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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

自由な槍?

これは意外である。ちゃんと辞書で調べた人は偉い。





フリーランスのランスってなんなんだろ、槍じゃないだろうし…って思って調べたら槍だった
まじかよ








フリーランス ランス 槍 傭兵 騎兵に関連した画像-02
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1929年の株式大暴落と大恐慌と第二次大戦の仕掛け人

■1929年10月24日のウォール街大暴落 

発展を続けていたアメリカ経済に衝撃を与えたのが1929年10月24日に起こった「ウォール街大暴落」だ。

暴落の理由はいまだにはっきりとはしていない



とあるが、世の中に原因が無くて起こることは無い。つまり、株式大暴落は誰かが起こしたものだろう。株式大暴落を理由として大企業が生産を縮小し、銀行が融資をやめたため、自己資金の無い中小企業は連鎖的に倒産し、大恐慌となったかと思われる。すべての企業が同時に業績不振になることはありえないからだ。
つまり、真犯人は大企業と銀行の元締めであるDSだとなるのではないか。大不況の間も、もともとカネを持っているDSは黙って見ていればいい。そして、世の中がどん底になった時、戦争で金儲けし、また倒産した無数の企業の資産を底値で買い占めて資産を増やせばいい。つまり、カジノで、カネを持っている者に勝てないのと同じ道理である。



株価大暴落の背景と原因

暗黒の木曜日における株価の大暴落には、どんな背景や原因があったのだろうか。

■「暗黒の木曜日」以前の世界経済 

第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパ諸国が復興や戦後処理に追われるなか、戦争による大きな被害を受けることがなかったアメリカは、1920年代に大きな経済成長を遂げることとなる。これまで経済の中心だったイギリスを追い抜く勢いで、世界最大の経済大国に躍進したこの時代は「狂騒の20年代」と表されることもある。

この時代には、自動車や家電製品の製造技術の発達に加えてラジオや映画といった大衆文化の発展も見られた。経済発展が著しかったこの時期のアメリカ経済は「永遠の繁栄」と揶揄されるほどだった。  

■1929年10月24日のウォール街大暴落 

発展を続けていたアメリカ経済に衝撃を与えたのが1929年10月24日に起こった「ウォール街大暴落」だ。

暴落の理由はいまだにはっきりとはしていないが、要因として考えられる要素はいくつか存在する。代表的な要因として挙げられるのは、商品の生産過剰だ。著しい発展を続けていたアメリカ経済だが、1920年後半には大量生産によって商品の飽和が起こり始め、農業の不況もあって人々の消費も落ち着いてきていた。 

しかし、それに反して株式投機の勢いは衰えず、企業は投資家から得た資金を利用して大量生産を続けたのだ。このような商品の飽和と企業の大量生産という状況の矛盾に投資家たちが気づき始め、株の売りに走ったと考えられている。また、世界的に保護関税貿易が推進され、貿易規模が縮小したことも株価暴落の原因の一つだとされている。 

「暗黒の木曜日」が世界に与えた影響 

ここからは、暗黒の木曜日が世界に与えた影響を見ていこう。 

■「悲劇の火曜日」 とは

暗黒の木曜日から5日後の19241029日は「悲劇の火曜日」と呼ばれている。暗黒の木曜日の暴落に関する報道が週末の報道によって民衆に広く知られたことで、パニックを起こした投資家が株式の売却に殺到した。これにより、暗黒の木曜日を上回る株価の大暴落を引き起こすこととなる。アメリカ経済の大暴落は、ここから世界経済への影響をさらに強めていく。 

■世界恐慌へ

暗黒の木曜日に端を発した株式の大暴落は、連鎖的に世界的な株の暴落を引き起こした。世界トップクラスの経済大国に躍り出ていたアメリカ経済の混乱は世界経済の混乱につながり、やがて世界恐慌に発展する。各国は世界恐慌への対策を行うことになるが、各国の対策が国際関係の緊張を引き起こし、結果として世界恐慌は第二次世界大戦へとつながっていく。 

