたちが様々な性暴力のリスクにさらされていた。番組では、この頃からそうした声に耳を傾けてきたNPO法人「うぃめんずネット・こうべ」代表の正井禮子(まさい・れいこ)さんの活動を軸にして実態を描いていく。

 正井さんが直面したのは、被災で仕事が思うようにいかない夫からはけ口のようにドメスティック・バイオレンス(DV)を受けていても、周りは焼け野原で家から出て行っても他で暮らすことができないと泣き崩れる女性たち。被災した女性が近所の男性に「抱かせろ」と言われて性暴力の被害にあった話を聞かされた時もすごくショックを受けた。その場にいた支援者の女性が「あなた、それ警察にすぐ届けたの?」と詰問するように言ったという。

 被害者の女性はそれに対し、

「そこでしか生きていけない時に誰にそれを語れというんですか?」

と答え、ツーっと一滴の涙をこぼしたという。

「今度、もし大きな災害が起きた時には二度と同じようなことが起きないように発信しなければならない。」

 正井さんはそう決意したと話す。性暴力の被害を訴える声は正井さん以外の支援者にも届いていたが、ほとんどの被害者が警察には届け出ずに泣き寝入りしたという。

(正井禮子さん)

「たぶん当事者は声をあげられないと思った。そしたら、性暴力は許さないんだと私たちが声をあげるべきだと思ったの。」

 神戸市に性暴力の調査をして欲しいとお願いに行っても、調査する予算も何か実態があった場合に対応する予算もないと言われた。そこで正井さんは阪神淡路大震災の翌年から「被災地での性暴力」の問題をアピールして街頭でのデモ行進をするなどの活動を始めた。

週刊誌メディアで「レイプ多発」というセンセーショナルな形で報道された

 それでも実態を伝える流れだったのが、しばらくすると報道の流れが正反対の流れになった。

 「レイプ多発」がデマだという週刊誌報道が増えたのだ。

被害の証拠はない、「レイプ多発」は“虚報”、などと真逆の報道が増えていった

 さらに性暴力被害を伝えることが当事者への「セカンドレイプになっている」「なかったことにした方が当事者のためだ」と正井さんたちが批判の矢面に立たされるようになったという。

 1996年当時のことだが、この2,3年の間に日本社会で起きた財務省事務次官によるテレビ朝日女性記者へのセクハラや元TBSワシントン支局長による伊藤詩織さんへの性暴力のケースを見ても、結果的に被害を告発した側を攻撃して黙らせるような圧力はその後の時代にもなくなっていない。

正井さんも災害時の性暴力について口を閉ざすようになった

 しかし2004年のスマトラ島沖巨大地震が正井さんにとって転機になった。

 この時にも被災地で性暴力の被害が深刻化したが、スリランカの女性団体が避難所の性暴力の問題に立ち上がった。そのニュースを伝える小さな新聞記事を見つけたのだ。女性団体は自主的に実態調査を行って国に対策を求めたという。

 この頃から世界各国で性暴力撲滅を求める声が高まって勢いを増していた。国連総会でも女性に対する暴力の撤廃に関する宣言がグローバルな課題として採択された。

女性たちが声をあげて災害時の性暴力被害の解消を国などに訴える運動が世界で広がっていた

(正井禮子さん)

「女性たちはきちんとそのことを調査して国にまで持って行った。それを見て私はものすごく勇気づけられて、私たちも(阪神淡路大震災から)ちょうど10年経つのでこれまでの災害を女性の視点から検証することをやらないかと声をかけたら、みんなやろうやろうとなった。」

正井さんは再び声をあげ始めた

 正井さんは女性や地域の防災をテーマにした集会などに参加し、再発防止や支援の必要性を積極的に発言するようになった。

2011年3月、東日本大震災の被災地でも性暴力などのリスクを察知する人たちがいた

 東日本大震災の直後には日本中で47万人が避難所生活を余儀なくされた。福島県で最大の避難所のひとつ、福島県産産業交流館「ビッグパレットふくしま」で県職員として避難所運営責任者を務めていた天野和彦さんは3000人の避難者がごった返す生活の中で女性たちが恐怖を募らせていることを認識していた。酒を飲んだ男性が若い女性の隣にごろんと横になったり、女性がトイレに行く時に後をついて行く男性もいたという。

 福島県だけでなく岩手県でも性暴力被害のケースがあった。もりおか女性センター長だった田端八重子(たばた・やえこ)さんは東日本大震災前に正井さんの講演を聞いていたことから、かつての神戸と同じことがこの震災でも起きるのではいかと危惧していた。

