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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「悟り」の後はどうなるか

特に真新しい内容が書かれた本ではなさそうだが、西洋人の仏教に対する見方が分かって面白いかもしれない。
下の記事で言えば、「悟り」を到着地点(境地)ではなく途中経過(過程)である、とする考え方は面白い。
確かに、悟りを開いて、それでお終い、では悟りを開いた意味も無い。まあ、苦悩が消滅するという効果はあるだろうが、その後も生き続けるわけで、悟り自体は到着地点ではないのはその通りだろう。


(以下「紙屋研究所」から引用)なお、文中にこの筆者には珍しく誤記らしい表現があるが、そのままにしておく。



2018-09-23 仏教の生き残り方 『なぜ今、仏教なのか』

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか 科学の知見で解く精神世界』Add Star


 仏教は、湧き上がる不安や欲望――つまり「煩悩」をどうコントロールするのかという無神論の精神管理技術じゃねーのか、ということをブログでもくり返し書いてきたんだけど、

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151025/1445776901

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180224/1519454846

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180403/1522728098

それは別にぼくオリジナルの大発見とかいうわけではなく、すでに初期仏教の核心だけを取り出して現代化した「西洋仏教」ではフツーの解釈(無神論であり瞑想を中心とした宗教)なのだとこの本を読んで今さらに知った。


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 本書(熊谷淳子訳、早川書房)はこの立場をさらに徹底している。

 ダーウィンの自然選択とか、心理学上の成果をちりばめながら、欲望や不安を解釈し、その管理技術として、仏教の世界観と瞑想技術はまあ役に立つよ、ということを書いている。

 しかも本人は「俺は悟りを開いたぜ」「瞑想の天才だよ」的なドヤ顔トークがまるでなく、むしろダメ瞑想参加者、悟りとは程遠い人間として語っていて、逆にぼくのような「無宗教現代人」が読んだ時に宗教書としての説得力は格段に大きくなっている


日経書評を読んで読もうと思った

 もともとこの本を読もうと思ったきっかけは日経2018年9月1日付)の書評だった。本書の核心部分がとても短い言葉ですぐれた要約がなされているので紹介する。

 私たちの心はいくつもの「モジュール」でできており、それらが常時主導権を奪い合っている。また何かを知覚するときに善しあしの価値判断を抜きにすることはできない。人間の心はそういう挙動をするようにできたシステムであり、それを制御する方法が瞑想だという。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

 もう少し詳し目の要約は本書の巻末につけられた「仏教の真実一覧」とした12のテーゼでわかる。


 著者ロバート・ライトによれば、認知科学心理学の成果では、ぼくらが思っているような「自分」を統御する単一の主体(ライトのふざけた言葉でいえば「CEO自己」)というものはない。心の中にある「モジュール」(構成単位、部品)の争いでしかない、という。

 この発想が仏教「無我」に違いことはすぐわかるだろう。


 人間が今のような文明社会を築くはるか前に、自然選択によって生まれたもので、例えば砂糖がけのドーナツを物欲しそうに次々求めてしまうような甘いもの好きはそうした方がカロリーを集め生きるために有利だったからで、しかも「あま~い、おいし~」という満足感の報酬が長く続かないのは、いつまでも満足してもらっていては生存戦略上困るからだという。「ああ、もっと甘いものはないかな」といつも不満足に甘いものを求めていないと生き延びられない。

 しかし、現代の文明社会ではこれは余計なものになってしまっている。

 過剰なカロリーを取り、健康を損ねるからだ。

 だから、人は何か欲望したこと、理想としていたことが満ち足り続きはしないという。いつも不満であり、飽き足りないと。


 では、こういう欲望を「自己」が統御できるかというと、そんなことはないとライトはいう。モジュール同士の争いであり、闘争して勝利して報酬をえたモジュールは力をつけるので、次もまた勝ちやすい。

 瞑想の一つのタイプは、このモジュールの動きを否定しようとするのではなく、モジュールが動き出す様をじっくりと眺めてみてはどうかというのである。自分の中で欲望が駆動してくるのを、あたかも他人のように眺め続けるのだ。

 自分では制御できないモジュールがあって、それは自分じゃねーんだよ、ということを受け入れて眺め続けるしかない。

 しかしそうやってまるで他人事のように自分の中の衝動を眺め続けた結果、ひょっとしたら、その衝動を自分ではない他人のように眺められることもある……かもしれない……とライトは気弱にいう。自分の小さな成功体験をそこで控えめにいう程度なのだ。いつも成功するわけではない。


