社会学的「定義」にご注意
思想メモとして書いておく。
・「社会主義」に対置されるのは実は「資本主義」ではなく「個人主義」である。それも悪しき意味での個人主義であり、自らの欲望の達成のためには他者を蹂躙してよい、という野獣的思想である。
社会主義の対置が個人主義であるというのは、「社会」の対置が「個人」であることから明白なはずだが、我々は学者たちによって勝手に定義づけられた「社会主義」と「資本主義」を念頭にしてその両者を対立関係と見ることを習慣化させられたのである。
そもそも、社会主義の発生時には様々な社会主義があり、それらは何もひとつの定義で片付くものではなかったはずである。
社会体制支配者にとって有利な説を唱える学者が学会の中で出世し(お偉方によって引き上げられ)、その学者らによる定義づけが社会全体の思想を枠にはめるのであり、実はこれが社会学的思想における「パラダイム」の正体だ。
・「資本主義」とは実は「自由主義」のことである。自由主義とは根本的に言えば「規制や規則は不要だ、それどころか有害だ」という思想であり、これが幼児的な愚劣な思想である(ちなみに、完全に規制や規則の無い社会、つまり法律も道徳も存在しない社会を想像してみればいい。)ことは明白であるが、学者たちによってそれが有益な思想であるとされたために、「強者(権力者や上級国民)の自由」であるにすぎない自由主義を下級国民まで有難がるように「パラダイム」が作られたのである。
・アナーキズムは「自由主義」の極端な形であり、地上で最高に阿呆な思想であるが、これが社会主義の一種であるというのもまた御用学者たちの作った「パラダイム」である。どう考えても、社会主義、つまり社会全体の福利のために個人的な自由を制限する思想とアナーキズムが同じ範疇であるはずはない。これは「アナーキスト」を破壊主義者、テロリストとして社会の敵とし、社会主義全体を危険思想視させるための「支配層による工作」である。
・社会の支配層は社会の1%ではなく、もっと少ない。1%のさらに99%、あるいは99.9%は道具にすぎない。真の支配層は命令を出すだけである。
・「社会主義」に対置されるのは実は「資本主義」ではなく「個人主義」である。それも悪しき意味での個人主義であり、自らの欲望の達成のためには他者を蹂躙してよい、という野獣的思想である。
社会主義の対置が個人主義であるというのは、「社会」の対置が「個人」であることから明白なはずだが、我々は学者たちによって勝手に定義づけられた「社会主義」と「資本主義」を念頭にしてその両者を対立関係と見ることを習慣化させられたのである。
そもそも、社会主義の発生時には様々な社会主義があり、それらは何もひとつの定義で片付くものではなかったはずである。
社会体制支配者にとって有利な説を唱える学者が学会の中で出世し(お偉方によって引き上げられ)、その学者らによる定義づけが社会全体の思想を枠にはめるのであり、実はこれが社会学的思想における「パラダイム」の正体だ。
・「資本主義」とは実は「自由主義」のことである。自由主義とは根本的に言えば「規制や規則は不要だ、それどころか有害だ」という思想であり、これが幼児的な愚劣な思想である(ちなみに、完全に規制や規則の無い社会、つまり法律も道徳も存在しない社会を想像してみればいい。)ことは明白であるが、学者たちによってそれが有益な思想であるとされたために、「強者(権力者や上級国民)の自由」であるにすぎない自由主義を下級国民まで有難がるように「パラダイム」が作られたのである。
・アナーキズムは「自由主義」の極端な形であり、地上で最高に阿呆な思想であるが、これが社会主義の一種であるというのもまた御用学者たちの作った「パラダイム」である。どう考えても、社会主義、つまり社会全体の福利のために個人的な自由を制限する思想とアナーキズムが同じ範疇であるはずはない。これは「アナーキスト」を破壊主義者、テロリストとして社会の敵とし、社会主義全体を危険思想視させるための「支配層による工作」である。
・社会の支配層は社会の1%ではなく、もっと少ない。1%のさらに99%、あるいは99.9%は道具にすぎない。真の支配層は命令を出すだけである。
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他に身の振り方がないから、しぶしぶ結婚しようとしている女性の気分は、わかるのですが、結婚する男性の気分がまったくわからない。
女性は必要な時にだけ金を出して買えばいいのであって、不要なときにまでホールドするのは金の無駄でしょう。ホールドされる女性だっていい迷惑だ。