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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

愛情ゆえの「死の容認」

編集者が自分の会社の出す本について書いた文章だから宣伝広告の一種だとも言えるが、内容が生きることと死ぬことについてのものなので、倫理についての考察材料になる。
ただ、この娘さんの年齢が、当人の手記だと大学卒で働いている人かと思われるのだが、編集者の文章では17歳となっているのが疑問である。
ほかにも記事タイトルの「放った」の語は「無慈悲に突き放す」ニュアンスがあり、記事中での娘さんの口調とは違うだろう、というのも疑問。これは編集者の習性として「人々の関心を惹くどぎつい言葉」を、意識してか無意識か知らないが選んだのだろう。
「死にたいなら死んでもいいよ」という言葉も、この話に無関係な第三者としては、自死というのは他人の許可ですることか、と言いたくなるが、これは非常の際に出た言葉への些細な揚げ足取りだろうし、この言葉は愛情から出たもので、愛情ゆえに相手の死を容認するという、非常に重い問題がここにはあると思う。




「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」――17歳の娘が下半身麻痺の母親に放ったひと言

その日、岸田奈美さんから届く原稿を待っていた。

最後にひとつだけ残っている、巻末の「娘から母への手紙」。

約束は早朝6時。でも、もし早く送ってきてくださった時のために、午前2時からパソコンをつけてスタンバイしていた。真っ先に目を通そうと思っていた。奈美さんの頑張りに応えることはもちろん、自分が純粋に、その原稿を早く読みたかったからでもある。

そして、午前2時30分。原稿は届いた。

「娘から母への手紙」


 ママへ


こうやって手紙を書くのは、覚えている限りで初めてです。きっと幼稚園や小学生の頃に書いたことはあるのかもしれませんが、ママと正反対に大雑把で忘れっぽい私はどうしても思い出せないのです。

でも、この本を読んでふと気づきました。良太の障害を初めて知った日のこと、小学校の先生に食ってかかったこと、パパに本を買ってもらったこと、家族四人揃って最後に旅行へ行ったこと・・・私は嬉しいことも悲しいことも、多くのことを忘れていました。

裏を返せば、それだけ怒涛の日々を送ってきたということかもしれません。しかし、はっきりと覚えていることがあります。 

二十五年間で、ママが悲しくて泣いているのを見たのは、たった一度だけです。もらい泣きや嬉し泣きこそあっても、ママはいつも笑顔を絶やしませんでした。「奈美ちゃんとお母さん、友だちみたいだね」と周りから言ってもらえるのは、私にとって鼻が高いことでした。

ママが泣いていたのは、病室のベッドの上でした。薄暗くなっていく病室で、ママは悔しさを押し殺すようにして俯いていました。私は病室の入り口から覗いていることしかできませんでした。

ママがリハビリ室に行っている間、勝手にママの携帯電話も見ました。私や良太には伝えなかった、きっと伝えられなかった、ママの寂しさや苦しさを綴ったメールが何通も残っていました。

その日私は、ママのリハビリが終わるのも待たず、勝手に家へ帰ってしまったのを覚えていますか。心配して何度も電話やメールをくれたのに、謝ることができなくて、本当にごめんなさい。

今日まで、ずっと後悔していました。ママが倒れた日、病院の先生に「手術をしてください」と言ったことを。私はママに死んでほしくなかった。もっとママと話したかった。そんな一心で伝えた選択によって、ママの命は助かりました。

手術が終わり「命に別状はありません」と先生から言われた時、私はひたすら喜びました。おばあちゃんからテレフォンカードを借りて、残っていた限度額がすっかり無くなるまで、親戚中に電話をかけ続けました。助かって良かった、ママは幸運だったと。

私や親戚の言葉に答えるように、目覚めたママは笑っていましたね。そんなママが隠していた涙を見た時、責められるべきは、私だと気づきました。私が手術を望んだせいで、ママが死ぬよりも辛い思いをしているのだと。だからママから「死にたい」と言われた時、私は拒否なんてできませんでした。

思わず口をついた言葉は「死んでもいいよ」でした。それが私にできる最後の償いだと思いました。本当に死んでしまったらどうしようと、内心は焦りでいっぱいでした。大学に入学して、ミライロの創業メンバーとして参加した頃、ママにはたくさん心配をかけてしまいました。終電で寝過ごして何度も遠くの駅まで迎えに来てもらったり、単位がギリギリで大学から通知が届いたり、数えるとキリがないですね。

でも、ママが初めて一緒に仕事をしてくれた日のこと、大勢の前で話したいと意気込んだこと、神戸へ戻る新幹線で「死ななくて良かった」と言ってくれたこと、全部覚えています。嬉しくて嬉しくて、飛び上がりたいくらい幸せでした。

私はママの笑顔のおかげで、どんなに辛くても、苦しくても、今日を走り続けることができています。

ママ、死なないでくれてありがとう。
私を信じてくれてありがとう。

私は「パパに顔も性格もそっくりだね」と言われることが嫌いでした。ママは二重まぶた、パパと私は奥二重まぶただからです。それだけじゃなくて、人と違うことばかり目についてしまうところ、一度興味が沸けば周りのことが目に入らないくらい没頭してしまう子どもっぽいところもパパに似ました。

中学校では変わってるねとよく言われてしまい、周囲に馴染めず劣等感がありました。でも今は、パパにそっくりに生んでもらったことを誇りに思います。パパはママのことが大好きでした。パパにしかできない仕事に一生懸命打ち込んで、私たちを守ってくれる姿には憧れるばかりです。パパに教えてもらったことは、私の中で今日も生き続けています。

これからは私と、私の中にいるパパが、大好きなママと良太を守ります。これからいっぱい困難があるだろうけれど、私たちはきっと、どんな未来でも笑顔でいるはずだから。これからも一緒にいようね。

二億%大丈夫。
                           岸田奈美

──────

僕は、PCのモニターでは原稿を読まないことにしている。一度プリントアウトして、最初は紙で読む。でもこの時は、その時間すら惜しいと思えたほど、いや、そんなことも忘れていたほど、この文章に引き込まれた。

最後の一文を読み終えた時、目からどっと涙が吹きこぼれた。奈美さんに、すぐメールを送った。早くこの手紙を、お母さんのひろ実さんに読んでほしいと思った。

お母さんのこれまでの人生を一つひとつ、丹念に聴き取り、奥底にある深い思いを引き出していかれたのは奈美さんだ。彼女なくして、この本は生まれていない。

でも本当は、この手紙にあるメッセージをお母さんに伝えたい一心で、奈美さんはひたむきに本づくりに関わっておられたように、いまは思う。

「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」

まだ17歳の女性が口にした言葉。このうえなく残酷で、このうえなく愛のある言葉。そのままタイトルにしたいと思った。多くの人の心を揺り動かす本になると確信した。


『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』
岸田ひろ実・著

https://online.chichi.co.jp/item/1137.html

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