忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

萌え絵とエロ

  1. 私にとって萌え絵とは、物凄く抽象化された可愛さ、ということで、簡単な見分け方は、複数の女の子が出てくる場合、髪の色や髪型以外に区別がつかない、ということであるwww
  2. ところが、一般人には区別のつかないそれらのキャラクターそれぞれにファンが付くわけだろうから、まあ、慣れれば区別も付くのかもしれない。
  3. 低年齢向けの少女漫画の絵柄から進化してきて、それを男の絵師が描くようになって、「定型的萌え絵」が完成したのではないだろうか。
  4. なお、萌え絵とエロは無関係だと私も思う。弓月氏の言うように、「可愛さ」を追及したのが萌え絵であり、そこでは巨乳というのはむしろ異分子だったのではないか。
  5. 要するに、エロ絵を描く目的で描かれた絵の中に、萌え絵的な顔を付け足したのが大量にネット上にあるために、「萌え絵とはエロである」という誤解も生まれたかと思う。
  6. なお、私自身は萌え絵はだいたい嫌いである。キャラの区別がつかない顔が同じ画面に複数出てくるだけでうんざりする。
  7. なおなお、一部の暴論に見られるパターンを「ゴールから(先に決めて)仮説を立てる」やり方だというのは卓見である。
  8. 弓月 光 @h_yuzuki 3時間前
  1. 自分もキャラとしてならおっきなオッパイの女の子描く事はありますが、本来ちっとも趣味ではありません。形のいいソコソコのが好きですね〜〜(^ ^)
  1. 萌えキャラの変遷って「カワイイ」の追求によって変化してきたモノじゃないかなぁ^_^ その大きな輪の中に性的なアレがあるだけのような。
    1. 初音ミクを筆頭にペッタンコ萌えキャラも多いと思われますが(^ ^)


PR

エゴイズムの文明と和の文明

メモだが、近代の西洋文明というのは、一言で言えばエゴイズム(個人主義)の肯定である。
それがなぜ、和の文明である日本よりはるかに高度な文明に達し、江戸末期に日本は危うく滅びかかったのか、という問題を考えてみたい。
その答えは、おそらく、「現状への不満の表明」つまり、現状への批判が許される(あるいは自然に表に出る)社会かどうかということではないかと思う。
和の文明では、不満の表明は不和の元として各自が腹の中に飲み込むことになる。したがって、社会の改善すべき点が表に出ることもなく、ずっと変わらないことになる。つまり、永遠の停滞だ。
これは日本のみならず、「尚古主義」である儒教思想が覆っていたアジア全体の特徴ではないか。
停滞のアジア、である。
政治的に言えば、悪政の根本原因を変えることなく、部分的な糊塗策だけでその場逃れをする政治が永遠に続くことになる。これが官僚主義の本質であることも言うまでもない。

もちろん、西洋文明でも不平不満の表明は軋轢を産み、弾圧され、場合によってはその不平不満の表明者は処刑される。しかし、個人主義が根本にある限り、恵まれない人々の不平不満の表明は抑えることはできなくなり、上と下の「政治的妥協」が行われることになる。それが社会福祉の増進などになるわけである。

私の尊皇論

私が尊皇主義者であることは別ブログで何回か書いているが、その理由を説明したことはあまり無い。なお、私の尊皇主義とは、天皇という存在、皇室という存在を日本の伝統的な「政治上の知恵」として尊重し、それをこれからの日本の政治に活かしていくべきだ、という趣旨である。
「天皇制」という言葉にはかなり色がついているのであまり使いたくはないが、制度としてなら、現在の「象徴天皇制」というのが私が好ましいと考える天皇制である。つまり、政治的な実権は持たず、国民統合の象徴としての存在であればいい、という考えだ。そのためには、天皇と皇室は国民に敬愛され尊敬される存在でなければならない。イギリス王室のようにスキャンダルまみれの皇室なら、国家や国民の象徴にするのも不愉快だろう。もちろん、過去の歴史には皇室や天皇のスキャンダルは山ほどある。古事記その他の古典に書かれた天皇やその一族の所業はむしろ汚物まみれであるとすら言える。(今上天皇は歴史上希に見る清潔で誠実な天皇であるが、それはご自身が日本国民統合の象徴であることを常に意識しているからだろう。それこそが、私の意味する尊皇主義の対象となるような天皇である。)
だが、いかに最悪の天皇の治世であっても、時の実権者が自ら天皇の地位に就こうとした例は非常に少ない。おそらく、大化の改新以前の蘇我氏(つまり超古代の話だ。)や、室町時代の足利義満くらいではないか。道鏡の場合は道鏡本人の意思といううより、彼を寵愛した何とか女帝の意思だったという見方が正しいようだ。蘇我氏や足利義満以外には、藤原氏も源頼朝も北條氏も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も政治の実権は握ったが、自ら天皇になろうとはしなかったのである。これは、彼らが非常に賢かったことを意味していると思う。つまり、「天皇というクッションを置くことによって、政治を安定させる」ということだ。別の言い方をすれば、天皇とは、「いざという時に大きな利用価値がある存在だ」ということだ。何しろ、天皇家の1500年(?)近い歴史は、それだけでも人々を畏怖させ畏敬させる力がある。政治的実権はなくとも、いわば「日本の生きた文化遺産」なのであり、それをゴミ箱に捨てるのは阿呆の所業である。
では、天皇制のデメリットは何か、と言えば、それは「天皇が政治的中心となり、政治的実権を握った場合に、政治の責任の中心が空白になる」ということだ。いわゆる「天皇無答責」論だ。
長くなるので、続きはまたいずれ書く。