 ぼくは仏教を精神のコントロールだと言ってきたが、むしろ仏教は、感覚や意識のありようがコントロールできない部分があることを受け入れることから始めると言える。

ブッダが言っていたのは、基本的に「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ。(p.94)

自己がコントロールをにぎっていないこと、そしてある意味で自己が存在しないかもしれないことを受け入れれば、自己(あるいは自己のようなもの)にコントロールをにぎらせることができるかもしれないという矛盾だ。(p.118)

 自分の感覚に固執しない、つまり感覚が絶対固定のものだと見なさないこと自体が、感覚を「空」(くう)だととらえることになる。

 しかもそれだけではない。

 対象となっている客観物でさえ、ぼくらは固定した本質を持っていると思いがちだが、そもそも客観物自体(そしてそれを眺めてている「ぼく」=自我さえも)が相互に依存するものから成り立っているのであり、決して不変固定なものではない。

 だとすれば、客観物や「私」に備わっていると考えていたものに執着したり、固執したりすることもおかしなことではないのか――これが仏教でいう「縁起」(相互依存)であり「無色」(弁証法的運動)である。まさにヘーゲル


怒りや欲望をなくすのではなく明晰に見えるようになる

 では、瞑想によって、欲望、渇望、不安、怒りなどに打ち勝って、平安無事な境地――涅槃ニルヴァーナ)にいけるのか?

 ライトは、いやそんなことはないなあ、少なくとも自分はね、とまたしても控えめにいう。

私は悟りを求めてはいるけれど、悟りを境地ととらえるかわりに、過程ととらえている。……ゲームの目的は、少し遠い未来に真の解放や真の悟りにいたることではなく、それほど遠くない未来に少しだけ解放され、少しだけ悟ることだ。(p.304)

 悟りは境地ではなくプロセスだという。

 欲望や渇望、不安を否定せず、明晰に見る。

 見えるようになることでその付き合い方が生まれるということだ。それは感情がなくなるというのではない。

 このことは、ライトの次の文章でぼくには腑に落ちた。

一つ例をあげると、私は過去二〇年間のアメリカによる軍事介入のほとんどがあやまちであり、脅威に対する過剰反応とそれによる深刻化の実例だと考えているし、軍事介入を強く支持してきた人たちには腹が立ってしかたがない。そして、ある程度はこのまま腹を立てていたいと思う。瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。しかしそのような地点までたどりつく危険性は、少なくとも私にとっては間近に差し迫ったことではない。とにかく、設問は、そうした人たちとのイデオロギー闘争を賢明かつ誠実に展開できる地点まで私がたどりつけるかどうかだ。それはつまり、私の自然な傾向より客観的に、ある意味でより寛大にその人たちを見ることができるかどうかだ。(p.310-311

 これは本当にすばらしい態度だ。

 理想と言ってもいい。


 仏教がもしも欲望や煩悩を「なくして」しまうものであるなら、そう、まさに政治の世界の闘争心を奪ってしまうものなら、ぼくもご遠慮こうむりたい。しかしそうではない、とライトはここで明確に述べている。

 相手への怒りで前が見えなくなる、公正な判断ができなくなるほどの曇りようをするのではなく、明晰にそれを見ること、その感情と受け入れること、そして逆に自分に不利な材料への不安を受け入れることでもある、とライトはいう。

 ネットでそれぞれの陣営が怒りのままに我を忘れて相手を罵り合うという問題への処方箋そのものである。なんという現代性。

 もちろん、それだけでなく、例えば子どもを失った悲しみとか、激しい性欲とか、そういう問題にも応用が可能なものだろう。

 本書の特徴をまとめた日経の次の部分にも圧倒的に賛同する。

神秘的な仏教の概念を、普通の人に理解できる言葉で説明したところが本書の手柄だろう。/認知科学心理学の知見に基づく記述とユーモアあふれる語り口が、本書を一味違った仏教入門書にしている。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

ぼくの田舎で信仰されている世俗仏教との差

 さてここまで仏教の現代性を見てきた上で、いまぼくの田舎の実家で進行しているような「仏教」のありようとの差について最後に考えて見る。


 もともと、仏教は(自分あるいは肉親の)「死」の恐ろしさ、悲しみ、苦しみとどう向き合うかということから生まれたものであり、葬式・法事は肉親の死への悲しみに対する一つの向き合い方だった。直後の悲しみに付き合いながら、次第に忘れていくような儀式装置だ。