 避難所などに支援物資を届けながら、女性たちの相談に応じているうちに女子高生から学校の帰りに車が横付けになって2人の男に車に引きずりこまれそうになったという友人がいるという話を聞いた。たまたま自転車で通り掛かった男性がいたため、拉致は未遂で終わったという。震災後、新聞記事には被災地の女性が性暴力やDVを受ける事件が相次いでいた。

 番組が映し出した記事の映像では「避難所倉庫で」「強姦致傷」「強盗」「ナイフで脅して乱暴」「停電に乗じ乱暴」「仮設で縛られ」「内縁の妻死亡」「監禁致傷」などの見出しが映し出される。

(田端八重子さん)

「正井さんが言ってらっしゃったことはここまで起こるかと。震災と性暴力というのは(関係)あるんだということを思っておかなくてはいけないということがはっきりした。」

 田端さんは国の暴力防止を推進する担当部署に電話した。担当部署である内閣府男女共同参画局の暴力対策推進室長だった原典久さんは「我々としてはあまり考えたことがなかったといいますか、私自身は深く認識した事はなかったです。」と正直に話す。

(原典久・内閣府暴力対策推進室長=当時)

「これは大変なことになるといろいろな声を聞いて、そこで気付かされてとにかく早めに動こうと。」

 内閣府は緊急の電話相談事業の立ち上げを決定して予算を捻出した。

デリケートな相談をしにくい避難所の問題点

 原さんは田端さんの誘いで避難所を視察した時に目にした光景に驚かされた。大勢の人たちが隣り合って電話を掛け合い、プライバシーというものがない。電話器が置かれていても周囲に大勢の人がいるので性被害などの相談電話をかけられるような状況にはなっていなかった。

 被災地の現場では支援者たちがそれぞれ状況の改善に取り組んでいた。

 宮城県で長年、性暴力やDVの問題に取り組んでいるNPO法人「ハーティ仙台」代表の八幡悦子さんは、女性が避難所などで男性に気圧されてなかなか声をあげにくい状況を把握して、一策を講じたという。女性向けの支援物資の中に相談窓口の連絡先を記したカードを忍ばせたのだ。特に女性の下着などとセットにして女性だけの手に渡るように工夫を凝らした。

 また福島県で最大の避難所だった「ビッグパレットふくしま」でも運営責任者の天野和彦さんが女性の被災者のために心を砕いていた。赴任して数日後に女性たち5、6人が責任者に会いたい、とやってきて「私たち、毎日が恥ずかしいんです」と言ったという。「私たちには着替える場所がない」と言う。

女性だけの専用スペース

 女性が安心して過ごせる場所が必要だと感じた天野さんは女性専用のスペースの設置を決定した。一部の男性からは不公平だという反対の声もあったが押し切った。倉庫に使っていた場所を活用して「女性専用スペース」をつくった。日本で初めての取り組みだった。着替えや授乳だけでなく、悩み事や相談の場としても活用されていった。地元で女性の支援活動に取り組んできたベテラン相談員が常駐するようになった。介護や子育てなどの悩みも腹蔵なく話せる空間になって「女性の専用スペース」は「女性たちの人権を守る砦」(天野氏の言葉)になっていった。

くわしい対応策が描かれたドキュメンタリー

 このドキュメンタリーが優れている点は、この天野さんや八幡さんが女性のために工夫した点などのディテールがきちんと描かれているところだ。当時の映像があるわけではない。あるのは本人のインタビューと当時の写真だけ。それでも状況は伝わる。内閣府の官僚や自治体、NPOなど様々な関係者が知恵を絞って「女性たちが居心地のいい避難所」や「プライバシーを守れる相談場所」に心を配っていたことがわかる。

 「神は細部に宿る」というのは特にドキュメンタリーの制作において鉄則と言ってもいい掟だが、こうしたディテールを番組で描くことで当時の関係者の思いや動きが手に取るようにわかる。すぐれたシーンだと評価できる。

 内閣府が予算化した電話相談事業は、岩手、宮城、福島と順繰りにスタートし、臨時の受付拠点は11か所となった。様々な場所からアクセスできる体制をつくった。内閣府もスーパーの建物の中に相談室を設けたり、「相談しやすい環境づくりに心を砕いた」(内閣府の原さんの言葉)。

