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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

俳句の「音数破壊」行為(承前)


もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。

一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くそ花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的楽天的天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。

二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかたからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反用字である

結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。

そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的俳句もっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用物語調で独特だ。一般的俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか

まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。

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俳句の「音数破壊」行為

「増田匿名ダイアリー」記事で、かなり俳句を理解しているコメンターのようだ。まあ、セミプロ級だろう。
で、私はこの俳句、やたらに気取っていて気持ち悪いと思ったのだが、中村草田男の句だと知って驚いた。ど素人の作だろうとばかり思ったが、この句の「仕掛け」の説明を、下のコメントで読んで、なるほど、「悪達者な句」だと理解した。

要するに「ここで昼餉。真っ赤な夏の花立つ(元の句では「佇つ」)ゆえ。」という2文を俳句にしたわけだ。それを「5、7、5」の区切りで読むと非常に気持ち悪いリズムになるのが、私がこの句を「気持ち悪い」と感じた理由だろう。
ちなみに、最初は字余りの6音だとしても、次を「7,5」で読むと「真っ赤な夏の・花佇つゆゑ」となり、「真っ赤な夏」とは何だよ、と私なら怒りたくなる。つまり、あらゆる意味で俳句の「5・7・5」という大原則への反逆であり、この程度の内容の俳句でそんな大それたことをするというその図々しさに呆れる。これが西東三鬼の「算術の少年忍び泣けり。夏」なら、ただただ凄いと思うのだが。(つまり、最後の「夏」の一語で、小さな家の小さな部屋の片隅で泣いている小さな少年の姿から、世界が「夏」一色に広がるわけだ。)

(以下引用)長い文章なので、2回に分ける。

anond:20240506115921

ここで俳句解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアル相談した方がいいよ。

…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト文脈)に依存する芸術からだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力もつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。

それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。

「ここで昼餉(ここでひるげ)」

初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わず17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこち公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。

ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)

「真赤な夏の/花佇つゆゑ」

最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初のんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。

(続く)

「油そば」とは何か

私は未だに食べたことが無いし、名前が気持ち悪いので食う気もないが、このスレッドだと「蕎麦」ですらないようだ。まあ、「沖縄ソバ」も蕎麦ではないからよそのことは言えないが、要するに「汁無しラーメン」、あるいは「ラーメンの麺で作ったペペロンチーノに適当にトッピングして食うもの」という理解でいいだろうか。


(以下引用)

油そばとかいう謎の食い物
2024年05月06日 コメント(19) 飲食・料理 
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1 :ななしさん :24/04/13(土) 15:37:40 ID:???
油そばってなんだよ
なんなんだよ



4 :ななしさん :24/04/13(土) 15:39:05 ID:???
美味いだろ?



5 :ななしさん :24/04/13(土) 15:39:24 ID:???
麺食いてえって時に食うもの

2 :ななしさん :24/04/13(土) 15:38:43 ID:???
スープを作らなくていいからとても原価率のいい商品になってます



7 :ななしさん :24/04/13(土) 15:41:51 ID:???
>>2
漫画鵜呑みにしてるやついるよなスープいるのに…



6 :ななしさん :24/04/13(土) 15:40:07 ID:???
ペペロンチーノみたいに油で作るラーメンでしょ?



10 :ななしさん :24/04/13(土) 15:44:53 ID:???
言うほど油主軸の料理でもないと思う



8 :ななしさん :24/04/13(土) 15:42:49 ID:???
油でベトベトギットギトのやつはちょっとつらい



9 :ななしさん :24/04/13(土) 15:43:27 ID:???
ジャンク味が強いからスーパーのチルド品で作ってもおおむね満足出来る



11 :ななしさん :24/04/13(土) 15:45:31 ID:???
というか原価安かったから何だっていう話だよな
美味いか不味いか好きか嫌いかでしょ



12 :ななしさん :24/04/13(土) 15:46:39 ID:???
油そばの油ってタレのことを指してるのか本当に油を指してるのか分からない



13 :ななしさん :24/04/13(土) 15:46:49 ID:???
ジャンルとしては認知されたけどつけ麺ほど流行らなかったな



14 :ななしさん :24/04/13(土) 15:48:15 ID:???
原価率いいなら近所の油そば屋潰れてないんだけどなぶへへ



132 :ななしさん :24/04/13(土) 17:10:17 ID:???
>>14
油そばは大学の近くなら確実に強いよ
大学生いないとこに油そばの店出すやつはただの馬鹿



