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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

馬鹿な奴ほど他人を見下し、憐れむ

たぶん、ネットの一部では有名なコピペだと思うのだが、もしもこれが感動的な話だと思われているとしたら、私には少々気に入らない。
というのは、私が毎日のようにやっているのも、この池沼な子供と同じことだからだ。
少し大げさに言えば、サラリーマンが毎日会社に行き、8時間をそこで過ごし、家に帰ってくる生活も、学生が毎日学校と家を行き帰りするのも、この池沼の子供の毎日と同じだろう。
要するに、その子供の脳内世界でどのような冒険が行われ、どのような満足感を与えられているのか、外部から分かるものではない、ということだ。
彼がその「単純作業」に没頭していることは、彼がゲームに触れられることをひどく嫌がったことからも分かる。そのゲームをやっている時間は、彼にはおそらく「至福の時間」だったのだ。
そのゲーム(ドラクエ3)の「目的」など、彼にはどうでもいいことであり、スライムやカラスを倒すことが面白かったのだと思う。
なお、「延々と」を「永遠と」と書く、よくある間違いをこのコピペはしている。

ちなみに、言うまでもないが、「池沼」は、知的障碍者を指すネット特有の差別語であるが、知的障害は単なる個性(優れた特質だけを「個性」と見做す風潮自体、おかしいのである。)であり、差別する側が彼らよりマシなレベルの人間だとは私は思わない。ただし、それは、「私は差別は大嫌いだ。黒人も白人もユダヤ人もみんな平等に糞だ(として扱う)」という意味での平等主義者かもしれないwww



138: 以下、ソニック速報からお送りします 2014/10/29(水) 13:48:05.40 ID:TGZA3g8c0.net
池沼な子供の、永遠に世界を救えなかった勇者のコピペを思い出した
ドラクエ3でずーっとアリアハン近辺でレベル上げしてたとかいう話
166: 以下、ソニック速報からお送りします 2014/10/29(水) 21:16:52.30 ID:N74HzylB0.net
>>138
小学校のとき、先生に知能に障害がある子のうちに遊びに行かされた。
彼は脇目もふらずにドラクエ3をやっていて、
正直、「こいつでもドラクエとかわかるんだなあ」と思った。
三十分ほど彼のプレイを見ていて、とても悲しい事に気が付いた。

彼がそのゲームでやっているのは、
アリアハンの周りでスライムとカラスを倒す、ただそれだけだった。

パーティにただ一人の勇者のLvは50を越えていた。
彼は永遠、素手でスライムを殺し続けた。

とても楽しそうだった。

先に進めてやろうと思い1コンに手を伸ばしたら凄い剣幕で怒鳴られた。
なんて怒鳴られたか聞き取れなかったけれど、とにかく怒鳴られた。
それを見て彼の母親が
「ごめんなさいね、○○ちゃんはファミコン大好きのよ」と僕に謝った。
彼はドラクエ以外のソフトは持っていなかった。

僕はそれ以来、ゲームをやらなくなった。
以前のようにゲームにのめり込めなくなってしまったのだ。
コントローラーを握るとやるせなくなった。
友達の家に行ってもみんながやるのを見ているだけだった。
その間、僕はゲームに興じる友達の背中だけを見るように努めた。
本当にむなしかった。

その内に、僕はファミコンを憎むようにさえなった。
今までの人生の中で、あんなに何かを憎んだことはない。
それは真夜中に僕を目覚めさせた。
ゲームなんかこの世からなくなってくれと本当に願った。
僕はソフトを彼に全部あげて、本体は捨ててしまおうと思ったが、
兄に怒られそれすらできなかった。
一人暮らしをしている今でもゲームは嫌いだし、
もちろん家にも置いていない。

時々、彼と、永遠に世界を救えなかったであろう彼の勇者の事を思い出すと、とても悲しくなる。




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火星開拓より砂漠を開拓せよ

なぜ、戦争という無駄なものが永遠に無くならないのか、というのと同様、砂漠の緑化になぜ全地球的に取り組まないのか、というのが人類の不思議のひとつだろう。
もちろん、そこは、「カネになるかどうか」というのが最大のポイントとなるのであり、砂漠の緑化にはカネがかかるし、収益が上がる頃には投資者は死んでいる、ということがある。
一方で、戦争には死の業者や軍人上級国民にはカネと栄誉が手に入るという即座の「儲け」がある。
現在でも、砂漠の緑化にボランティア的に取り組んでいる人々もおり、オリンピックで金メダルを取った連中より、そういう人々こそ褒め称え、後押しするべきなのである。


(以下引用)