 その頃、神戸市のNPO法人「ウィメンズネット・こうべ」代表の正井禮子さんの元にミシガン大学教授の吉浜美恵子さんから電話が入った。本格的な調査を行い、国に対策を求めるべきだと助言する電話だった。

「東日本大震災で阪神淡路大震災と同じようなことが起きると思うから、今度は本当に流言飛語と言われない、本当に信ぴょう性のあるデータを集めようよ。」

 女性たちにとって社会がよりよいものになるための調査をしよう。社会を変えるために協力してほしい。正井さんたちのそんな呼びかけに全国の支援団体や研究者らが賛同していった。

 このドキュメンタリーがさらにすぐれているのは、この問題が単に女性の人権を侵害する性被害が深刻だという捉え方だけにあるのではない。この問題が「防災」にとっても重要だという捉え方をしている点だ。

「性暴力の抑止」が防災につながる

 番組に登場する支援団体の人たちや研究者、さらに制作しているNHKの番組制作者たちもこうした考えで一致している印象だった。よくよく考えてみれば、大きな災害が起きるたびに女性たちの安全が守られず、そのつど人権が侵害されて人として尊重されず時に自殺を考えるような苦しい状況に追い込まれる事態が起きるのであれば、防災上でも解決すべき課題だということができる。この「防災」という視点は新鮮だった。

「防災」の観点からの大がかりな全国的な実態調査

 シングルマザーの問題に取り組んできたNPO法人「しんぐるまざーず・ふぉーらむ」などの支援団体がかかわった。日本で早くからDV(ドメスティックバイオレンス)の全国調査に取り組んだ経験がある湯前知子(ゆのまえ・ともこ)さんもこの調査メンバーに加わった。

(湯前知子さん)

「日本ではそれまでこのような調査がほとんどなかった。

最初の調査になりうるので今度の防災というものに活かしていきたいという私たちの気持ちはありました。」

 内外の災害現場を歩いて防災の体制を研究してきた静岡大学教授の池田恵子さんも実態調査が必要だと考えてチームに加わったという。

(静岡大学教授・池田恵子さん)

「相談窓口に出てくるものは本当に氷山の一角だと思うんです。数を論じるよりも、どんな事件がどういう場所のどういう状況で起こっているのかを詳細に知ることによって具体的な対策に結びつけやすい。」

 調査は避難所への立ち入りを許された現地の支援団体や医療関係者らの協力で進められた。信ぴょう性を高めるため、被害の内容や相手の人数、時間帯、加害者の属性など聞き取る質問は37項目。1年がかりで調査が行われたという。

 日本で初めての「災害時における子どもや女性に対する暴力の実態調査」が行われた。こうして2013年12月に「東日本大震災『災害・復興時における女性と子どもへの暴力』に関する調査報告書」がまとめられた。その紙の分量だけでも分厚いもので膨大な調査報告書であることが見てとれる。

 その内容についてはNHK「クローズアップ現代+」のホームページに以下のように記されている。

調査結果では、10代から60代までの女性や子どもたちが、さまざまな場所で、DVや性暴力の被害を受けていたことが明らかになりました。さらに、関係者が注目したのは「対価型(見返り要求型)の暴力」です。震災や津波などで夫や家族を亡くす、失業する、家財を失うなど、弱い立場の女性に支援をする対価として、性行為を要求するという事例が複数報告されたのです。

出典:NHK「クローズアップ現代+」番組ホームページ

 震災によって電灯もつかなくなった暗闇で、力のない女性たちが近くにいる男性からの性暴力に遭っていた実態が浮かび上がってきた。

(避難所で性暴力を受けた女性)

「複数の男性から暴行を受けました。

騒いで殺されても海に流され津波のせいにされる恐怖があり、その後も誰にも言えませんでした。」






八切止夫「切腹論考」のこと

八切止夫の「切腹論考」は、存在だけは知っていたがあまり興味も持っておらず、当然、これまで読んでいなかった。
ところが、気まぐれに市民図書館から借りてきて読んでみると、切腹の話だけでなく、日本という国の様々な社会学的現象を根本から考察している、非常に珍しい、貴重な本である。
私も蒙を開かれたことが多くある。
たとえば、羽仁五郎が「都市の論理」の中で、「奴隷制国家においては公的権力が発生。国家は奴隷をもって憲兵・警察官にした」と書いているが、八切氏は日本も同じである、と書いている。実際、それが事実であることの例証を彼はこの本の中で幾つも挙げているが、それは措いておく。

