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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

山に登るとその山自体は見えない

登山をしていると分かってくること、というスレッドのコメントのひとつだが、哲学的である。
まあ、書いた人もドヤ顔していそうだがwww

たとえば、官僚をしていると官僚の醜さが見えなくなる、とかいった類である。





382: 名無しさん 2010/06/12(土) 13:11:22
山に登るとその山自身が見えないこと
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文学ギルド

何かの賞を作ってその選考委員を自分たちのグループで独占して、そのジャンル全体を支配する権威となる、というのは西洋のお家芸である。いわば文学的ギルドだ。商人のギルドの応用だろう。


ノーベル文学賞スキャンダル “最高実力者”が女性18人に性的暴行疑惑

 ノーベル文学賞を選ぶスウェーデン・アカデミー(定員18人)が存亡の危機に立たされている。

 発端は昨年11月、アカデミー会員の女流詩人の夫、ジャン・クロード・アルノー氏(71)の性的スキャンダルを地元紙がスクープしたことによる。同氏はアカデミーなどの資金で運営する自らの文学サロンで講演会や演奏会を仕切る文化界の最高実力者だ。

 そのアルノー氏は過去20年にわたり会員や会員の妻や娘ら計18人に性的暴行を加えていたことを被害女性に告発された。暴行はノーベル賞晩餐会の夜にも行われ、性行為を拒否した女性を「干してやる」と脅していたともいう。

 さらに同氏はアカデミーから管理を委託されたパリの高級住宅を私物化。ボブ・ディラン氏ら7人のノーベル文学賞受賞者名を発表前に漏らしていた疑惑まで浮上した。

 このため、アルノー氏の妻をアカデミーから追放しようとする“改革派”と“守旧派”が対立していたが、4月12日、“改革派”の旗手、サラ・ダニウス事務局長が辞任に追い込まれてしまった。

女性初の事務局長だったダニウス氏 ©共同通信社 © 文春オンライン 女性初の事務局長だったダニウス氏 ©共同通信社

 ダニウス氏は「私としては続けたかったが、そうはならないのが人生だ」と語ったが、ネット上にはアカデミーの決定に抗議してダニウス氏が辞任時にしていた「プッシーボウ(リボン結び)」をする女性や同性愛者の自撮り写真が次々と投稿されている。

 ノーベル文学賞の選考過程は外部からの影響を排除するため50年間、門外不出という秘密主義の厚いベールに覆われている。秘密主義と終身制がアカデミー会員を「18神」に祭り上げ、アルノー氏は「19番目の神」として権力を恣(ほしいまま)にしてしまった。

 ダニウス氏が辞任し、アルノー氏の妻の詩人は活動を停止、活動できる会員は意思決定に必要な12人を下回り、アカデミーは事実上、機能停止に陥った。会員は終身制で、死刑判決を受けた会員が除名された例が18世紀に一件あるだけだ。カール16世グスタフ国王は憲章を改正して終身制を解こうとしているが、内部から腐った組織を立て直すのは容易ではない。

 スクープを最初に放った地元紙は、アカデミーは毒杯と毒剣で全員が非業の死を遂げるハムレットの結末を迎えると予告する。




学生食堂と絵画

「価値観」の考察という意味で面白い事件だが、価値観というのは「主観による価値観」と「社会的に共有され定着した価値観」のふたつがある。
後者を破壊して新しい価値観を提出する、というのも芸術創造においては繰り返されてきたことだ。そして破壊されたものが本当に無価値だったのかは判断しにくい。
だが、概して絵画(美術)においては、社会的評価が定まった作品の価値を否定することはまず無い。というのは、それはすでに芸術である以上に「商品」であり、一部の人々の「財産」だから、その価値の否定は、それで商売する人々の仕事に差し障るからである。
今回の東大での「事件」は、学生(生協)の無知による「価値の否定」だが、そこから起こってくる問題というのも幾つかありそうだ。
たとえば、
1:学生食堂に絵画を飾る意味があるか。あるとしたら、どのような絵が、あるいはどの程度の価格の絵が適切か。
2:この食堂に飾られた絵(画家)はどういう経緯で選定されたのか。支払い価格は誰が決定したのか。また、それが高額なら、その決定には学生(つまり、授業料納入者であり、政府に対する国民と同じ、「納税者」)の意志は反映されたか。
3:この画家の絵は客観的な価値があると判断できるか。また、誰がその判定者の資格があるか。
4:この画家が武蔵野美術大や京都芸大の教授であることは、その絵の価値を正当化するか。一般に芸術の価値と学歴や社会的地位の高さは関連するか。
5:食堂に飾られ年月を経ることによる絵の劣化を作者は許容してこの絵を描き提供したのか。とすれば、最後には廃棄されても当然と考えているのか否か。