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「褒める」と「励ます」の違い

私は他人と一緒にいて楽しいと思った経験がほとんど無い人間なので、「独楽帳」などというブログを書いたりしているわけだが、生きることは楽しいと思っている。文学や音楽や漫画やゲームがあれば、人間の友人はさほど必要としないわけである。
人間の友人というのは、社会生活を「有利に進める」上では大事な要素だが、友人がいるから人生が豊かになるとも思えないわけだ。と言うのは、自分に似た感性を持った人間が身近にいる確率というのは非常に少ないわけで、そうすると、友人との会話は、「徒然草」に言う、「他人が自分の言葉をどう聞くかを気にして」の発言になり、本心からの言葉ではなくなる。まあ、学生時代に遠慮会釈の無い、気の置けない友人関係を持つこともあるだろうが、社会に出たらそうはいかない。同僚であっても、気を許せる人間がいるのは希だろう。

さて、ここで書こうとしたのは、実は教育の話である。その前置きに、自分が教育を語る資格のほとんど無い人間であることを書いたわけだ。

最近の教育は「褒めて伸ばす」のが主流だが、「褒めて伸ばす」という言葉には問題があるような気がする。「励まして、あるいは勇気づけて伸ばす」と言うべきなのではないだろうか。
何が違うのか、と言われるかもしれないが、私は、「褒められると人間はそこで満足し、成長しなくなるものではないか」と思っているのである。
私自身は子供の頃は他人に悪く言われたことがほとんど無い人間だが、その分、打撃に非常に弱い人間になったように思う。良く言う「豆腐メンタル」だ。小さいころから他人に悪口を言われてばかりいた人間のほうが「わたモテ」のもこっちの言う「人間強度」は高いのではないか。
「励ます」のは褒めるのとは別である。褒めるのは、その対象が何かの点で優れている、ということが前提だが、「励ます」は「今は悪くても気にすることはない。必ず良くなる」という趣旨の言葉をかけ、勇気を与えることだ。もちろん、それを信じるだけの「精神的幼さ」を対象が持っていることが前提だが、教育とは基本的に「精神的幼さ」を持った人間が対象なのだからそれでいいのである。

足が速いとなぜモテる?

実は、これはどれも同じことであって、要するに「一番優れた種(種牡馬)を探している」のである。
小学校時代は、目で見て一番はっきりと順位が分かる「足の速さ」がオスの優秀さの基準になり、中学校だと、威圧感と反抗によって「強さ」を演出する「不良」が強いオスに見える。高校になると、自分自身が一緒に居て楽しく、「スクールカースト」上位である「ウェーイ」系の男子がモテる。大学では、学力はみなだいたい同じだから、社会に出た時に出世しそうな「リーダー」タイプがモテる。「イケメン」は常に、他の女性からの評価が高いので、それを彼氏にすると威張れる、つまり自分のカーストが上がる。金持ちが権力そのものであり、社会カーストの最上位であるのは言うまでもない。








専業主婦であることによる「機会損失」

もともと他人同士が共同生活をするのが結婚なんだから、食事の好みも違っていて当然であり、自分の好きなものだけがいつも出てくると思うほうがおかしい。これまでがそうだったなら、奥さんが我慢していたわけで、想像力が足りない。お互い、嫌いな食べ物なら食わなければいいだけの話である。文句を言うくらいなら自分で作れということだ。
なお、男の自分が働いているから家事は全部奥さんがやって当然という考え方もおかしい。夫ではなく妻が働いたほうが高収入が得られ、妻も外で働くほうが楽しいのを我慢していることもある。つまり、妻にとっては家事専従であることによって働く機会を失っているわけである。夫が威張るところではない。

何かを得ているということは、同じ時間でできた別の利益を損失しているわけであり、これを経済学では「機会損失」と言う。生きていく際の「思考素」として有意義な考え方だ。




880: 名無しさん@おーぷん 2018/09/04(火)09:56:29 ID:5xg
夕飯のオムライスにグリーンピースが入ってて気分が下がったから、嫁に文句を言ったら、食卓に俺の好物が並ばなくなったw
あさりの酒蒸しとか味噌汁とか。
刺身も駆逐されて俺涙目w
全部嫁が苦手な食べ物ww
「人の苦手なもん出してんじゃねーよ」ってほざいた俺の自業自得w
ってか完全にブーメラン。
働いてるからって調子に乗りすぎた。
食卓に自分の好物が並ぶのが当たり前だと思ってた。
俺の好物と嫁の苦手な食べ物ってもろ被りだから、苦手な食べ物を出したらいけないなら、そりゃそうなるw
謝っても許してくれない。
嫁が我慢した分俺も我慢しろって言われたww
結婚して半年だから、半年我慢しろってかww辛いwww