15 :ななしさん :24/04/13(土) 15:49:22 ID:???
メニュー一つとしてなら偶に食うかぁってなるけど専門店行ってまで食わねえな



17 :ななしさん :24/04/13(土) 15:51:42 ID:???
ラーメンより好き



18 :ななしさん :24/04/13(土) 15:52:41 ID:???
最後にごはんぶちこみたい



19 :ななしさん :24/04/13(土) 15:53:43 ID:???
とりあえず原画がどうのとかいうアホが毎回湧いてくる



20 :ななしさん :24/04/13(土) 15:54:17 ID:???
>>19
アニオタかな?



35 :ななしさん :24/04/13(土) 16:01:47 ID:???
まず発見伝自体20年ほど前なので…



23 :ななしさん :24/04/13(土) 15:56:35 ID:???
スープあった方が美味いなってなるやつ



25 :ななしさん :24/04/13(土) 15:57:31 ID:???
でもラーメンよりはちょっと安くして欲しいんだよなぁ



27 :ななしさん :24/04/13(土) 15:58:03 ID:???
原価率がどうこうが本当だとして
だったらもうちょっと量を増やしてほしい



39 :ななしさん :24/04/13(土) 16:05:27 ID:???
スープが無いからか大盛りでも余裕で食えてしまう



40 :ななしさん :24/04/13(土) 16:05:50 ID:???
でも途中で飽きが来る



41 :ななしさん :24/04/13(土) 16:05:50 ID:???
店で食う時はとにかく腹一杯麺食べたい時って感じだ
食う側からしてもスープというかタレは重要に感じる



42 :ななしさん :24/04/13(土) 16:06:31 ID:???
和え玉って細麺の油そばだよな…とか思いながら混ぜる



43 :ななしさん :24/04/13(土) 16:09:42 ID:???
近所の贔屓にしてるとこは肉野菜ゴロゴロに卵も入ってて安くはないと思う



44 :ななしさん :24/04/13(土) 16:09:50 ID:???
数年前に東京暮らし始めてから初めて認識した食べ物だったけどまぁ東京だとどこ行っても見るわ見るわ



45 :ななしさん :24/04/13(土) 16:10:07 ID:???
今年旅行に行って高松でも松山でも博多でも行列になってるの見たな油組
全国的に流行っているのかもしれない



46 :ななしさん :24/04/13(土) 16:10:36 ID:???
まぜそばとはちがうの?



47 :ななしさん :24/04/13(土) 16:13:36 ID:???
まぜそばはもっとこう…ゴチャゴチャした味


55 :ななしさん :24/04/13(土) 16:17:05 ID:???
当たればラーメンより手間も原価も抑えて儲けられるから安易に手を出して開発費をペイできずに潰れる店が出る



56 :ななしさん :24/04/13(土) 16:18:56 ID:???
スープないのに意外と店によって味が違うというか自分の行動範囲だと全部味が違うんだよな



62 :ななしさん :24/04/13(土) 16:22:46 ID:???
>>56
タレや油で全然違うからな
あとつけ麺と同じで麺ですごく差が出る食い物だと思う



58 :ななしさん :24/04/13(土) 16:19:58 ID:???
ラーメンよりヘルシーって書いてる店があったけど欺瞞だと思う



59 :ななしさん :24/04/13(土) 16:20:34 ID:???
酢をこんなにかけてもいいんだってなる食べ物




75 :ななしさん :24/04/13(土) 16:27:21 ID:???
油そばとまぜそばの違いがわからない…
どっちも同じじゃないですかぁ



76 :ななしさん :24/04/13(土) 16:27:39 ID:???
>>75
名前が違うだろ



90 :ななしさん :24/04/13(土) 16:39:24 ID:???
>>75
雰囲気だよ雰囲気



82 :ななしさん :24/04/13(土) 16:34:10 ID:???
まぜそばのほうが具とかが多いイメージ



78 :ななしさん :24/04/13(土) 16:28:15 ID:???
通常のラーメンよりカロリーと塩分控えめってぜえったい嘘だろ



81 :ななしさん :24/04/13(土) 16:33:34 ID:???
>>78
何もかけたりしなきゃ控えめになると思う



80 :ななしさん :24/04/13(土) 16:32:59 ID:???
原価安いって言ってもラーメンより値付け自体安くない?