などが今思い付くところだ。


東大、絵の価値知らず? 食堂飾った著名画家の大作廃棄

東京大学の食堂に飾られていた宇佐美圭司さんの作品(大学関係者提供) © 朝日新聞 東京大学の食堂に飾られていた宇佐美圭司さんの作品(大学関係者提供)

 東京都文京区にある東京大学安田講堂前の地下食堂に飾られていた著名画家の大作が、3月末の施設改修に伴い、廃棄されていたことが、大学などへの取材でわかった。2012年に亡くなった宇佐美圭司さんによる4メートル角の作品だった。宇佐美さんの作品には数百万円の値を付けるものもあり、専門家は「絵の価値を知らなかったのではないか」と指摘している。

 宇佐美さんは武蔵野美術大教授、京都市立芸術大教授などを歴任し、芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。さまざまなポーズの人型を円環状に繰り返し描く知的な画風で知られ、1972年の「ベネチア・ビエンナーレ」では日本代表を務めるなど内外で活躍した。廃棄された絵は、77年に大学側から依頼され制作したものだった。

 食堂を管理している大学生協はホームページで、絵の行方を尋ねる質問に対し、「新中央食堂へ飾ることができず、また別の施設に移設するということもできないことから、今回、処分させていただくことといたしました」と回答。「吸音の壁」になることや、「意匠の面」で絵が飾れないことを処分の理由に挙げている。

女性の容姿は単なる「素材」

目力はあるが、顔の造作そのものは、普通だと思う。それが世界的な女優になるのだから、女優というのは素材の料理の仕方次第だろう。つまり、自分は平凡な容姿だと思っている女性でも、少し改造すれば凄い美人になれる可能性もあるのではないか。まあ、そんなのは分かり切っているから女性はあれほど化粧と衣服にカネと時間をかけるのだろうが。実際、日本の芸能界でもハリウッドでも、素のままで本当の美人や美少女というのは1割もいないだろう。
たとえ人三化七のご面相でも、女優にはなれる。怪奇映画のお化け役というわけではなく、美人だけでは映画は作れないからだ。主役より美人の脇役やチョイ役では主演女優が黙っていない。



さんがリツイート

Young Brigitte Bardot




地頭の良さとは何か

下の記事はあまりピンと来ない内容だが、私自身の考えでは、地頭がいい、というのは「物事の本質を直観的に見抜ける能力」だと思っている。
これは学力とか学歴とは無関係の能力で、むしろ漫才師などに地頭がいい人は多いように思う。ただし、漫才師の多くは、性格は悪いようだ。つまり、人の欠点を無慈悲に洗い出すという作業から漫才的な笑いは生まれるからだろう。気の優しい人は他人の欠点を見ないか、あるいは寛大に見るようにするものだ。漫才師などの言葉選びが的確なのも、「本質を直観的に見抜く」からだろう。つまり、「この状況で、笑いに結びつく表現は何か」という「本質部分」だけを見て言葉を選ぶのだと思う。
ちなみに、科学者などは地頭はむしろ悪いと思う。これは寺田寅彦か誰かも言っているが、頭のいい人は直観で問題の解答(と言うより解決可能性の判断)に到達するため、「解答を求める地道な作業」をやらないで、問題そのものを放棄することが多いらしい。だが、頭(地頭)が悪い人は愚直に作業を繰り返し、失敗の中から新しい発見に至ることもある、というわけだ。
要するに、地頭がいいことは別の「機会損失」の原因になることもあるわけで、地頭がいいことを無条件に賞賛する必要もない、ということだろう。