■経済の立て直し

世界恐慌発生時のアメリカ大統領であったフーヴァーは、経済の自然回復を信じて特別な対策を行わなかった。これは古典派経済学者アダム・スミスによる自由主義的な経済理論を参照した判断だ。スミスは自身の経済理論において「神の見えざる手」に代表されるように、国家や企業はできる限り経済に介入すべきではないと主張していた。 

この方針によって経済への介入を控えたフーヴァー大統領だが、世界恐慌への対策として19317月に「フーヴァーモラトリアム」と呼ばれる政策を打ち出す。これは第一次世界大戦によって発生したヨーロッパ諸国の賠償金や負債の支払いを1年間猶予し、経済の回復を図るというものだった。しかし、すでに世界恐慌による影響は大きく広がってしまっていたため、見込んでいたような効果は得られなかった。 

 

「共同幻想論」批判

ふと、吉本隆明の「国家は共同幻想である」という論を批判したくなったのだが、実は私はそれを読んだこともない。しかし、国家や政府が現実的存在であるのは明白なので、吉本のこの言葉は害悪を流しているとは思う 。
彼の主旨(意図)は「国家は、そう思われているほど堅固なものではない」というアジテーションだったのだろうが、単に自己の教祖化、あるいは論壇での地位確立に資しただけで、社会改良にはまったく寄与しなかったのではないか。逆に、「共同幻想だから、たいした存在ではない」という国民の安易な姿勢を生んだのではないだろうか。
空気と同じことで、「見えないから存在しない(幻想だ)とはならない」のである。


(以下引用)


共同幻想論』(きょうどうげんそうろん)とは、1968年に刊行された吉本隆明の著作である。当時の教条主義化したマルクス・レーニン主義に辟易し、そこからの脱却を求めていた全共闘世代に熱狂して読まれ、強い影響を与えた思想書である。

背景と要旨[編集]

共同幻想論とは、幻想としての国家の成立を描いた国家論である。当時の国家論は、集団生活を成立させる機能として国家を作ったという社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であるというレーニン的な国家論が一般的であった。つまり、国家とはルール体系であり、機能性を重視したシステムなのである。しかし、吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創るように、国家と言うフィクションを空想し、創造したのである。これはルイ・アルチュセールのイデオロギー装置論に似ている。人間は自分の創り出したフィクションである共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられている呪術的な物体に触れたら、自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。個人主義の発達した現代でも、自己幻想は愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されている。共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、現在でもラジカルな本質的課題であると吉本は指摘している。

吉本は血縁・氏族的共同体(家族)が、地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟の対幻想に着目している。兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、いくらでも無傷に空間的に拡大できる。兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立するのである。逆に言えば、原始的な国家の成立は、兄妹・姉弟の近親相姦が自覚的に禁止されたときに求められる。中上健次の「国家は白昼に突発する幻想化された性なのだ」と言う言葉は、このことを指している。

また、吉本にとって、高度な経済力や科学力を持っていた近代国家である戦前の大日本帝国が、やすやすと天皇制と言う、宗教性の強い古代・中世的な政治体制やイデオロギーに支配されてしまったことは大きな難問だった。吉本は、宗教・法・国家はその本質の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張し、政治体制は経済体制に規定される(唯物史観)とするロシア・マルクス主義を批判する。その試みは、吉本にとってロシア・マルクス主義からの自立であって、少年期に骨の髄まで侵食された天皇制と言う共同幻想を意識化し、対象化し、相対化しようという試みでもあった。

構成[編集]

共同幻想論は、禁制論、憑人論、巫覡論、巫女論、他界論、祭儀論、母制論、対幻想論、罪責論、規範論、起源論の11の編によって構成されている。吉本は自分の幻想論を使い、『遠野物語』から村落の共同幻想を、『古事記』からは初期国家の共同幻想を解読しようとする。

「辺境伯」は重要な地位

中世欧州風の国を舞台にすることが多い異世界物小説(多くはなろう小説)によく出て来る「辺境伯」という言葉の正確な意味を知りたくて、愛用の「新明解百科語辞典」で引いてみると、だいたい漠然と予想していた通りの内容だった。