83 :ななしさん :24/04/13(土) 16:34:47 ID:???
まず原価気にして外食しねえだろ



84 :ななしさん :24/04/13(土) 16:35:13 ID:???
こういう味を細麺で食べたいんだが味濃過ぎになるんだろうか



89 :ななしさん :24/04/13(土) 16:39:23 ID:???
食べ始めはすごく美味しいけど途中から味濃くて苦痛にかわる

邪馬台国所在地論争の不毛

邪馬台国が大和国と音が似ているのは中学で日本史を習った最初に誰でも感じたことだろう。そして、邪馬台国は大和朝廷の前身だったのではないか、と推理するのも自然の勢いである。
下の論述は、その「初心者的推理」に学者的なデティールを付け加えただけのものだが、妥当性はあると思う。特に、邪馬台国の所在地論争は不毛だ、というのはいわば「頂門の一針」的な意見である。実際、当時の中国人が異国の地理を正確に書けるわけがないのである。せいぜいが、朝鮮半島と交流のあった中国地方西部、九州地方北部までしか中国人は知識が無かったと思う。つまり、邪馬台国の位置(行路の記述)は「朝鮮人から伝聞したことを書いただけの記事」だろう。

(以下引用)

邪馬台国はどこにあったのか――。古くから続けられてきた論争に決着が付かない理由は、『魏志』倭人伝に記された地理的情報にこだわっていたからだと、歴史学者・桃崎有一郎氏は指摘する。そして、あることに注目すると結論が見えてくるという。

◆◆◆

 いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか、という議論)は、詰んでいる。

 当時は文字があまり普及していなかったので、「ここが邪馬台国だ」と書かれた遺物が出土する可能性は期待できない。遺跡や遺物は、複数の解釈を許すものしか出土せず、最後は文献の裏づけを援用しなければならない。

桃崎有一郎氏 ©文藝春秋© 文春オンライン

 ところが、その文献史料での議論が詰んでいる。3世紀に成立した根本史料の『魏志』倭人伝には、「どこから、どちらへ、どれだけ進めば邪馬台国へ着く」という行程記事が明記されている。その通りに進めば邪馬台国に着くはずなのだが、着かない。現在の地理や、後代の遺存地名や、ルートの合理性などを考慮して、朝鮮半島から伊都(いと)国(後の筑前国怡土(いと)郡。今の福岡県糸島(いとしま)市)までのルートには疑問の余地がない。ところが、その先のルートの記述が曖昧で、どこでも好きな場所へ到達するルートに読めてしまう。そのため、誰かが「これこそ『魏志』倭人伝の正しい読み方の決定版」という説を発表しても、山ほどある「決定版」が一つ増えるにすぎず、議論が混迷を深めるだけだ。

 これまでの議論は、〈『魏志』倭人伝には必ず、史実と合う一つの正しい解釈があるはずだ〉という楽観的な大前提の上になされてきた。ところが最近、古代中国史家から、それは希望的観測にすぎない、という指摘が出された(渡邉義浩説)。『魏志』倭人伝を含む古代中国の史書の地理情報は、著者が信じた(信じようとした/読者に信じさせようとした)教条主義的な儒教の世界観に基づいており、記述の根本が机上の空論なので、そもそも現実の地理情報として読めるという発想が誤りだ、と。全く筋が通っており、これに対する有効な反論は、恐らくできない。

 私もこの議論の門外漢だが、外から見ていると、『魏志』倭人伝の解釈で争う限り、邪馬台国論争に解決の見込みがないことは明白だ。解決するには、『魏志』倭人伝を離れて決め手を見つけるしかない。ただし、それを見つけるのは、門外漢の私ではない。そう思っていた。

