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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

なぜ文学者は自殺し自然科学者は自殺しないか

「清張日記」の中に引用されていた木下杢太郎の文章の一節が非常に示唆的である。

「然し僕も創作をしていた頃には、時々馬の首を壁にぶつけたやうに感ずることがあった。十方塞がりという感じである。自然科学の研究が行きづまっても決してこの重苦しい気分にはならぬ。文学の場合にはどうも屡々この心境に到着するやうである。そしてともするとスユイシイド(引用者注:自殺のこと)の思考が芽(ぐ)む」


私の考えでは、これは文学が結局は自分の内面(実は非常に狭いもので、しかも思考はその狭い中でしばしば堂々巡りをする。)からしか生まれないものであって、自分の外界世界そのものを研究対象とする自然科学とはそこが違うからだと思う。つまり、自然科学研究の場合には、たとえ当面の研究で行き詰っても、それには必ず解決の道はある、なぜなら世界はこれほど広大だからだ、と無意識に信じられるからだろう。
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