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1: 稼げる名無しさん 2018/02/13(火) 13:07:54.25
コンサルタントをやっていた頃、良いか悪いかは別として、採用に関して「地頭の良さ」を重視する風潮があった。

地頭の良い人間は一定の訓練でそれなりのコンサルタントになる。

だが、お世辞にも地頭の良いとはいえない人間は、いつまでたっても一人前になれなかったからだ。



実際、私が20代半ばで所属していた部署では、中途採用にあたって「学歴」をさほど重視していなかった。

重視していたのはとにかく「地頭」だ。



ある応募者は、「高卒」で「自動車整備工」になり、そして「先物取引の営業」に転職、そして最後に「漁師」という経歴を持っていたが、彼は採用された。

彼の言動は、地頭の良さを十分に感じるものであったからだ。

彼の業務経験の貧しさは訓練でなんとかなる、皆がそう思ったのである。



彼はその後、会社に大きな貢献を残し「支社長」まで努めたのだから、その時の判断は間違っていなかった。







この「地頭」の正体について、私はずっと気になっていた。

地頭の良さとは一体何なのか。



そんなことを考えていたところ、ある方から佐藤優氏の本を読むことを勧められた。

佐藤優氏は元外交官であり、いわゆる諜報活動(スパイ活動)を行っていたことで知られる。



著作の中で、佐藤優氏は、諜報活動を「インテリジェンス」と呼び、情報(インフォメーション)の入手と明確に区別をしている。

氏が言うには、インテリジェンスとは「ありふれた情報(インフォメーション)から、より深い意味や意図を読み取る行為」である。



例えば、彼が「インテリジェンスの氏」と仰ぐチェコ人のマストニークという人物がいる。

このマストニーク氏が佐藤氏に向かって言ったフレーズが、「インテリジェンス」の本質をよく示している。

「新聞を馬鹿にしないことだ。『プラウダ』(ソ連共産党中央委員会機関紙)と『イズベスチヤ(ニュース)』(ソ連政府機関紙)に掲載される共産党中央委員会や政府の決定、社説については、どんなに内容が退屈でも、必ず赤鉛筆で重要事項をチェックしながら読むことだ。

そうそう、モスクワではチェコスロバキア共産党機関紙『ルデー・プラーボ(赤い正義)』も購読できるので、同じように赤鉛筆を持ちながら読むことだ。半年もすれば新聞の行間から何が実際に起きているのかが読み取れるようになる」

マストニーク氏からこの晩に聞いた助言は、モスクワで私がロシア人と付き合い、ロシア人の内在的論理を理解する上でとても役に立った。

自壊する帝国 (新潮文庫)

マストニーク氏は「新聞の行間から、実際に何が起きているのか読み取れるようになる」と指摘している。



私は膝を打った。

これこそが、「インテリジェンス」の本質、ひいては「地頭」の本質ではないだろうか。

つまり「地頭の良い人」というのは、同じ情報に接していても、そうでない人に比べて、そこから読み取ることができる情報が桁違いに多いのだ。
http://blog.tinect.jp/?p=48982

1001: 以下名無しさんに代わりまして管理人がお伝えします 1848/01/24(?)00:00:00 ID:money_soku

管理人は地頭の良さってどう思うかお?

yaruo_fuun
 俺はそんな評価はその人をとりまく環境によって変わる思ってるな。 
 サラリーマンとしては頭が悪い、仕事が遅いと思われていた人が、自営業になった瞬間に大成功してあっという間に東証上場企業に上り詰めて周りから評価されたのを見ているので。



1001: 以下名無しさんに代わりまして管理人がお伝えします 1848/01/24(?)00:00:00 ID:money_soku


 なので、うまくいかないとか面白くないと思った人はどんどん環境を変えてみることをオススメしたい。
 それができてうまくいった人がそれなりの事を言って、地頭が良いと評価されるのではと思う。
yaruo_dottekotonai
なるほどだお。