 ところが、自分の研究を進める中で、偶然、その決め手らしきものを見つけた。古代中国の《礼》という文化が、日本列島の文化にいつ、どこを通って、どのように影響を与えてきたのかを追跡していた時だ。

 私が見つけたのは、古代中国では一般的な法則である。その法則は日本にも導入されたが、そのこと自体にも、それがどれほど重大かも、気づいた専門家はいないようだった。『魏志』倭人伝の行程記事に微塵も依存せずに、邪馬台国論争を解決へ導ける文献史料。そのような、まず見つかるまいと思っていた鍵が、もしかしたら私の手元にある。

 その話を雑談で本誌の編集氏にしたところ、原稿化を強く勧めて下さった。とはいえ、その情報が鍵として使えることの証明は煩雑で、本誌のような雑誌の読み物として公にできる分量や内容ではなかった。私はかなり悩んだ末、証明は学術論文として急いで発表し(末尾の参考文献参照)、また一般向けの丁寧な紹介は、著書として書ける機会を待つことにした。本誌では、その新説のあらましと結論を、ごく簡単に紹介させて頂きたい。

邪馬台国論争最大の誤り

 邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤りは、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことだ。学校教育で「ヤマタイ国」と誤った読みを教えてきたのは、実に理解に苦しむ。「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは新井白石あたりに始まるようだが、それが正しい証拠は、ただの一度も示されたことがない。

「邪馬」を「ヤマ」と読むのはよい。問題は「台」だ(正確には旧字体の「臺」だが、以下「台」と同じとして話を進める)。

 古代中国の南北朝時代・隋・唐(5〜10世紀頃)では、確かに「台」は「ダイ」に近い発音だった。しかし、3世紀に書かれた『魏志』倭人伝やその原資料が、ある日本語の地名を「邪馬台」と音写した時に最も近い頃、中国の「台」の発音は、「ダ」と「ドゥ」の中間のような音だった。

 さらにいえば、「台」と発音が全く同じ「苔」の字が、上代(飛鳥・奈良時代)に「ト」と読まれた証拠が、8世紀に成立した『日本書紀』以下のわが国の正史に多数ある。上代日本語の「ト」には甲類・乙類の2種類があるが、これは「ト(乙類)」である。上代日本語で「ヤマト(、)(乙類)」となるその音を、中国人は「ヤマダ(、)(ヤマドゥ(、、))」のような音として聞き取り、「邪馬台(、)」と書いたのである。後に、日本の正史は、日本全体や奈良地方を表す「ヤマト(大和)」を「野馬台(、)」「夜摩苔(、)」とも書いた。これらも、「邪馬台」の「台」が「ト」だった証拠だ。

 かつて、江戸前期の松下見林(けんりん)という国学者は、著書『異称日本伝』の中で、「邪馬台」を「ヤマト」と読み、「大和」と同じだと結論していた。後世の人が、なぜこの結論をきちんと検証せずに捨て去って「ヤマタイ国」にしてしまったのか、不思議だ。我々は、「ヤマタイ(、、)国」論争とは訣別せねばならない(なお、九州にも「山(ヤマ)門(ト)」という地名があるが、「門」の字で表す「ト」は甲類なので、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」とは上代の発音が違い、ここでは忘れてよい)。

 そうなると、後代の地名で「邪馬台」と完全に発音が一致するのは、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」しかない。ならば、「邪馬台」という地名の場所は、その「ヤマト」との関係から探る以外にない。

「邪馬台」が、日本全体のようなかなり広い地域を指す「ヤマト」としか結びつかないならば、邪馬台国の場所は特定できない。逆に「邪馬台」が、日本のどこか特定の地域を指す「ヤマト」と結びつくのなら、そこに邪馬台国の場所を求めるのが自然だ。もっとも、奈良地方に「ヤマト」という地名があるからそこが「邪馬台」だ、というだけでは新説にならない。私の説ではむしろ、奈良地方以外(、、)を指す「ヤマト」の存在が重要になる。

