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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

女性器切除とは何か

私が昔から疑問に思っていたことのひとつがアフリカや中東などで行われる「女性器切除」のことである。素朴な疑問なのだが、女性器というのは男から見れば「空間」あるいは「空間の周辺」のイメージであり、そのどの部分を切除するのか、想像できなかったわけだ。まあ、たぶん、クリトリスとか陰唇とかいう部分だろうな、とは何となく想像していたが、その意図となるとまったく理解できない。なぜ女性に無益な苦痛を与えるのか。
先ほど考えたのは、「女性に性感を与えるべきではない」という、男権社会特有の思想なのではなかったか、というものだ。つまり、自分が快感を得るのはいいが、女性が快感を得る様を見るのは不愉快だ、という気持ちが「権力の独占」を当たり前とする男権社会にはあったのではないか。
下の記述の中で「膣の切除」というのは想像を超えている。膣口部分ならまだ切除可能部分として分かるが、膣とは膣口から子宮口まで至る部分だろう。それをどのように切除するのか。
疑問は尽きない。

(以下引用)


女性器切除

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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国別被人口グラフ

女性器切除(じょせいきせつじょ、Female Genital Mutilation、略称FGM;「女性性器切除」とも表記する)あるいは女子割礼(じょしかつれい、Female Circumcision)とは、女性器の一部を切除あるいは切開する行為。主にアフリカを中心に行われる風習であり、成人儀礼のひとつ。 女性器切除とはこの風習に対して虐待であると批判する人々が使う呼称であり、一方で批判の文脈とは独立に、男性器の包皮切除を行う男子割礼と同等の儀礼であると考える文脈では「女子割礼」の語が主に使われる。

概要[編集]

歴史的に見て女性器切除は2,000年もの間、赤道沿いの広い地域のアフリカで行われてきた。現在ではアフリカの28カ国で、主に生後1週間から初潮前の少女に行われる。アフリカの人口増加に伴い、以前より多くの少女達が性器切除を施されている。

欧米においては、この慣習の存在する地域からの移民の間においても女性器切除が広く行われていることが昨今の調査で明らかになった。それに対して法的な規制を制定するも増えてきている[1]

目的[編集]

  • 大人の女性への通過儀礼
  • 結婚の条件とされている。
  • 結婚まで純潔・処女性を保てると信じられている。
  • 女性の外性器を取り去り性感を失わせることで、女性の性欲をコントロールできると考えられている。
  • ソマリアでは「女性は二本の足の間に悪い物をつけて生まれた」と言われており、陰部封鎖させる。

手術方法[編集]

  • 一般に土地の伝統的助産婦によって、剃刀ナイフ、鋭いなどが使われ、母親親族の女性に押さえ付けられて行われる。
  • 不衛生な状況下でたいていは麻酔や鎮痛剤無しで行われることが多いが、エジプトなどでは医療関係者が行っていることが分かり問題となった。
  • 止血などが用いられることもある。

名称[編集]

女子割礼、女性性器変質あるいは女性性器の切れ込み (Female Genital Cutting) 等、この風習を呼び表すために様々な言葉が用いられてきた。そんな中、1990年に開催されたインター・アフリカン・コミッティ(IAC)の総会において、今後は女性器切除(Female Genital Mutilation)という名称を用いることが決定された。これは、「割礼」という表現が女性器切除の本質である性器の切除という事実を正確に伝達するものではないばかりか、むしろ、その非人道性を曖昧にしてしまう点を改善しようとするものである。現在この“女性器切除”という呼称はEUアフリカ連合等で正式に採用されている。

分布[編集]

アフリカにおける女性器切除の分布と比率

Fgm map.gif [2] 2011年世界における女性器切除の分布図

定義と分類[編集]