そこで、なぜ身分制社会(奴隷制と言うより、この方が多くをカバーするだろう。)では、奴隷を憲兵・警察官にしたか、という問題だが、これは「憲兵・警察」が犯罪や暴動を扱う危険な仕事であり、また悪と直接に接することで悪を常に間近に見る不快な仕事だ、ということで、高貴な身分にはふさわしくない、とされたのだろう。古代中国で兵士が下賤な仕事とされたのと同じである。そして、兵士が下賤とされたのは日本も同じであり、手を血で染める仕事の者は「殿上には入れない」のが当然だったわけだ。それが平安中期くらいから平家の貴族化が始まり、その最初には平家は周囲の公家たちの軽蔑の対象だったことは「平家物語」に詳しく描写されている。

なお、この「切腹論考」には、日本社会では遊女はハイソな存在であった、ということが書かれており、それも私の認識と一致する。現代日本で言えば、遊女とは「芸能人」であり、「女性タレント」であり、しかも「枕営業」も当たり前、ということである。要するに庶民には手が出ない「高価な存在」なのである。売春そのものも、果たして「苦役」なのかどうか、私と同じ疑問を八切氏も呈している。まあ、儒教道徳のせいもあるし、「家」制度が国家の根幹である社会においては、女性の浮気で家督が得体の知れないタネの子供に相続されるのは一番注意すべきことだから、女性の貞潔に厳しかったのだろう。遊女や水商売女はその埒外だったわけだ。(当主の子であることが確実なら、妾の子でも女中の子でも家督相続の正当性のためには貴重だったわけであり、それが「腹は借り物」という思想である。要するに、「家」中心の社会では、当主の一番の仕事は種馬であることで、家の業務自体は番頭的存在がいれば済むだけだ。これは将軍家も大名家も豪商の家も同じである。)










オタクの本性

「オタク差別を批判することをやめにします」という、hatenaノート記事の一部である。非常に長い記事なので、前半は省略。
なかなか貴重な思想が語られているように思え、私の「差別」論の手がかりのひとつになるかもしれないので転載する。まあ、「オタク文化」の話だけに、何の話か分からないところも多々ある。ひとつ言えるのは、オタクは案外とネトウヨと親和性がある、という印象である。そして、「差別に反対する」のではなく、「自分を守ることに必死になる」ことがその最大の特徴だろう。

(以下引用)


加害者としてのオタク行方不明すぎる

 これが本当に、ここ数年で疑念として大きくなった末に、今回愛想がつきた一番のポイントなんだけど。

 オタク差別を受ける構造が、あったとする。それは、ネットで語られているほどは大きくないかもしれないけれど。

 それで、今、オタクってなんなんですか、と。特にネット上では、強者、抑圧する側、差別行使する側の「集団」として機能してませんか、と。

 腐女子叩きは昔からあったけれど、女叩き、中韓叩き、などは当たり前のように横行している。時々流れてくる、弱者権利をなんとかして奪ってやろう、人権思想じたいを矮小化してやろう、という意気に満ち満ちたツイッター漫画は誰によって大量RTされているのだろう。俺のところにはだいたいオタクさん経由で回ってくるんだけど。

 趣味、という切り口でみても、オタク文化を愛好する人が自分たちと関係のない趣味なら平気でdisる光景というのはそんなにたぐいまれだっただろうか。インスタ蠅なるイラストが回ってきたことがある。そもそもインスタに投稿するのが趣味になっているような女性を叩くようなツイートが回ってきたことがある。鉄オタは「池沼」「ガイジ」であるなんて言い方もある(「」内は原文の表記尊重)。ゴルフ車など老害趣味だとバカにしていたりもする。そうそう、スイーツ(笑)なる言い回しはいったいどこのどういう人によって流行したんだろうか。「リア充爆発しろ」というフレーズに何げなく込められた、自分関係ない集団への軽視に、どれだけの人が気づいてたんだろか(だって爆発しろ」だよ。あの連中、有明に15万人集まったタイミングで奴等爆発四散しねえかなーって非オタな人が言ってそれがそっちの界隈で大好評を博したら、インターネットな皆さんの間でどういう反応が起こるか考えてみたらいい)。

 そんなオタクばかりじゃないというのは分かる。というか俺がこういう文章を書いてる時点で分かれ。でも、個の話じゃないのだ。集団としての性質の話である。あれだけ、全共闘学生運動について冷笑ぶって叩く人が追いのに、そこに気づかないってどうかと思う。あとリア充爆発しろは使ってましたすいません。