なぜ山に登る馬鹿を救助する必要があるのか

私は登山経験がほとんど無く、人がなぜ山に登るのか、その心理も理解できないので、登山で遭難した連中を救うのに税金が使われる(と思うが、どうだろう。)のには不快感を感じている人間だ。
登山を趣味にする人間の気持ちが分からないのは私だけではないだろう。エベレスト登頂に成功したヒラリーに記者が「なぜ山に登るのですか」と聞いたのは、それがその当時の一般人の疑問だったからだろう。それに対して「そこに山があるからだ」と答えたのは名言扱いされているが、答えになっていない。まあ、自分でも「一言では答えにくい」と思ったから適当に答えたのだと思う。
で、山に登る時の心理として、「冒険を楽しむ」気持ちがあるのは確かだろう。自然の中に入ると様々な危険性がある。下手をしたら死ぬかもしれない。それでも山に登るのはその危険が面白いからであるはずだ。危険を克服した時、自分が大きくなったような気分になれるわけである。「おれは自然に勝った」くらいの気分ではないか。
で、下のような登山用アプリをスマホに入れれば、遭難時の安全性(救助の確実性)が確保されるとして、それは「遭難者を助ける」ことが今以上に多くなるということにならないか。いや、遭難者を助けるのが目的のアプリなのだろうから当然だが、無思慮無計画な登山者の遭難と、その救助が増えるのは社会の迷惑以外の何物でもない。これは生活保護などの「社会システムの不充実による貧困」への救助とはまったく異なる、馬鹿が馬鹿な行為をしたことを税金で助けることにならないか。
まあ、山で死ぬ奴は自分勝手にそういう羽目になるのだから放っとけ、という話だ。




さんがリツイート

改めて拡散お願いします。登山にGPSを活用するのが当たり前になれば未来の遭難者が減ります。道迷い遭難で亡くなる人、リスクを冒して救助する人の命を守りましょう。
何もしなければ今年もあと300人が道迷い遭難をし、そのうち何十人かは死にます。




「悟り」の後はどうなるか

特に真新しい内容が書かれた本ではなさそうだが、西洋人の仏教に対する見方が分かって面白いかもしれない。
下の記事で言えば、「悟り」を到着地点(境地)ではなく途中経過(過程)である、とする考え方は面白い。
確かに、悟りを開いて、それでお終い、では悟りを開いた意味も無い。まあ、苦悩が消滅するという効果はあるだろうが、その後も生き続けるわけで、悟り自体は到着地点ではないのはその通りだろう。


(以下「紙屋研究所」から引用)なお、文中にこの筆者には珍しく誤記らしい表現があるが、そのままにしておく。



2018-09-23 仏教の生き残り方 『なぜ今、仏教なのか』

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか 科学の知見で解く精神世界』Add Star


 仏教は、湧き上がる不安や欲望――つまり「煩悩」をどうコントロールするのかという無神論の精神管理技術じゃねーのか、ということをブログでもくり返し書いてきたんだけど、

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151025/1445776901

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180224/1519454846

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180403/1522728098

それは別にぼくオリジナルの大発見とかいうわけではなく、すでに初期仏教の核心だけを取り出して現代化した「西洋仏教」ではフツーの解釈(無神論であり瞑想を中心とした宗教)なのだとこの本を読んで今さらに知った。