国際会議などでは、世界保健機関(WHO)の定義を使うことで同意されている。

タイプ1:クリトリデクトミー(clitoridectomy)
クリトリスの一部または全部の切除。スンナ式女子割礼。
タイプ2:エクシジョン (excision)
クリトリス切除と小陰唇の一部または全部の切除。地域によっては出産を楽にするためとしてさらにが切除されるが、実際には逆に困難にしてしまう可能性が高い。伝統的に成年に達した際の儀式として行われるが、最近では若年化が進み、もっと幼い少女に行われる。女性器切除を受ける少女のうち、タイプ1とこのタイプを合わせて約85%である。
タイプ3:陰部封鎖(infibulation)
外性器(クリトリス、小陰唇、大陰唇)の一部または全部の切除および膣の入り口の縫合による膣口の狭小化または封鎖。その際尿月経を出すための小さな穴を残し、少女の両をしっかり縛って数週間傷が治るまで固定する。主に4歳から8歳の少女に行われ、こちらも若年化が進んでおり、生後数日に行なわれた例もある。女性器切除を受ける少女のうち、約15%がこのタイプになる。ファラオリック割礼、ファラオ式女子割礼ともいう。
タイプ4:その他の施術(タイプ1-3に属さないもの)
その他、治療を目的とせず、文化的理由のもとに、女性外性器の一部あるいは全部を削除し、あるいは女性の生殖器官を意図的に傷つける行為のすべて。
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女神としての少女と性欲の対象としての少女の区別がつかない馬鹿たち

別ブログに書いたものだが、わりといい出来の「小論文」だと思うので、ここにも載せておく。
もちろん、「女神としての少女」は崇拝する側の妄想だが、妄想とは偉大なフィクションの原動力である。性欲(あるいは形而下の事象)でしか物事を考えない馬鹿が多すぎる。


(以下自己引用)表現の細部にわずかに手を入れてある。

一部で有名になってあちこちでリツィートされているものだが、宮崎駿が第一話のラナの描き方に大落胆したのは事実だろう。実際、原画の大塚康夫(字はこうだったか)は第二話以降はラナを描かせてもらえなかったと言う。
まあ、私が見る限りでは、第二話以降もそれほど「美少女化」したとは思えないというか、第一話のラナをとんでもないブスと思った宮崎駿のほうがおかしいと思うのだが、おそらく宮崎の脳内ではラナは「女神化」しており、自分でもどう描いていいか分からず、大塚氏に期待したのではないか。ところが、想像以上に「ブス」だったわけだ。つまり、漠然とした空想上の「美少女」との落差による失望だろう。
大塚氏にとっては非常に気の毒な話で、第一話のラナは海辺で気絶しており、意識が少し回復して顔を上げた途端、巨大なサメの顔と対面し、目を回すのである。その目を回す顔を「美少女」に描け、と言われたのだから理不尽な要求というものだろう。
で、「作品内現実」の次元で考えると、コナンは生まれて一度も女を見たことが無いのである。そういう子供に女性の美という観念があるだろうか。つまり、一目見た途端に、「一生この女のために頑張るぞ」と思うのは、ラナの美しさのためだとしたら、その美の基準は、たとえばおじいの老年顔の醜さとの対比によるものであり、他の少女と比較してのものであるはずはないわけだ。その意味ではラナが「絶世の美少女」である必要性は無い。
まあ、視聴者としては、ラナがブスや平凡な顔では視聴継続する気にもなれないし、宮崎駿もブスなヒロインのためにアニメ作りを延々と続けるのは御免だっただろう。まさに「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」なのである。それは、相手がフィクションの女性だろうが同じだ。
なお、宮崎駿をペドフィリア扱いする馬鹿がいるが、彼は単に少女というものを女性美の極致としているだけで、性欲的な対象としているわけではない。創作においてまで少女を美や崇拝の対象とすることは変態的だ、というのは馬鹿な精神科医(斎藤環)か馬鹿なフェミニストか物まねオウムだけである。
なお、ナボコフの「ロリータ」も、少女を性欲の対象ではなく、崇拝の対象とした物語である。主人公(語り手)のハンバート・ハンバートがロリータをセックスの相手にするのは、相手から誘われたから応じただけであり、しかもそれ以前にロリータは同年齢の少年と性体験を持っていたのだ。


