思想と実行の峻別
この「くちびるせんせい」のような議論の仕方はなかなか巧妙で、それだけに卑劣である。何かを攻撃している相手に、「お前だって同じようなところが(内面的に)あるじゃないか」とすることで相手を下げ、その主張を薄弱なものにする論法だ。
そりゃあ、聖人でもないかぎり、欠点の無い人間はいないのだから、誰でも内面には悪を抱えている。しかし、それだからと言って、悪を批判してはいけないということにはならない。いわば、「自分のことは棚に上げても」悪を批判しなければならない場合もあるわけで、それは悪が空想の段階か、現実に実行したかが境い目になる。
キリストは「心の中で姦淫をした者は実際に姦淫をしたのと同じ」と言うが、心の中で淫らな想像をしただけで法に問われることはない。内面の思想や感情を罰することはできないのである。それが罰せられるなら、私は「人を殺したい」と思った罪で何度も逮捕されているだろう。
そりゃあ、聖人でもないかぎり、欠点の無い人間はいないのだから、誰でも内面には悪を抱えている。しかし、それだからと言って、悪を批判してはいけないということにはならない。いわば、「自分のことは棚に上げても」悪を批判しなければならない場合もあるわけで、それは悪が空想の段階か、現実に実行したかが境い目になる。
キリストは「心の中で姦淫をした者は実際に姦淫をしたのと同じ」と言うが、心の中で淫らな想像をしただけで法に問われることはない。内面の思想や感情を罰することはできないのである。それが罰せられるなら、私は「人を殺したい」と思った罪で何度も逮捕されているだろう。
差別感情が、万人の抱き得るものである点には同意します。
ただ、誰もが多少なりとも持っている感情だから容認すべきだという話はありません。むしろ、誰もが持ってしまいがちな感情だからこそ、厳しくいましめ、決して外に向けて表現しないように心がけるべきなのだと思っています。
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