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 本書(熊谷淳子訳、早川書房)はこの立場をさらに徹底している。

 ダーウィンの自然選択とか、心理学上の成果をちりばめながら、欲望や不安を解釈し、その管理技術として、仏教の世界観と瞑想技術はまあ役に立つよ、ということを書いている。

 しかも本人は「俺は悟りを開いたぜ」「瞑想の天才だよ」的なドヤ顔トークがまるでなく、むしろダメ瞑想参加者、悟りとは程遠い人間として語っていて、逆にぼくのような「無宗教現代人」が読んだ時に宗教書としての説得力は格段に大きくなっている


日経書評を読んで読もうと思った

 もともとこの本を読もうと思ったきっかけは日経2018年9月1日付)の書評だった。本書の核心部分がとても短い言葉ですぐれた要約がなされているので紹介する。

 私たちの心はいくつもの「モジュール」でできており、それらが常時主導権を奪い合っている。また何かを知覚するときに善しあしの価値判断を抜きにすることはできない。人間の心はそういう挙動をするようにできたシステムであり、それを制御する方法が瞑想だという。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

 もう少し詳し目の要約は本書の巻末につけられた「仏教の真実一覧」とした12のテーゼでわかる。


 著者ロバート・ライトによれば、認知科学心理学の成果では、ぼくらが思っているような「自分」を統御する単一の主体(ライトのふざけた言葉でいえば「CEO自己」)というものはない。心の中にある「モジュール」(構成単位、部品)の争いでしかない、という。

 この発想が仏教「無我」に違いことはすぐわかるだろう。


 人間が今のような文明社会を築くはるか前に、自然選択によって生まれたもので、例えば砂糖がけのドーナツを物欲しそうに次々求めてしまうような甘いもの好きはそうした方がカロリーを集め生きるために有利だったからで、しかも「あま~い、おいし~」という満足感の報酬が長く続かないのは、いつまでも満足してもらっていては生存戦略上困るからだという。「ああ、もっと甘いものはないかな」といつも不満足に甘いものを求めていないと生き延びられない。

 しかし、現代の文明社会ではこれは余計なものになってしまっている。

 過剰なカロリーを取り、健康を損ねるからだ。

 だから、人は何か欲望したこと、理想としていたことが満ち足り続きはしないという。いつも不満であり、飽き足りないと。


 では、こういう欲望を「自己」が統御できるかというと、そんなことはないとライトはいう。モジュール同士の争いであり、闘争して勝利して報酬をえたモジュールは力をつけるので、次もまた勝ちやすい。

 瞑想の一つのタイプは、このモジュールの動きを否定しようとするのではなく、モジュールが動き出す様をじっくりと眺めてみてはどうかというのである。自分の中で欲望が駆動してくるのを、あたかも他人のように眺め続けるのだ。

 自分では制御できないモジュールがあって、それは自分じゃねーんだよ、ということを受け入れて眺め続けるしかない。

 しかしそうやってまるで他人事のように自分の中の衝動を眺め続けた結果、ひょっとしたら、その衝動を自分ではない他人のように眺められることもある……かもしれない……とライトは気弱にいう。自分の小さな成功体験をそこで控えめにいう程度なのだ。いつも成功するわけではない。


 ぼくは仏教を精神のコントロールだと言ってきたが、むしろ仏教は、感覚や意識のありようがコントロールできない部分があることを受け入れることから始めると言える。

ブッダが言っていたのは、基本的に「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ。(p.94)

自己がコントロールをにぎっていないこと、そしてある意味で自己が存在しないかもしれないことを受け入れれば、自己(あるいは自己のようなもの)にコントロールをにぎらせることができるかもしれないという矛盾だ。(p.118)

 自分の感覚に固執しない、つまり感覚が絶対固定のものだと見なさないこと自体が、感覚を「空」(くう)だととらえることになる。

 しかもそれだけではない。

 対象となっている客観物でさえ、ぼくらは固定した本質を持っていると思いがちだが、そもそも客観物自体(そしてそれを眺めてている「ぼく」=自我さえも)が相互に依存するものから成り立っているのであり、決して不変固定なものではない。

 だとすれば、客観物や「私」に備わっていると考えていたものに執着したり、固執したりすることもおかしなことではないのか――これが仏教でいう「縁起」(相互依存)であり「無色」(弁証法的運動)である。まさにヘーゲル


怒りや欲望をなくすのではなく明晰に見えるようになる

 では、瞑想によって、欲望、渇望、不安、怒りなどに打ち勝って、平安無事な境地――涅槃ニルヴァーナ)にいけるのか?

