働きながら一人で三人の介護……
私自身が裁判官なら、懲役一年程度の判決にする。現在71歳なら、それで罪の量刑として十分である。単に殺した人数と量刑のバランスを取ればいいというものではない。と同時に、刑期満了後には必ず生活保護が受けられるように手配をする。
手垢のついた言い方だが、彼女は社会の犠牲者なのである。
青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
パパ活まんこ懲らしめ隊と称して、「10で募集」して、終わったら10円しか払わずトラブル、というんだが、素人売春の行き着く先はたいいてコレで、タダ乗りされてオシマイ。テレクラ時代から素人が直接、客を捕まえられる社会になり、インターネットでそれが一層、便利になる。タクシーは素人に客を奪われ、風俗は素人に客を奪われる。まぁ、運転もセックスも、誰でも出来る仕事だからしょうがないwhttps://dotup.org/uploda/dotup.org1996372.jpg デフレの底はまんこ100円、という名言があったが、底を突き抜けましたw 10円が新たな底ですw |
交際していた女優の剛力彩芽(27)と、衣料通販サイトを運営する「ZOZO」の創業者で現スタートトゥデイ社長の前澤友作氏(43)が破局していたことが12日、分かった。剛力の所属事務所が「事実です」と認めた。関係者は「数カ月前から互いの気持ちが冷めていたのは事実。一時は修復したものの今月頭には別れていた」と話した。
2人の知人は破局原因について「前澤さんの女遊びと聞いてます。変わらない姿に剛力さんが愛想を尽かした。結婚はしていないし慰謝料もない」と明かした。事務所側は破局時期や原因に関しては「プライベートは本人に任せています」と明らかにしていない。
2人の交際は2018年4月に発覚。以降は前澤氏の行く先々に剛力が同行する姿が見られるようになった。同7月にはサッカーW杯の決勝観戦のためプライベートジェットでロシア入り。パリでは2人でファッションショーを見るなど、オープンな交際を続けてきた。
剛力が前澤氏との恋に走った結果、事務所や仕事先との関係性も悪化。家族との間にも大きな溝が生まれてしまった。知人は「自分の築いたモノを捨ててまで、前澤氏との生活を優先した。だが女遊びは一向に変わらず、気持ちが保てなくなったのでは」と思いやった。また別の知人は「ゴルフのラウンド中に剛力さんがプレーでミスをすると、前澤さんが“おまえ、今すぐ帰れ!”と言い放つこともあった。同伴者はその様子に心を痛めていた」という。
前澤氏は今年9月、ZOZOをヤフーに売却した。前澤氏の周囲は「仕事の状況が感情に出るタイプ。売却の時期など仕事でうまくいかないことがあると、彼女に当たることもあったのでは。その影響はあったと思います」と明かした。
最優先してきた恋人を失った今、剛力は正念場を迎える。芸能関係者は「これから全てを捨てた代償を払うことになる。主演を数多く務めたが、すぐにはそのポジションに戻れないだろう」と話した。来年早々に舞台出演が決まっており、破局後の“初仕事”となるもよう。今後の生き方にも注目が集まる。
【剛力と前澤氏のこれまで】
▼18年4月 交際発覚
▼同 剛力がインスタグラムで交際を認める
▼7月 プライベートジェットでサッカーW杯ロシア大会決勝を日帰り観戦
▼同 剛力が交際への批判を受けインスタグラムの投稿を全て削除
▼9月 前澤氏が米ロサンゼルスで月旅行計画の会見に出席。剛力も同席
▼同 パリのファッションショーに来場
▼19年1月 前澤氏がツイッターのプロフィルを更新。「剛力彩芽さんが彼女」と記す
▼7月 英ロンドンでウィンブルドン決勝を観戦
▼9月 前澤氏が、ファッション通販サイト「ZOZOTOWN」を運営する株式会社ZOZOの株式をヤフーに売却。代表取締役社長を辞任
▼10月 前澤氏が新会社「スタートトゥデイ」を設立
▼同 前澤氏が大会名誉会長として関わった「ZOZOチャンピオンシップ」が開催。剛力も観戦
その日、岸田奈美さんから届く原稿を待っていた。
最後にひとつだけ残っている、巻末の「娘から母への手紙」。
約束は早朝6時。でも、もし早く送ってきてくださった時のために、午前2時からパソコンをつけてスタンバイしていた。真っ先に目を通そうと思っていた。奈美さんの頑張りに応えることはもちろん、自分が純粋に、その原稿を早く読みたかったからでもある。
そして、午前2時30分。原稿は届いた。
「娘から母への手紙」
ママへ
こうやって手紙を書くのは、覚えている限りで初めてです。きっと幼稚園や小学生の頃に書いたことはあるのかもしれませんが、ママと正反対に大雑把で忘れっぽい私はどうしても思い出せないのです。
でも、この本を読んでふと気づきました。良太の障害を初めて知った日のこと、小学校の先生に食ってかかったこと、パパに本を買ってもらったこと、家族四人揃って最後に旅行へ行ったこと・・・私は嬉しいことも悲しいことも、多くのことを忘れていました。
