「王莽の簒奪」で知られる王莽の評価に関するウィキペディアの記述である。
王権を簒奪した人間はたくさんいるだろうに、王莽だけが「簒奪」と呼ばれているのが私には解し難く、王莽には興味を持っている。その簒奪過程が悪辣だと言っても、特に図抜けた悪辣さでもなく、王莽の政治的失敗も、「伝統的評価」は単に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感じの理不尽なケチ付けにしか思えない。「今日的評価」のほうが、まだ理解できる。
要するに、前漢と後漢というのは、中国人にとってはなぜか中国史の正統的王朝という意識があるらしく、その中間に挟まった新という国家が憎まれたのだろう。
私には、漢王朝、つまり劉一族を名乗る連中になぜ中国人があれほど肩入れするのか理解できない。三国志での曹操への中国人の嫌悪も、劉備が「劉王族の末裔だ」と自称したからだけの話だろう。そのライバルだから憎まれただけである。
伝統的評価[編集]
伝統的には王莽の評価はきわめて低く、王莽については政治面ばかりか人間性まで含めて批判的な評価が下されている。『漢書』を著した班固は「王莽伝」賛で以下の様に評している。
王莽は口が大きく顎が短く、出目で瞳が赤く、大きなガラガラ声を出す。身長は7尺5寸(約173cm)もあるのに、底の厚い靴と高い冠を好み、ゴワゴワした張りのある毛を衣服に入れ、胸を反らして高いところを見、遠くを眺めるような目つきで左右の目を見る。
こうした外見や人当たりに殊更拘りを見せ、儀式の際には髭や髪を黒く染めて若く見せようとした一方、符命や瑞祥によって自らの登用や即位を正当化させようとした際にも自ら渋々受ける振りをするなど奸智に長けていたと言われている。
加えて王莽の治世においては余りにも異常な政策が実行されたことが、『漢書』では事細かに記されている。
- 王莽に叛いた翟義と共謀した王孫慶を捕え、太医に解剖させたことがある。五臓や血管について記録させ、「これで病気の治療法が判る」と言った(『漢書』王莽伝中)。
- 天に救いを求めるために、泣き声の悲哀な者を郎(官僚)に取り立てた。このため、郎の数だけで5000人に達したと言う(王莽伝下)。
- ある人が一日に千里を飛び、匈奴を偵察できると言った。王莽がこれを試させたところ、大鳥の翼をつけ、全身に羽毛をまとい、紐でつなぐ仕組であった。この者は数百歩飛んで墜落した(王莽伝下)。
この様な失政の数々や人間性の問題もあって、前近代において王莽は姦臣の代表格として看做されることが多い。呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。また日本においても、『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判して以来、『平家物語』も趙高・安禄山らと並ぶ朝敵として王莽の名を挙げ(巻1)、木曾義仲の横暴ぶりを王莽に例える(巻8)など姦臣の代表格として扱われている。
近代の評価[編集]
1920年代から一転して、王莽を改革者として高く評価する学者が現れた。日本では吉田虎雄が王莽の社会政策を評価し、中国では胡適が王莽の六筦政策などを評価して「1900年前の社会主義者」と呼び、王安石と並ぶ中国の改革者とした。ドイツのオットー・フランケも王莽を国家社会主義的政策を行ったと評価した[8]。しかしこれらの評価は現代的な価値観を直接王莽に投影したものであり、一面的である[8]。
西嶋定生は儒教が武帝のときに国教化されたという従来の説に反対し、国家の祭祀儀礼の改革や儒教国教化の完成などの大部分は王莽が大司馬であった平帝時代に完成したとする。王莽の政治には儒教主義がはじめてあらわれ、これは後世の中国王朝国家の性格を規律することになったとして、西嶋は王莽政権の歴史的意義を重視する[9]。
渡邉義浩は、儒教に基づく国制(古典中国)を特徴づける14項目のうち10項目までが王莽によって確定されたものであるとした[10]。また新の建国後、王莽は合理的で完成度の高い古文説によったが、渡邉によると儒教の理想と具体的国政が乖離していたために改革は失敗し、後漢になって理想と現実の調整が行われたとする[11]。
王莽の社会政策の中で後世に影響したものとしては王田制がある。王田制そのものは早々と土地売買の禁止を廃止したために有名無実化したが、後の均田制の源のひとつとして早くから注目された[12]。
漢朝臣下の時代に王莽自ら定めた「皇帝の即位儀礼」は光武帝以降の歴代皇帝に受け継がれ、即位式に際してはこれに基づき諸儀礼が行われた。学・校という儒学の校舎を全国に設置して勉強を奨励させたのも王莽の治下であり、結果的に後漢期には儒学を学ぶ人物が多くなったとも言われる[13]。
また復古政策の一環として前漢中期頃から増え始めた[要出典]二字名を禁止した[14](二名の禁)。王莽滅亡後もなぜか影響は残り、二字名が再び増加するのは南北朝期以降となる[要出典]。