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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

浄土宗(浄土真宗)の本質的特徴は何か

裏日本(という言い方は差別的だという論者もいるが)では、浄土宗の信徒が多いのではないか、と私は推測しているのだが、特に根拠は無い。
で、浄土宗(あるいは浄土真宗。この二つの本質的違いが私には分からない。)というのは日本の仏教の中では信徒数が一番多いのではないか、というのも私の漠然とした、根拠の無い印象。
そして、その浄土宗、あるいは浄土真宗の特徴が何なのか、私にはさっぱり分からないのである。
まあ、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できる、という教えかなと漠然と思っているのだが、要するに、さっぱり分からない。たとえば日蓮宗などとどう違うのか。

1:来世の存在はある、と教えている。(ここが「葬式仏教」として、禅宗などへの優位点か)
2:念仏することで極楽に行ける(往生できる)と教えている。(庶民への広がりの理由)
3:日常的な禁忌は特に無い。妻帯も肉食もOK。殺生も昔(戦国時代など)は特に禁じていなかった。

という感じではないか、と思うのだが、もしそうならば、別に坊さんが存在する必要性も無く、有難みのない宗教だな、と思ってしまうのである。
さて、浄土宗という宗教の端的な説明、あるいは本質的特質は何なのだろうか。
もちろん、これは浄土宗や浄土真宗をけなす目的ではなく、日本の仏教のほとんどは似たようなもので、わずかに、禅宗だけは「個人的安心立命」によって「現世に生きる力となる」ことが本旨で、つまり哲学としては意味があるかな、というのが私の日本仏教理解である。



(追記)今、浄土宗と浄土真宗の違いを念のために調べてみたが、実にくだらない「相違点」である。あきれてしまった。


大宗派の中でも、あえて区別されているように、二者間には相容れない要素があります。

まずは開祖が違うということ。浄土宗の開祖は法然(ほうねん)で、浄土真宗の開祖は法然の弟子であった親鸞(しんらん)です。

それ以上に教義の面でも差異があります。その違いを簡潔に述べると、法然(浄土宗)は何千何万遍とひたすら念仏を唱えることにより極楽往生が叶うと説いたのに対し、親鸞(浄土真宗)はたった一回の念仏でも極楽浄土へ行けると説きました。










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萌え絵とエロ

  1. 私にとって萌え絵とは、物凄く抽象化された可愛さ、ということで、簡単な見分け方は、複数の女の子が出てくる場合、髪の色や髪型以外に区別がつかない、ということであるwww
  2. ところが、一般人には区別のつかないそれらのキャラクターそれぞれにファンが付くわけだろうから、まあ、慣れれば区別も付くのかもしれない。
  3. 低年齢向けの少女漫画の絵柄から進化してきて、それを男の絵師が描くようになって、「定型的萌え絵」が完成したのではないだろうか。
  4. なお、萌え絵とエロは無関係だと私も思う。弓月氏の言うように、「可愛さ」を追及したのが萌え絵であり、そこでは巨乳というのはむしろ異分子だったのではないか。
  5. 要するに、エロ絵を描く目的で描かれた絵の中に、萌え絵的な顔を付け足したのが大量にネット上にあるために、「萌え絵とはエロである」という誤解も生まれたかと思う。
  6. なお、私自身は萌え絵はだいたい嫌いである。キャラの区別がつかない顔が同じ画面に複数出てくるだけでうんざりする。
  7. なおなお、一部の暴論に見られるパターンを「ゴールから(先に決めて)仮説を立てる」やり方だというのは卓見である。
  8. 弓月 光 @h_yuzuki 3時間前
  1. 自分もキャラとしてならおっきなオッパイの女の子描く事はありますが、本来ちっとも趣味ではありません。形のいいソコソコのが好きですね〜〜(^ ^)
  1. 萌えキャラの変遷って「カワイイ」の追求によって変化してきたモノじゃないかなぁ^_^ その大きな輪の中に性的なアレがあるだけのような。
    1. 初音ミクを筆頭にペッタンコ萌えキャラも多いと思われますが(^ ^)


エゴイズムの文明と和の文明

メモだが、近代の西洋文明というのは、一言で言えばエゴイズム(個人主義)の肯定である。
それがなぜ、和の文明である日本よりはるかに高度な文明に達し、江戸末期に日本は危うく滅びかかったのか、という問題を考えてみたい。
その答えは、おそらく、「現状への不満の表明」つまり、現状への批判が許される(あるいは自然に表に出る)社会かどうかということではないかと思う。
和の文明では、不満の表明は不和の元として各自が腹の中に飲み込むことになる。したがって、社会の改善すべき点が表に出ることもなく、ずっと変わらないことになる。つまり、永遠の停滞だ。
これは日本のみならず、「尚古主義」である儒教思想が覆っていたアジア全体の特徴ではないか。
停滞のアジア、である。
政治的に言えば、悪政の根本原因を変えることなく、部分的な糊塗策だけでその場逃れをする政治が永遠に続くことになる。これが官僚主義の本質であることも言うまでもない。