 実家の父親や母親たち(そして多くの仏教の世俗信仰者)は、それを素朴な祖先信仰と結びつけている。死者はあの世に行って、お盆に帰ってくる。そのような連綿と続く「家(イエ)」の一員として、「イエ」を受け継いでいくこと、歴史のリレーをすることに自分が生きる存在意義を感じている。だからこそ、ぼくの父母にとって墓や仏壇や、それらを管理する寺は重要なものなのである。


 このような日本の世俗の「仏教」と、ライトが描いた、そして西洋で興隆する瞑想を中心とした精神管理技術としての仏教とは、共通点もあるが、かなり隔たりがある。

 「イエ」を軸にした従来の日本の世俗の「仏教」は少なくともシステム(特に寺を軸にした檀家制度)としては維持できまい。

 ただ、そのシステムのうち、葬式と先祖供養というか、死の悲しみの受容、それの一定期間での回顧、そして自分のルーツに関わる部分を管理したり偲んだりする部分はこれからも必要とされる。

 西洋仏教的な精神コントロールとしての現代性を軸に若い人を獲得しながら、「死」の管理、つまり葬式・法事・先祖供養を思い切って合理化・統合することに成功すれば、世俗仏教(の界隈の産業)は生き延びられるのではないかと思う。ただしそれは相当なリストラ、スリム化が必要になるだろうけど。


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馬鹿な奴ほど他人を見下し、憐れむ

たぶん、ネットの一部では有名なコピペだと思うのだが、もしもこれが感動的な話だと思われているとしたら、私には少々気に入らない。
というのは、私が毎日のようにやっているのも、この池沼な子供と同じことだからだ。
少し大げさに言えば、サラリーマンが毎日会社に行き、8時間をそこで過ごし、家に帰ってくる生活も、学生が毎日学校と家を行き帰りするのも、この池沼の子供の毎日と同じだろう。
要するに、その子供の脳内世界でどのような冒険が行われ、どのような満足感を与えられているのか、外部から分かるものではない、ということだ。
彼がその「単純作業」に没頭していることは、彼がゲームに触れられることをひどく嫌がったことからも分かる。そのゲームをやっている時間は、彼にはおそらく「至福の時間」だったのだ。
そのゲーム(ドラクエ3)の「目的」など、彼にはどうでもいいことであり、スライムやカラスを倒すことが面白かったのだと思う。
なお、「延々と」を「永遠と」と書く、よくある間違いをこのコピペはしている。

ちなみに、言うまでもないが、「池沼」は、知的障碍者を指すネット特有の差別語であるが、知的障害は単なる個性(優れた特質だけを「個性」と見做す風潮自体、おかしいのである。)であり、差別する側が彼らよりマシなレベルの人間だとは私は思わない。ただし、それは、「私は差別は大嫌いだ。黒人も白人もユダヤ人もみんな平等に糞だ(として扱う)」という意味での平等主義者かもしれないwww



138: 以下、ソニック速報からお送りします 2014/10/29(水) 13:48:05.40 ID:TGZA3g8c0.net
池沼な子供の、永遠に世界を救えなかった勇者のコピペを思い出した
ドラクエ3でずーっとアリアハン近辺でレベル上げしてたとかいう話
166: 以下、ソニック速報からお送りします 2014/10/29(水) 21:16:52.30 ID:N74HzylB0.net
>>138
小学校のとき、先生に知能に障害がある子のうちに遊びに行かされた。
彼は脇目もふらずにドラクエ3をやっていて、
正直、「こいつでもドラクエとかわかるんだなあ」と思った。
三十分ほど彼のプレイを見ていて、とても悲しい事に気が付いた。

彼がそのゲームでやっているのは、
アリアハンの周りでスライムとカラスを倒す、ただそれだけだった。

パーティにただ一人の勇者のLvは50を越えていた。
彼は永遠、素手でスライムを殺し続けた。

とても楽しそうだった。

先に進めてやろうと思い1コンに手を伸ばしたら凄い剣幕で怒鳴られた。
なんて怒鳴られたか聞き取れなかったけれど、とにかく怒鳴られた。
それを見て彼の母親が
「ごめんなさいね、○○ちゃんはファミコン大好きのよ」と僕に謝った。
彼はドラクエ以外のソフトは持っていなかった。