三馬力 @NAUSICAA198403

宮崎駿監督「一話ですが……。僕はもう、一話を見た途端、首を吊ろうかと思った」
「ラナってのはね、コナンが一目見た途端に、 一生この女のために頑張るぞというくらいの美少女でなければならないと (僕は) 思い込んでるのに、すごいブスラナが出て来ましてね」

不倫と買売春

これは上野千鶴子とかフェミニズムの問題というよりは、女性独特の倫理観があるような気がする。まあ、それを倫理と言っていいのかどうか分からないが、一般に女性は「不倫には甘く、買売春には厳しい」という印象がある。その理由を今適当に考察してみると、女性は規則よりも愛情を優先する、ということではないかと思う。だから、不倫も愛情が前提であるから咎めるには当たらない、となるわけだ。夫婦というのはただの「制度」であり不倫の禁止もただの「規則」だから、愛情の前には存在価値はない、となる。つまり、夫婦の間に愛情が無くなれば、お互いに貞操を守る義理も無い、ということかと思う。
一方、買売春は、それこそ「愛情の無い性交」だから、女性は本能的に嫌悪感を感じるのではないか。
私から見れば、行きずりの相手と簡単に性交関係を持つのなら、買売春と何が違うのか、と思うのだが、どうも「カネ」が介在すると性交と愛情が完全に別のものになると女性は思うのだろう。そのくせ、相手(男)からの高価なプレゼントは愛情の証だとするなら、それは変な気がする。

なお、不倫における「愛情」というのは単に相手を肉体的に欲しいと思うことであり、男が性欲に駆られて商売女を買うのと、本質的には何も変わらないと私は思うのだが、女性はそういう考えを猛烈に嫌悪するような気がする。
男の場合は、本気で愛する女とは「結婚したい」あるいは「恋人にしたい」、つまり「自分だけのものにしたい」と思うのであり、行きずりの相手と寝るのは商売女を買うのと何も違いはない。まあ、不倫する男が不倫相手と結婚したいかと言えば、まず八割がたは、「そんなのは御免だ」と思っていると私は推測するwww さらに言えば、既婚者と性関係を持つ段階で、相手の男はその女性(自分の浮気相手)を心の底では軽蔑し、軽視している。まあ、「半額くらい」に価値低下をするのである。もっとも、女の側が性欲充足目的の不倫なら、どうでもいい話である。

(以下引用)


荒井禎雄
@oharan
おいおい、あんた女の不倫は認めてるよな?
以前「母親が不倫している」と相談してきた男子学生に「母親も女だ」と説教したよな?

それってようは「男の自分勝手な性欲」を容認する思想だよな?
まさかそれを分からず言ってるのか?
引用ツイート
上野千鶴子
@ueno_wan
·
日本の社会は男の自分勝手な性欲に寛大すぎる。それに声を挙げると、今度はもっと寛大になれ、と非難がくる。おかしい。「またか」「あるある」という寛大さ(鈍感さ)が岡村さんのような発言を許容してきた。「この程度のこと」に声を挙げつづけて、少しずつ社会を変えてきたのだ、忘れないでほしい。

軽度サイコパス

まあ、こういうのを「軽度サイコパス」と言うことにしようかと思っているが、人間集団の一割くらいはこれではないかと思う。あるいは二割くらいいるかもしれない。
たとえば、公道や他人の家の敷地に平気でゴミを捨てる人間も同類である。
文明人がどのようにしてモラルを身に付けるのか、そしてそれは現代ではどうなっているのか、それも「現代倫理学概論」のテーマである。

(以下引用)

