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青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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さまざまな遺伝的要因が複雑に絡み合って起こる、脳の機能障害が原因だと言われています。
これは生まれつきのものですので、育て方や環境が原因となることはありません。
診断基準(DSM-5:「精神疾患の診断・統計マニュアル 第5版」)や(ICD-10:「国際疾病分類第10版」)などをもとに症状や生活の中の困りごとなどを確認し総合的な診断へとつなげます。
また発達障害の診断には生育歴などの情報も重要になってくるため、ご家族と一緒に来院いただいたり、通知表など幼少期の様子が分かるものがあると診断に役立ちます。
また心理検査なども併せて実施することで特性や得意不得意を理解しその後の支援に生かしていくことができます。
また大人になって自閉スペクトラム症と診断されるケースはそれまで集団内での問題を回避できていたが、不安障害やうつ病などの合併症や職場での不適応を原因で来院されるケースも多いため他の精神疾患のベースに自閉スペクトラム症がないかを考えていくことが重要になってきます。
脚絆(きゃはん。脚半とも[1][2])とは、脛の部分に巻く布・革でできた被服[3]。ゲートル(仏: guêtre)とも。
活動時に脛を保護し、障害物にからまったりしないようズボンの裾を押さえ、また長時間の歩行時には下肢を締めつけて鬱血を防ぎ脚の疲労を軽減する等の目的がある。日本では江戸時代から広く使用されるが[4]、元となった脛巾(はばき)自体はそれ以前から(武家・庶民共に)見られる[5][6]。現在でも裾を引っ掛けることに起因する事故を防いだり、足首や足の甲への受傷を防ぐ目的で着用を義務付けている職場があり、作業服などを扱う店で販売されている。
いわゆるレギンス型とは面積のある1枚ものの布または軟革をバックルやボタン、バンドなどで固定するもの。足の甲を覆う形状のレギンスでは、靴の土踏まずに掛けるベルトを備える場合がある。世界の軍隊の装備としては第二次世界大戦頃までは後述の巻脚絆と共に双璧をなしていたが、戦後は編上げ式の半長靴の普及によってとって代わられ、儀礼的な軍装品としてのみ形を残している。民間においては、溶接業、製鉄などの金属工業、機械工業などの職業分野で、足首と足の甲を保護するために多用されており、面ファスナーで固定する製品もある。
脛全体ではなく、踝辺りのみを巻く小振りのレギンスは「短ゲートル(半脚絆)」などと言われる。また、硬革の脛当てである「革脚絆」は、主に乗馬長靴の代わりとして用いられた。
春たけなわである。そろそろ女性の足元も軽やかになる季節であろう。
江戸時代は、靴下ではなく足袋(たび)を履(は)いていたが、それはもっぱら寒さしのぎの場合であって、庶民は病気でないかぎり裸足(はだし)の生活が日常だった。足袋は贅沢(ぜいたく)な履物で、多くの人々は裸足で下駄(げた)や草履(ぞうり)などを履いていたし、裸足で外を歩くことも珍しくなかった。
明治34年(1901)5月29日、警視庁は裸足禁止令を出しているが、ペストの流行を危惧(きぐ)し、衛生を考えた上でのことである。明治時代になっても東京の街中を裸足で歩く者がそれほどいたということがわかる。
江戸時代の絵を見ると、振り売り(行商人)などは裸足で街中を売り歩いている。もっとも、ガラスがなく、金属片もほとんどなかった時代だけにケガをするということもなかったろう。私は、まだグラウンドにガラスの破片などがあまりなかった昭和30年前後の頃、小学生時代に運動会でズックを履かずに運動足袋と称するものを履いて走った記憶があるけれど、今のランニングシューズより軽く便利だった。