僕はそれ以来、ゲームをやらなくなった。
以前のようにゲームにのめり込めなくなってしまったのだ。
コントローラーを握るとやるせなくなった。
友達の家に行ってもみんながやるのを見ているだけだった。
その間、僕はゲームに興じる友達の背中だけを見るように努めた。
本当にむなしかった。

その内に、僕はファミコンを憎むようにさえなった。
今までの人生の中で、あんなに何かを憎んだことはない。
それは真夜中に僕を目覚めさせた。
ゲームなんかこの世からなくなってくれと本当に願った。
僕はソフトを彼に全部あげて、本体は捨ててしまおうと思ったが、
兄に怒られそれすらできなかった。
一人暮らしをしている今でもゲームは嫌いだし、
もちろん家にも置いていない。

時々、彼と、永遠に世界を救えなかったであろう彼の勇者の事を思い出すと、とても悲しくなる。




火星開拓より砂漠を開拓せよ

なぜ、戦争という無駄なものが永遠に無くならないのか、というのと同様、砂漠の緑化になぜ全地球的に取り組まないのか、というのが人類の不思議のひとつだろう。
もちろん、そこは、「カネになるかどうか」というのが最大のポイントとなるのであり、砂漠の緑化にはカネがかかるし、収益が上がる頃には投資者は死んでいる、ということがある。
一方で、戦争には死の業者や軍人上級国民にはカネと栄誉が手に入るという即座の「儲け」がある。
現在でも、砂漠の緑化にボランティア的に取り組んでいる人々もおり、オリンピックで金メダルを取った連中より、そういう人々こそ褒め称え、後押しするべきなのである。


(以下引用)



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「褒める」と「励ます」の違い

私は他人と一緒にいて楽しいと思った経験がほとんど無い人間なので、「独楽帳」などというブログを書いたりしているわけだが、生きることは楽しいと思っている。文学や音楽や漫画やゲームがあれば、人間の友人はさほど必要としないわけである。
人間の友人というのは、社会生活を「有利に進める」上では大事な要素だが、友人がいるから人生が豊かになるとも思えないわけだ。と言うのは、自分に似た感性を持った人間が身近にいる確率というのは非常に少ないわけで、そうすると、友人との会話は、「徒然草」に言う、「他人が自分の言葉をどう聞くかを気にして」の発言になり、本心からの言葉ではなくなる。まあ、学生時代に遠慮会釈の無い、気の置けない友人関係を持つこともあるだろうが、社会に出たらそうはいかない。同僚であっても、気を許せる人間がいるのは希だろう。

さて、ここで書こうとしたのは、実は教育の話である。その前置きに、自分が教育を語る資格のほとんど無い人間であることを書いたわけだ。

最近の教育は「褒めて伸ばす」のが主流だが、「褒めて伸ばす」という言葉には問題があるような気がする。「励まして、あるいは勇気づけて伸ばす」と言うべきなのではないだろうか。
何が違うのか、と言われるかもしれないが、私は、「褒められると人間はそこで満足し、成長しなくなるものではないか」と思っているのである。
私自身は子供の頃は他人に悪く言われたことがほとんど無い人間だが、その分、打撃に非常に弱い人間になったように思う。良く言う「豆腐メンタル」だ。小さいころから他人に悪口を言われてばかりいた人間のほうが「わたモテ」のもこっちの言う「人間強度」は高いのではないか。
「励ます」のは褒めるのとは別である。褒めるのは、その対象が何かの点で優れている、ということが前提だが、「励ます」は「今は悪くても気にすることはない。必ず良くなる」という趣旨の言葉をかけ、勇気を与えることだ。もちろん、それを信じるだけの「精神的幼さ」を対象が持っていることが前提だが、教育とは基本的に「精神的幼さ」を持った人間が対象なのだからそれでいいのである。

足が速いとなぜモテる?

実は、これはどれも同じことであって、要するに「一番優れた種(種牡馬)を探している」のである。
小学校時代は、目で見て一番はっきりと順位が分かる「足の速さ」がオスの優秀さの基準になり、中学校だと、威圧感と反抗によって「強さ」を演出する「不良」が強いオスに見える。高校になると、自分自身が一緒に居て楽しく、「スクールカースト」上位である「ウェーイ」系の男子がモテる。大学では、学力はみなだいたい同じだから、社会に出た時に出世しそうな「リーダー」タイプがモテる。「イケメン」は常に、他の女性からの評価が高いので、それを彼氏にすると威張れる、つまり自分のカーストが上がる。金持ちが権力そのものであり、社会カーストの最上位であるのは言うまでもない。