裏を返せば、それだけ怒涛の日々を送ってきたということかもしれません。しかし、はっきりと覚えていることがあります。
二十五年間で、ママが悲しくて泣いているのを見たのは、たった一度だけです。もらい泣きや嬉し泣きこそあっても、ママはいつも笑顔を絶やしませんでした。「奈美ちゃんとお母さん、友だちみたいだね」と周りから言ってもらえるのは、私にとって鼻が高いことでした。
ママが泣いていたのは、病室のベッドの上でした。薄暗くなっていく病室で、ママは悔しさを押し殺すようにして俯いていました。私は病室の入り口から覗いていることしかできませんでした。
ママがリハビリ室に行っている間、勝手にママの携帯電話も見ました。私や良太には伝えなかった、きっと伝えられなかった、ママの寂しさや苦しさを綴ったメールが何通も残っていました。
その日私は、ママのリハビリが終わるのも待たず、勝手に家へ帰ってしまったのを覚えていますか。心配して何度も電話やメールをくれたのに、謝ることができなくて、本当にごめんなさい。
今日まで、ずっと後悔していました。ママが倒れた日、病院の先生に「手術をしてください」と言ったことを。私はママに死んでほしくなかった。もっとママと話したかった。そんな一心で伝えた選択によって、ママの命は助かりました。
手術が終わり「命に別状はありません」と先生から言われた時、私はひたすら喜びました。おばあちゃんからテレフォンカードを借りて、残っていた限度額がすっかり無くなるまで、親戚中に電話をかけ続けました。助かって良かった、ママは幸運だったと。
私や親戚の言葉に答えるように、目覚めたママは笑っていましたね。そんなママが隠していた涙を見た時、責められるべきは、私だと気づきました。私が手術を望んだせいで、ママが死ぬよりも辛い思いをしているのだと。だからママから「死にたい」と言われた時、私は拒否なんてできませんでした。
思わず口をついた言葉は「死んでもいいよ」でした。それが私にできる最後の償いだと思いました。本当に死んでしまったらどうしようと、内心は焦りでいっぱいでした。大学に入学して、ミライロの創業メンバーとして参加した頃、ママにはたくさん心配をかけてしまいました。終電で寝過ごして何度も遠くの駅まで迎えに来てもらったり、単位がギリギリで大学から通知が届いたり、数えるとキリがないですね。
でも、ママが初めて一緒に仕事をしてくれた日のこと、大勢の前で話したいと意気込んだこと、神戸へ戻る新幹線で「死ななくて良かった」と言ってくれたこと、全部覚えています。嬉しくて嬉しくて、飛び上がりたいくらい幸せでした。
私はママの笑顔のおかげで、どんなに辛くても、苦しくても、今日を走り続けることができています。
ママ、死なないでくれてありがとう。
私を信じてくれてありがとう。
私は「パパに顔も性格もそっくりだね」と言われることが嫌いでした。ママは二重まぶた、パパと私は奥二重まぶただからです。それだけじゃなくて、人と違うことばかり目についてしまうところ、一度興味が沸けば周りのことが目に入らないくらい没頭してしまう子どもっぽいところもパパに似ました。
中学校では変わってるねとよく言われてしまい、周囲に馴染めず劣等感がありました。でも今は、パパにそっくりに生んでもらったことを誇りに思います。パパはママのことが大好きでした。パパにしかできない仕事に一生懸命打ち込んで、私たちを守ってくれる姿には憧れるばかりです。パパに教えてもらったことは、私の中で今日も生き続けています。
これからは私と、私の中にいるパパが、大好きなママと良太を守ります。これからいっぱい困難があるだろうけれど、私たちはきっと、どんな未来でも笑顔でいるはずだから。これからも一緒にいようね。
二億%大丈夫。
岸田奈美
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僕は、PCのモニターでは原稿を読まないことにしている。一度プリントアウトして、最初は紙で読む。でもこの時は、その時間すら惜しいと思えたほど、いや、そんなことも忘れていたほど、この文章に引き込まれた。
最後の一文を読み終えた時、目からどっと涙が吹きこぼれた。奈美さんに、すぐメールを送った。早くこの手紙を、お母さんのひろ実さんに読んでほしいと思った。
お母さんのこれまでの人生を一つひとつ、丹念に聴き取り、奥底にある深い思いを引き出していかれたのは奈美さんだ。彼女なくして、この本は生まれていない。
でも本当は、この手紙にあるメッセージをお母さんに伝えたい一心で、奈美さんはひたむきに本づくりに関わっておられたように、いまは思う。
「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」
まだ17歳の女性が口にした言葉。このうえなく残酷で、このうえなく愛のある言葉。そのままタイトルにしたいと思った。多くの人の心を揺り動かす本になると確信した。
『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』
岸田ひろ実・著