 それに、そういったところで、こんなふうにちゃんと抵抗して、こんなふうに批判して、中から自浄する動きを作りました、このコンテンツからは離れましたと胸を張って言える事例、どれだけあるんですかね?俺が、ノットオールオタクと言い続けたところで、結局「自分批判対象から外してくださいあいつらは関係ない」と逃亡する以外に何の役回りも果たせなかったから、言っているのだ。この記事は違うよなあ~こういう作風は好きじゃないなあ~こういう物言いはよくないよなあ~と個別案件に不満ごちてみせ、自分は違うと思う、もっというなら思ってみただけで、肝心なところからは目をそらしていたんじゃないか? そう思うんである

 逆に、そこに自覚的になったんだろうな、と思える人も何人か知っている。そういう人は、結局C.R.A.C.やツイフェミのようなところに接近し、そのやり方すべてに同意はしないまでも、見解思想共感するようになっていく人がほとんどだ。おそらく今回「オタク差別」に怒っている人は、この人たちを敵であり、オタク仲間と認識していないと思う。

 つまりオタク文化加害者としての側面を見ないふりするか、オタク勘定してもらえなくなるか、二つに一つということだ。

 C.R.A.C.野間氏は個人的には大嫌いだし、たぶん単にオタクが嫌いなんだとは思う。でも今回ツイート応酬を見ていて、残念ながら主張にそれなりに同意せざるを得なかったのは、こういう背景について理解できてしまたからだ。そこで突然くっちゃべられる「オタク差別」。真面目に反差別を考えている人にとっては(多分そこは真面目なんだと思う。この人)、筆算の横棒がミニ定規で引かれていないから×、レベルの見当違い感があったんではないか野間氏の真意など知らないけれど。

 

 そういえばその昔、本田透の「電波男」に感銘を受けながら読み進めていて、後半のほうで腐女子フェミニストについてはずいぶん切り捨てたような言及の仕方なのに疑問を持ったことがあった。いや、フェミニストがオタク差別している、という文脈批判してるなら理解できるんだけど、そうじゃなかったから。権利意識を持つ女性自体が許せなさそうだった。その後「電波大戦」で喪女についての話題が出たとき、対談相手竹熊氏がわりと真面目に実態について話したりしているのに、「困ったモンですね」で終えているのを見て、クジャクママユを盗み出した同級生を見る眼つきになったのを覚えている。だってそこで語られてる喪女本田氏が救済しようとしてやまない喪男と違わないのに。

 そのあとしばらくは新刊も買って真面目に読んでたの、それもどうよって話だけど。

 10年くらい前に、俺たちの麻生なるムーブメントがあった。別に政治家を持ち上げること自体は好きにすればいいんだけど、そこでは当人が積み上げた迷言失言差別発言すべからく許容し、批判したマスコミへの叩きが横行していた。正直、あの政治家のどこがいいのかさっぱり分からなかった。

 当時はオタク個人ニュースが全盛期。そういったサイト管理人は、麻生氏を擁護するまとめブログエントリを紹介しては、叩かれていて困ったものですねぇ、正論なのに、というようなコメントをこぞってつけていた。オタク気質の知り合いなども、熱心に自ブログ擁護していた。

 あれから10年たった今も、麻生氏は差別発言侮蔑発言を繰り返している。あれを見ていて思うのは、この人は息を吸うようにハラスメントをする人なんだな、ということだ。それは、昔も同じだった。だから、どこがいいのかさっぱり分からなかったのだな、と腑に落ちたのだが、同時に当時持ち上げていた人たちにとっては、「だから良かった」んだろうかしら、とぼんやり邪推してしまう。

 今回オタク差別について怒っているツイッター主の中に、表現規制反対などをめぐっての発言をしばしばしているアカウントがいくつかいる。いずれもその界隈ではそれなりに大物だと思う。そして、俺のチェックしている反対派がぼんくら揃いなのかもしれないけれど、ヘイトスピーチの言論の自由を唱え、ポリコレで何も言えなくなることを憂い、自分関係ないところでの言論の自由に興味がないかしろ規制されることを望み、性差別についての提起が出てくるとそれについて考えるより先に提起者の揚げ足を取って袋叩きにするような人たちが勢ぞろいである。さすがに全部きれいに当てはまる人は少数だけれど。そんな反差別運動別にあの界隈に限らず、そういう発想自体)が大嫌いな人たちが、当然のように主張しだすオタク差別批判、いったいなんなのか。ただ、差別社会の中で特権階級になりたいだけじゃないのか。