辺境伯:フランク王国、神聖ローマ帝国で、国境防衛のために設けられた辺境領と呼ばれた地域を統括した高官。大公に類する権限を有し、次第に諸侯化した。

で、おそらく、いい加減に作られたラノベの中世風騎士物語風小説では、この「国境防衛」や「大公に類する高官」や「諸侯化した」というあたりはまったく考慮のほかで、単に「何となくカッコいい名称だから」という理由で「辺境伯」という名前を使っていると思う。おそらく「諸侯」の意味する地位の重みも知らないのではないか。
特に確認せずに書くが、「フランク王国」は現在のフランスの前身、「神聖ローマ帝国」は現在のドイツ・オーストリアの前身と思えばいいか。ナチスドイツがオーストリアを併合し、「第三帝国」を自称したのは、古代の「ローマ帝国」、中世の「神聖ローマ帝国(西ローマ帝国)」を血統的に受け継いでいる由緒ある国家だという宣伝広告だと言えるだろう。

17世紀のイギリスの貨幣価値を現代日本の貨幣価値にしてみる

市民図書館から、いろいろな本を借りて読書を楽しんでいるが、その中には児童書(児童文学)とされている本もかなり含まれている。スチーブンソンの「誘拐されて(攫われたデービッド)」や「宝島」など、べつに子供だけが対象という小説ではないし、現代の大人が読んでも面白い。
この前借りてきたのが、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」で、これなど当時の大人が熱狂して読んだベストセラーである。そして、大人が読んでこそ理解でき、面白い部分が多い作品だが、ここで私が書く珍説は、当時の貨幣価値を現代日本の貨幣価値に直してみるというものである。
「福音館古典童話シリーズ」には、実に親切な注釈が巻末にあるが、それを参考にしてみる。
それだと、
1ポンド=20シリング
1シリング=12ペンス
である。つまり、20進法と12進法が混在している。
そこで、非常に大胆に、当時の実際的貨幣価値の最低ラインが「2ペンス」だったと仮定する。これは、アガサ・クリスティの小説の人名に「トミー・タッペンス」というのがあるからだ。このタッペンス(2ペンス)が、現代の10円玉に相当する、という仮定である。1円玉や5円玉が現代では単独ではほとんど使用価値が無いことは誰でも実感しているだろう。
さて、2ペンス=10円と仮定すると、1シリングは60円、1ポンドは1200円となる。
これを、さらに大胆に、1ポンド=千円として、昔の英文学を読むと、なかなか妥当性を感じるのである。
たとえば、ロビンソンは二回目に遭難する前(1回目の遭難の後)に、ちょっとした農園事業で成功して、そのカネの一部で安い雑貨を買い、それをアフリカで高く売って金儲けをしようとするのだが、その資金が(資産全体の半分で)100ポンドなのである。これの利益が投資金額の4倍になったと書かれている。
これは、素寒貧から小さな農園経営を始めて資本に余裕が少しできた人間の投資額としては「10万円が40万円の利益を生んだ」という、実に現実味のある数字になる。(現代のようにインフレ=カネのバブル化が進み、貨幣価値があまりに低落した時代に直せば、昔の1ポンド=現代の1万円が適切かもしれない。それだと「100万円の投資が400万円の利益を生んだ」となる。)
まあ、何より、1ポンド=千円(あるいは21世紀なら1万円)というのが、非常に覚えやすくていいのではないか。

ちなみに17世紀はイギリスではピューリタン革命があり、ブルジョワ層の勃興期である。奴隷貿易の最盛期でもあるので、「ロビンソン・クルーソー」の中には平気で奴隷売買をする話が多い。これは「児童書」としてはいかがなものかwww 現代のポリコレ風潮の中で、いずれ禁書になる可能性が高いので、「ロビンソン・クルーソー」も読めなくなる時代が来るかもしれない。読むなら今のうちである。