唐沢なをき
@nawokikarasawa
返信先: さん
前にもツイしたかもですが、近所の駐輪場で学生さんが、自分の自転車見つからなくて「あれ?どこだっけ」って探してたんですが連れの彼女(尻に敷いてる感じ)が「早くしなよー、見つからないなら鍵かかってないの適当に引っ張り出して乗ってきゃいいじゃん」って命令してるの聞いてモヤモヤしました。






生まれつきの犯罪者

「いつか電池が切れるまで」から転載。文中の引用文は堀江貴文の本の一節。
モラル(特に性に関するモラル)や人間性の本質、あるいは人間性の多様性に関するいいレポートであると思う。
世の中にはこの「魚河岸くん」みたいな人間が3%はいる、と私は思っている。そのうち2%が男で1%が女、くらいのイメージだ。もちろん、女性が男性を強姦するのは難しいだろうから、女性のサイコパスは別種の表れ方をするだろうが、完全にモラルが欠如しているという点では同じである。
なお、そうした人々の犯罪性が「生まれつき」かどうかは議論の対象になるだろうが、私は「こいつは将来犯罪者になるだろうな」という顔付と表情の3歳児(か4歳児)を見たことがある。私は人相判断ではかなり優秀なのである。それは顔の美醜の問題ではないが、美醜とは別に不快感を与える人相は、やはり性格に問題があるようだ。


(以下引用)


 なかでも、最も反省の色がうかがえなかったのが中部地方出身の「魚河岸くん」。私と同じ工場の衛生係で、ちびで小太り、調子のいい子分タイプの若造だ。子供の頃から悪さをしてきて、その様子は聞いているだけでもドン引きレベル。


(中略)


 が、彼が捕まったのは窃盗や車上荒らしではない。「強制わいせつ」なのである。美容師を目指して関西に出た彼は、川沿いの人里離れた場所にワゴンを停車、通りかかった女性を拉致し強姦していたらしい。地元に返ってもその癖は抜けず、真っ暗なロードサイドを自転車で走っている女子高生を見つけては、自転車ごと田んぼに蹴飛ばし脅して強姦したという……。テレビドラマかケータイ小説でしか聞いたことがないような、ちょっと想像を絶する話に、私の口から出た言葉は「よく、萎えずに勃つよね……。俺は無理だ」のみ、
 そんな鬼畜な彼は、対人スキルが低いどころか、むしろ高め。シャバにいた頃は魚市場に勤務し、奥さんと子供までいる。悪事を働かなくても、十分に楽しい生活を送れるだけの能力があると感じた。となれば、気になるのは「なんで、リスクを犯してまで犯罪を犯すのか?」ということ。一度、
「対人能力のスキルがあって営業力もあるから、悪事を働かなくても生きていけるはずなのに何でそんなことするの?」と尋ねたことがあった。彼の答えはこうだ。
「たしかにそうなんですけど、仕事も2〜3時間で終わるんで暇があって、その間にソーシャルゲームやったりとか車上荒らしとか強姦したり……。やっぱり、病気ですね」
 つまり、趣味のレベルで車上荒らしや強姦をしていたのである。それを聞いた瞬間、開いた口が塞がらずポカーンとなったのは言うまでもない。


 この「魚河岸くん」のレベルになると、病気というか、「良心とか罪悪感というのが、極度に少ない人間がいるのではないか」と考えずにはいられない。
 そして、こういう人を「更生」させることって、本当に可能なのだろうか、と思う。
 「人は誰でも変わることができる」と言う、「良識と善意ある人々」もいるけれど、すべての人に更生が可能なのだろうか。


 そもそも、加害者側がどんな理由や事情を抱えていようと、無差別に振りかざされた凶器で、人は死んだり、致命的なダメージを受けたりする。
 

 そして、被害者を支援する人たちも、いつのまにか、守りたいのは被害者ではなく、自分の政治的主張になってしまう。