もちろん、西洋文明でも不平不満の表明は軋轢を産み、弾圧され、場合によってはその不平不満の表明者は処刑される。しかし、個人主義が根本にある限り、恵まれない人々の不平不満の表明は抑えることはできなくなり、上と下の「政治的妥協」が行われることになる。それが社会福祉の増進などになるわけである。

私の尊皇論

私が尊皇主義者であることは別ブログで何回か書いているが、その理由を説明したことはあまり無い。なお、私の尊皇主義とは、天皇という存在、皇室という存在を日本の伝統的な「政治上の知恵」として尊重し、それをこれからの日本の政治に活かしていくべきだ、という趣旨である。
「天皇制」という言葉にはかなり色がついているのであまり使いたくはないが、制度としてなら、現在の「象徴天皇制」というのが私が好ましいと考える天皇制である。つまり、政治的な実権は持たず、国民統合の象徴としての存在であればいい、という考えだ。そのためには、天皇と皇室は国民に敬愛され尊敬される存在でなければならない。イギリス王室のようにスキャンダルまみれの皇室なら、国家や国民の象徴にするのも不愉快だろう。もちろん、過去の歴史には皇室や天皇のスキャンダルは山ほどある。古事記その他の古典に書かれた天皇やその一族の所業はむしろ汚物まみれであるとすら言える。(今上天皇は歴史上希に見る清潔で誠実な天皇であるが、それはご自身が日本国民統合の象徴であることを常に意識しているからだろう。それこそが、私の意味する尊皇主義の対象となるような天皇である。)
だが、いかに最悪の天皇の治世であっても、時の実権者が自ら天皇の地位に就こうとした例は非常に少ない。おそらく、大化の改新以前の蘇我氏(つまり超古代の話だ。)や、室町時代の足利義満くらいではないか。道鏡の場合は道鏡本人の意思といううより、彼を寵愛した何とか女帝の意思だったという見方が正しいようだ。蘇我氏や足利義満以外には、藤原氏も源頼朝も北條氏も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も政治の実権は握ったが、自ら天皇になろうとはしなかったのである。これは、彼らが非常に賢かったことを意味していると思う。つまり、「天皇というクッションを置くことによって、政治を安定させる」ということだ。別の言い方をすれば、天皇とは、「いざという時に大きな利用価値がある存在だ」ということだ。何しろ、天皇家の1500年(?)近い歴史は、それだけでも人々を畏怖させ畏敬させる力がある。政治的実権はなくとも、いわば「日本の生きた文化遺産」なのであり、それをゴミ箱に捨てるのは阿呆の所業である。
では、天皇制のデメリットは何か、と言えば、それは「天皇が政治的中心となり、政治的実権を握った場合に、政治の責任の中心が空白になる」ということだ。いわゆる「天皇無答責」論だ。
長くなるので、続きはまたいずれ書く。

なぜ山に登る馬鹿を救助する必要があるのか

私は登山経験がほとんど無く、人がなぜ山に登るのか、その心理も理解できないので、登山で遭難した連中を救うのに税金が使われる(と思うが、どうだろう。)のには不快感を感じている人間だ。
登山を趣味にする人間の気持ちが分からないのは私だけではないだろう。エベレスト登頂に成功したヒラリーに記者が「なぜ山に登るのですか」と聞いたのは、それがその当時の一般人の疑問だったからだろう。それに対して「そこに山があるからだ」と答えたのは名言扱いされているが、答えになっていない。まあ、自分でも「一言では答えにくい」と思ったから適当に答えたのだと思う。
で、山に登る時の心理として、「冒険を楽しむ」気持ちがあるのは確かだろう。自然の中に入ると様々な危険性がある。下手をしたら死ぬかもしれない。それでも山に登るのはその危険が面白いからであるはずだ。危険を克服した時、自分が大きくなったような気分になれるわけである。「おれは自然に勝った」くらいの気分ではないか。
で、下のような登山用アプリをスマホに入れれば、遭難時の安全性(救助の確実性)が確保されるとして、それは「遭難者を助ける」ことが今以上に多くなるということにならないか。いや、遭難者を助けるのが目的のアプリなのだろうから当然だが、無思慮無計画な登山者の遭難と、その救助が増えるのは社会の迷惑以外の何物でもない。これは生活保護などの「社会システムの不充実による貧困」への救助とはまったく異なる、馬鹿が馬鹿な行為をしたことを税金で助けることにならないか。
まあ、山で死ぬ奴は自分勝手にそういう羽目になるのだから放っとけ、という話だ。




さんがリツイート

改めて拡散お願いします。登山にGPSを活用するのが当たり前になれば未来の遭難者が減ります。道迷い遭難で亡くなる人、リスクを冒して救助する人の命を守りましょう。
何もしなければ今年もあと300人が道迷い遭難をし、そのうち何十人かは死にます。