井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)を読むと、老婆が革足袋を履いているというのは、ケチで流行遅れのものを大切に使っているということで出てくる。布製でなく革製の足袋は確かに長持ちするだろう。おそらく戦国時代などでは戦陣で戦うのに足元をしっかりさせるために革足袋を履いていて、その遺風が江戸時代にも残っていたということであろう。
年寄りが冬場から春先にかけて寒さしのぎに足袋を履くことは江戸時代もあった。江戸城へ登城する年寄りの幕臣たちは、願い書を出して足袋の着用が許されている。だが、若い幕臣たちは裸足が原則だった。寒い冬の日、廊下を裸足で歩くというのは冷たくて大変だったろうと思うが、いざという時、足袋を履いてるために廊下を滑っていたのでは、武士の本分である剣術を全うできないと考えていたものだろう。
平賀源内(ひらがげんない)の本草学(ほんぞうがく)の師匠でもある本草学者で医師でもあった田村藍水(らんすい)の息子で幕府医官を勤めた田村元長(げんちょう)は、天明4年(1784)3月、足痛のため夏冷えするので、登城の折には足袋の着用を許可していただきたいと願書を幕府に出している。元長が46歳の時のことで、幕府に許され、毎年のように出していたようでもある。
時代劇などでは、江戸城で武士たちは足袋を履いて動き回っているが、正式な儀式で礼服を着用するとき以外は裸足が原則で、江戸城内にあっては足袋は老体になって許可された者だけが履くものであった。
江戸の足袋屋は、寒い季節が商売繁盛で、足袋の形をした看板を掲げていた。分かりやすくて人々の目にとまりやすかったろう。その店先では、それぞれの大きさの足袋を箱の中にまとめて入れてあって客に選ばせた。これは乱暴な売り方のようだけれども、左右の足の大きさが違うことはよくあることで、足にフィットしたものを客に自由に選んで買ってもらうわけなのである。一見してズボラな商売をしているようだが、左右の足の大きさが違う客もいるわけだから、無駄のない実に合理的な販売方法といえた。
うるまの島(うるまのしま、うるま)は、沖縄県の雅称。宇流麻とも当て字される。
「島の名」としての用語の初出は、平安時代の歌人藤原公任の千載集に載せられた歌、「おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らず顔なる(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)」とされる。
この場合「うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)」と前書されてあり、ここでの「うるま」が朝鮮半島の鬱陵島(ウルルンド)であることは、すでに明治時代中期には佐々木弘綱・佐佐木信綱父子が朝鮮半島の属島と明記し[1]、後述の古典籍の記述からも、古典文学、和歌研究者の間での定説となっている。
『大日本史』(巻234)[2]によれば、【藤原行成の『権記』に寛弘元年(1004年)高麗人の因幡漂着が記述され、『本朝麗藻』によれば食料を与え帰国させたとあり、この漂流者は『大納言公任集』によれば新羅宇流麻島人で、『東国通鑑』では芋陵島人である(本朝麗藻では「迂陵島」)】と記述されている。日本語の通用しない相手としての「うるま」としては、同じく平安時代の『狭衣物語』にも「こはいかにとよ うるまの島の人とも覚え侍るかな(どうしたものか、言葉の通じないうるまの島の人のようにこちらの心が通じない)」と使われている。
『千載集』(1188年)に採択される前に編纂された私家版の『公任集』(1041年頃)の詞書(前書)には「しらぎのうるまの島の人」とあるものが、千載集では国名が省略されてしまったため、これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、異郷の島の呼び名となった。
なお、「うるま」の言葉自体は藤原仲文の歌、「ゆきかよひ定めがたさは旅人の心うるまのわたりなりけり」が初めとされるが[3]、こちらは美濃の宇留間(岐阜県各務原市鵜沼)のことである[4] 。