「ヤマト」の伸縮が最大の鍵

 繰り返しになるが、「ヤマト」という地名が指す範囲の広さは、何通りもある。それが問題をややこしくし、なおかつ、問題を解く最大の鍵になる。

 まず、日本列島の統一王朝全体(統一されていない状態も、便宜的にこう呼ぶ)を指す、国号としての「ヤマト」がある。話の都合上、これを「ヤマト(最上層)」と呼ぼう。

 それより小さく、その中に含まれ、律令制では「大和国」とされた、現在の奈良県地方にあたる、かなり広い行政区分の「ヤマト」もある。これは「ヤマト(中間層)」と呼ぼう。

 それより小さく、その中に含まれた別の「ヤマト」もある。「ヤマト」という地名が指す用例のうち最も小さいその領域は、奈良盆地東部の、律令制の行政区分でいう磯城(しき)郡(後に城(しきの)上(かみ)郡と城(しきの)下(しも)郡に分離)と十(とお)市(ち)郡の領域にあたり、その中心部は大和国の城下郡に属する「大和郷」(ヤマト郷またはオオヤマト郷)の場所にあった。この地域を指す「ヤマト」を「ヤマト(最下層)」と呼ぶことにしよう。

 これら3つの「ヤマト」には、様々な漢字が宛てられた。「日本」「大和」「大倭」「倭」などである。これらのうち「日本」は、「ヤマト(最上層)」を指すものに偏(かたよ)る。『日本書紀』では、1例だけ「ヤマト(中間層)」の用例があるが、残る218例が「ヤマト(最上層)」であると、先学が指摘している(神野志隆光説)。

「ヤマト」の漢字表記の変遷

 一方、「倭」については、興味深い使い分けが見られる。『日本書紀』には、飛鳥時代の朝廷の公式見解として、日本で書かれた本文と、外国(中国・百済)の典籍を引用した注の文章がある。そのうち本文では、「倭」の9割以上が「ヤマト(中間層・最下層)」を指した。ところが、注に引用された中国・百済の典籍ではすべて、「倭」が最上層の統一王朝全体を指した(井上秀雄説)。『日本書紀』の本文自体には、〈「日本」は国号。「倭」はそれ以外〉と書き分ける、ほぼ一貫した方針があったのに対して、外国の典籍には〈「倭」は国号〉という、本文とは異なる一貫性があって、両者で食い違っていた。この食い違いも、後で重要な鍵になる。

 なお、「倭」の字を、卑弥呼に近い時代の中国人も「ワ」に近い発音で読んだが、その頃、訓読みはまだ存在しなかった。つい「倭」を「ヤマト」と読んでしまいたくなるが、訓読みの発明は、3世紀前半の卑弥呼の時代よりもかなり遅れることを念頭に読み進めて頂きたい。

 奈良時代の半ば以降、「ヤマト(中間層)ノクニ」は「大和、国」と書かれたが、それ以前は「大倭、国」と書かれた。和銅6年(713)に出された「地名は好ましい漢字二字で表記せよ」という朝廷の方針=“好字二字令”の影響で、「倭」が〈穏和・調和〉を意味する「和」に書き換えられたのである。従来、「ヤマトノクニ」は「大倭国」と書かれたが、天平9年(737)に「大養徳国」と表記を改められ、10年後にまた「大倭国」に戻された。要するに、「ヤマトノクニ」の漢字表記は、「大倭国」→「大養徳国」→「大倭国」→「大和国」と変遷した。

 これらの固有名詞の部分から、すべてに共通する「大」の字を差し引くと、「倭」=「養徳」=「和」という等式を導ける。「養徳」は「徳を養う」と読め、当時の日本で支配的だった儒教の《礼》という価値観に沿って、好ましい漢字に置き換えられた宛字だ。そして、「養徳」の二字で「ヤマト」の音写にもなっている(ヤ、ウト、ク)。とすると、この等式にあてはめて、「倭」=「養徳」=「和」=「ヤマト」という関係を導ける。

 大和・大倭・大養徳の「大」は発音されない字(“黙もく字じ”という)で、あってもなくても「ヤマト」という発音は変わらない。「倭国」で「ヤマトノクニ」を表せるし、実際に藤原宮(藤原京の天皇の宮殿)で出土した木簡には、行政区分としての「ヤマトノクニ ソフノコホリ」を「倭国、、所布評」と書いたものがある(評こおりは後の郡のこと)。これに黙字の「大」の字を付したのは、好字二字令に沿って、“偉大なる”を意味する美称の「大」を「倭(和)」に付加したからだろう。