 そういえば、これはある程度年配のオタクということになるけれど、昔(主に90年代くらい)のバラエティはこんなにおおらかだったのに、今はポリコレがうるさいせいでつまらなくなった、というような声が時々ある。なぜか、そういうつぶやきをしている人が「昔はオタクバカにする表現に寛容でよかったなあ」と語っている声を聴かない。今回オタク差別話題になって、バラエティなどでのオタクの扱われ方という話はけっこう出てきているのに、いない。どこへ行ったんだろう。

 オタク差別、という組み合わせでオタク文化っぽいものを思い返してみると、そんな案件ばかりが、思い出されてくるのだ。

 反差別のために立ち上がったオタク、というのはそれなりの数知っている。そういう人はオタクかそうじゃないかを越えたところのつながりで、反差別をやっている。でも、オタク差別けしからん以外の「反差別」がオタク文化の中心的な動きとしてあったところを、見たことがない。差別煽り偏見煽り強者に諂い(自分たち以外の)弱者嘲笑する、そんな動きならいくつも思い浮かぶのだけど。

 あ、一つ思い出した。(反差別とは少し離れるかもだけど)フリーチベットフリー東トルキスタン

 残念ながら、反中のダシ以上のものであった記憶はないけど。ああいうの、真面目なチベット東トルキスタンにおける人権運動家に失礼だったんじゃないか


 こんな「オタク差別批判」に大真面目に同意したところで、反差別には一ミリもつながらなさそう、むしろ後退させる役割しか果たせなさそうであるメディアを通した差別はもうかなり減ってるといわれるし、それ以外のものオタク差別というくくりより別のくくりで論じた方が有意義でより広い被害を論ずることができるようだ。となるとオタク差別なるものに拘る理由はない。

 もしかしたら、こんなことは本田透の2冊目の著書におかしさを感じた時点で、たどり着かなければならなかったのかもしれないけれど。

 そういう意味でも、失敗した責任を感じる。





ホモソーシャル

「差別の構造」を論じるにあたって、小田嶋師がよく使う「ホモソーシャル」という言葉の意味をウィキペディアからコピーしておく。
私自身、考え方がホモソーシャル的なところがある気がするが、同性間の友情を「ホモソーシャル」と言われると、抵抗感がある。
まあ、昔(江戸時代の「陰間」など)からホモ(男性同性愛者)は差別と笑い(嘲笑)の対象だったわけで、「ホモソーシャル」という概念自体に差別感が漂う気がするのは私の考えすぎかもしれない。(なぜホモが嘲笑されるかと言うと、その「女性的な言動」が嘲笑されるわけで、「偽女性」としてのホモへの嘲笑は、男性の『男性優越思想』『女性蔑視』の表れでもあるだろう。ホモは「女性よりも安心して嘲笑できる存在」だったのである。)
なお、腐女子がBL好きである(下手をしたら、女性の大半がそうかもしれない)というのは、ホモ差別と矛盾するようだが、その関係も考察する価値はありそうだ。(男同士の)ホモを差別するのは男であって、女ではない、とも考えられる。ホモ差別は、むしろホモソーシャルでこそ生まれる、という構造もありそうだ。「俺たちの関係は友情であってホモではない」というのがホモソーシャルに生きる「漢」の矜持なのだろうか。


ホモソーシャル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ホモソーシャル (: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。

ホモソーシャルという言葉は、イヴ・セジウィックによる「男性のホモソーシャル(同性間の結びつき)への欲望」という議論によって普及した[1]。それよりも早い1976年に、ジーン・リップマン=ブルーメン英語版が性的な意味ではなく、社会的な意味での、同性の仲間への選好をホモソーシャリティ(homosociality)と定義している[2]

概要[編集]

男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴う。ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が構成される。

ホモソーシャルの概念を提唱した、アメリカのジェンダー研究者のイヴ・セジウィックは、「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」ことを指摘した。

なお、研究者の中には、この概念を女性同士の関係にも適用し、「女性のホモソーシャル」を論じる者もいる。東園子は、やおいボーイズラブを好む女性オタク(いわゆる腐女子)や演者は女性だけで構成されている宝塚歌劇団のファンの女性の間でホモソーシャルな絆がみられると論じている[3][4]

近年、ホモソーシャルは男性と男性の繋がりだと誤認されがちだが、女性と女性の繋がりもホモソーシャルとなる。さらに言えばホモという言葉も同性という意味である。