 ライトは、いやそんなことはないなあ、少なくとも自分はね、とまたしても控えめにいう。

私は悟りを求めてはいるけれど、悟りを境地ととらえるかわりに、過程ととらえている。……ゲームの目的は、少し遠い未来に真の解放や真の悟りにいたることではなく、それほど遠くない未来に少しだけ解放され、少しだけ悟ることだ。(p.304)

 悟りは境地ではなくプロセスだという。

 欲望や渇望、不安を否定せず、明晰に見る。

 見えるようになることでその付き合い方が生まれるということだ。それは感情がなくなるというのではない。

 このことは、ライトの次の文章でぼくには腑に落ちた。

一つ例をあげると、私は過去二〇年間のアメリカによる軍事介入のほとんどがあやまちであり、脅威に対する過剰反応とそれによる深刻化の実例だと考えているし、軍事介入を強く支持してきた人たちには腹が立ってしかたがない。そして、ある程度はこのまま腹を立てていたいと思う。瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。しかしそのような地点までたどりつく危険性は、少なくとも私にとっては間近に差し迫ったことではない。とにかく、設問は、そうした人たちとのイデオロギー闘争を賢明かつ誠実に展開できる地点まで私がたどりつけるかどうかだ。それはつまり、私の自然な傾向より客観的に、ある意味でより寛大にその人たちを見ることができるかどうかだ。(p.310-311

 これは本当にすばらしい態度だ。

 理想と言ってもいい。


 仏教がもしも欲望や煩悩を「なくして」しまうものであるなら、そう、まさに政治の世界の闘争心を奪ってしまうものなら、ぼくもご遠慮こうむりたい。しかしそうではない、とライトはここで明確に述べている。

 相手への怒りで前が見えなくなる、公正な判断ができなくなるほどの曇りようをするのではなく、明晰にそれを見ること、その感情と受け入れること、そして逆に自分に不利な材料への不安を受け入れることでもある、とライトはいう。

 ネットでそれぞれの陣営が怒りのままに我を忘れて相手を罵り合うという問題への処方箋そのものである。なんという現代性。

 もちろん、それだけでなく、例えば子どもを失った悲しみとか、激しい性欲とか、そういう問題にも応用が可能なものだろう。

 本書の特徴をまとめた日経の次の部分にも圧倒的に賛同する。

神秘的な仏教の概念を、普通の人に理解できる言葉で説明したところが本書の手柄だろう。/認知科学心理学の知見に基づく記述とユーモアあふれる語り口が、本書を一味違った仏教入門書にしている。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

ぼくの田舎で信仰されている世俗仏教との差

 さてここまで仏教の現代性を見てきた上で、いまぼくの田舎の実家で進行しているような「仏教」のありようとの差について最後に考えて見る。


 もともと、仏教は(自分あるいは肉親の)「死」の恐ろしさ、悲しみ、苦しみとどう向き合うかということから生まれたものであり、葬式・法事は肉親の死への悲しみに対する一つの向き合い方だった。直後の悲しみに付き合いながら、次第に忘れていくような儀式装置だ。

 実家の父親や母親たち(そして多くの仏教の世俗信仰者)は、それを素朴な祖先信仰と結びつけている。死者はあの世に行って、お盆に帰ってくる。そのような連綿と続く「家(イエ)」の一員として、「イエ」を受け継いでいくこと、歴史のリレーをすることに自分が生きる存在意義を感じている。だからこそ、ぼくの父母にとって墓や仏壇や、それらを管理する寺は重要なものなのである。


 このような日本の世俗の「仏教」と、ライトが描いた、そして西洋で興隆する瞑想を中心とした精神管理技術としての仏教とは、共通点もあるが、かなり隔たりがある。

 「イエ」を軸にした従来の日本の世俗の「仏教」は少なくともシステム(特に寺を軸にした檀家制度)としては維持できまい。

 ただ、そのシステムのうち、葬式と先祖供養というか、死の悲しみの受容、それの一定期間での回顧、そして自分のルーツに関わる部分を管理したり偲んだりする部分はこれからも必要とされる。

 西洋仏教的な精神コントロールとしての現代性を軸に若い人を獲得しながら、「死」の管理、つまり葬式・法事・先祖供養を思い切って合理化・統合することに成功すれば、世俗仏教(の界隈の産業)は生き延びられるのではないかと思う。ただしそれは相当なリストラ、スリム化が必要になるだろうけど。