「大」も「養徳」も「和」もすべて美称であり、地名としての本質とは関係ない。「ヤマト(区分)」という地名の本質に関わる漢字は、それらの黙字や宛字をすべて取り去った後に残る「倭」である。

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本記事の全文は「文藝春秋」2024年3月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています(桃崎有一郎「 画期的新説 邪馬台はヤマトである 」)。

(桃崎 有一郎/文藝春秋 2024年3月号)

買弁が「買弁」と言われるようになった理由

「ニコニコ大百科」という、あまり信頼できそうにないタイトルのサイトだが、この「買弁」の説明は実に行き届いていて感心した。

ちなみに、弁当を買う行為を「買弁」とは言わないww
しかし、誰かに頼まれて弁当を買うなら、本来の語源から見たら、代理購買だからまさに「買弁」なのである。

(以下引用)

買弁単語 

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買弁買辦)とは、

  1. 中国において、清朝時代から1940年代ごろまでにおいて、外の資本が中国内に設立した商館・商社などに協していた中国人商人
  2. 植民地などにおいて、支配の資本のビジネスに協する現地の商人を、支配体制に協しているとして非難する言葉。上記1.からの生。さらにここから生して、自の利益を軽視して外に協する様相を「買弁的」と表現する場合がある。

概要

元々「買辦」とは、上記の1.の意味すらなく、中国明朝において宮廷や地方官庁のために日用品を代理購入して用立てることを担当していた商人す言葉であった。使用されている漢字を見てもそれがわかり、「買」は「買う」「購入する」ことをし、「辦」は「処理する」「務める」「扱う」ことをす。つまり「購入係を務める者」と言った程度の意味でしかなかった。この職は明から清へと王が移っても存続した。

清朝1757年から、広東のみを欧との通商を行う港湾都市とする制度を設けた。これを「一口通商」と言い、この時代の広東は、鎖国時代の日本における長崎にも例えられる。だが、アヘン戦争を経て南条約を締結することになり、広州・福州・厦門・寧波・上海の5つの港湾都市が対外貿易のために開かれるようになった。これを「五口通商」という。

その後、この五都市商社銀行など多数の外資本が進出した。これら外資本に雇用されていた、あるいはビジネスの相手となった中国人商人たちは、上記の「宮廷・官庁のめに応じる商人」になぞらえて「買辦」と呼ばれるようになった。

「買辦」らの中には、外資本の元でのビジネスノウハウを身に着けて、外資本から独立し自らが体となって貿易などを行う企業を立ち上げた者などもおり、成功して巨万の富を築き上げた例もある。

一方、これら「買辦」らの商行為について、自らの利益を追いめるあまり(あるいは、自の利益を鑑みることを放棄したために)、外中国を半植民地化していく過程に協するものであった、として非難する視点もある。ここから、次節で触れるように、「批判する言葉」としての「買辦」が生した。

現在日本では「買辦」ではなく、簡略化した新字体で「買弁」と記されることが多い。ちなみに「弁論」や「弁別」「弁」の「弁」は新字体では「買弁」の弁と全く同じ文字だが、それぞれは元々「論」「別」「」であり、「買辦」の「辦」とは異なる文字である。

批判する言葉としての「買弁」

「買弁」とは、「外の利益となるが自益を損なう行為」を批判する時に用いられる言葉である。

ニュアンスとしては一部の右が好んで使う「売国」と大差ない。だが左は「売国」という表現を嫌う傾向があるが、この「買弁」については一部の左なども使用している。一種の言い換えであるとも言える。

例えば、「安倍晋三総理の採決した平和安全法制は、米国への買弁行為だ」という批難は左から出ている。他にも「安倍政権の日韓合意での10億円バラマキ米国の顔色をった買弁行為だ」という批難がリベラルと右からも出ている。

このように右関連く使用される傾向のある言葉が「買弁」という単である。ただし、「売国」にべて知名度・認知度は低い。