室町時代には、当時の琉球国が室町幕府に遣使し本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄を指すようになった。文献上は宗碩の連歌用語辞典『藻塩草』(1513年頃)に「宇留間島(非日本か一説をきなふを云と)」とあるのが最古である[5]。安土桃山時代に里村紹巴が『狭衣物語』の注釈書『下紐』に「琉球をうるまの島と云と也」と書いてこれが定着したものと考えられ、江戸時代前期に成立した和歌用語辞典『和歌呉竹集』には「うるまのしま国 又うるまの国ともいふ 琉球国の事也」と明記されている。連歌用語辞書『匠材集』(1597年)では「うるまの國 りうきうなり」、「うるまのしま えそか嶋也」と沖縄と北海道が並べられ、「言葉の通じない異郷の地」の意味合いで「うるま」という名は認識されていた。
琉球側文献では、古語も多く含まれる古歌謡集『おもろさうし』(1623年)にも「うるま」の記述はない。17世紀末に識名盛命(唐名は毛起龍)が和文体の紀行文『思出草』(1700年)に薩摩と日本本土での琉球の別称として記したことから、琉球人の間でも知られるようになったが、知識人以外の一般への定着はならなかった。
もっとも、江戸時代中から「うるま」と琉球国の関係については疑問が呈されており、『古事類苑』に引用される嘉永3年(1850年)の山崎美成『琉球入貢紀略』では、『下紐』の記述からそう言われているが「うるまは新羅(今の朝鮮なり)の属島にして琉球にはあらず」「うるまは迂陵の韓音なりといへり」と断言されている。
海外においては李氏朝鮮の『海東諸国紀』(1501年)や、中国明朝・清朝の冊封使が遺した『使琉球録』各書などに当時の単語・会話文が収集されているが、それらの中でも「うるま」に該当する言及は無い。ようやく『琉球説略』(1877年)に「琉球古云宇留間島 起於日本西海道薩摩国之南百四十里海中」とあるが、すでに明治政府により日清修好条規が結ばれ、日本国内の情報も広まった段階であった。
20世紀に入り、大正時代以降に本土の文人が沖縄の美称として「うるま」と呼ぶようになったことから、沖縄県民の間にも広がるようになる。昭和10年(1935年)には明仁親王の乗馬として宮古馬が選定され、右流間(うるま)と名付けられた。戦後は煙草の銘柄としてうるまが販売され、逆に本土でも沖縄の雅称として有名となり、県民の間にも名称が定着して、ついには地方自治体としてうるま市が誕生する次第となった。
近年は「うるま」の語源は沖縄方言で「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、民間語源に過ぎない。
沖縄方言語源説は波照間島の名の由来としての「ハテウルマ」説から始まっている。笹森儀助の『南嶋探験』に「極南端ニアル波照間島ノ義ハ「ハテウルマ」の転語ニシテ古ヨリ我カ国境タルコト其名称ニ依テ明也云々右西氏ノ物語ナリ」とあり、明治26年(1893年)に西常央(長崎県出身、明治中期に八重山役所長や首里役所長)が提唱したのが端緒とされる[6]。
「ハテウルマ」が沖縄古語であるとの前提でそのままこの説が取り入れられ、柳田国男は『海南小記』で「波照間の島はすなわちハテウルマで、うるまの島々の南の果て、の意味であろうということだ」とし、宮良當壯は『南島叢考』で「『ウル』は海石(珊瑚石)或いはその砕けた砂礫をいい『マ』は島の『マ』と同じく場所を表すのであろうと思われるから、ハテウルマは日本の端の砂礫からなる島と云う意味であろう」としていた。
現状の語源説では「ウル」は珊瑚の意味ということが独り歩きしているが、宮良が指摘するように沖縄方言での「ウル」は本来(珊瑚の砕けた)粗砂を意味し、「シマ」が「マ」に変化したという点も言語学上の変遷の根拠に欠ける。また、この「うるま沖縄方言説」は戦前より、伊波普猷、東恩納寛惇らによる本土・沖縄の古典記述を元にした論考で批判を受けていた。
現在「うるま」は沖縄の歴史と文化の独自性を表す言葉として多用されているが、結果として本土の文化との強いつながりを示すこととなった。