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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

私の尊皇論

私が尊皇主義者であることは別ブログで何回か書いているが、その理由を説明したことはあまり無い。なお、私の尊皇主義とは、天皇という存在、皇室という存在を日本の伝統的な「政治上の知恵」として尊重し、それをこれからの日本の政治に活かしていくべきだ、という趣旨である。
「天皇制」という言葉にはかなり色がついているのであまり使いたくはないが、制度としてなら、現在の「象徴天皇制」というのが私が好ましいと考える天皇制である。つまり、政治的な実権は持たず、国民統合の象徴としての存在であればいい、という考えだ。そのためには、天皇と皇室は国民に敬愛され尊敬される存在でなければならない。イギリス王室のようにスキャンダルまみれの皇室なら、国家や国民の象徴にするのも不愉快だろう。もちろん、過去の歴史には皇室や天皇のスキャンダルは山ほどある。古事記その他の古典に書かれた天皇やその一族の所業はむしろ汚物まみれであるとすら言える。(今上天皇は歴史上希に見る清潔で誠実な天皇であるが、それはご自身が日本国民統合の象徴であることを常に意識しているからだろう。それこそが、私の意味する尊皇主義の対象となるような天皇である。)
だが、いかに最悪の天皇の治世であっても、時の実権者が自ら天皇の地位に就こうとした例は非常に少ない。おそらく、大化の改新以前の蘇我氏(つまり超古代の話だ。)や、室町時代の足利義満くらいではないか。道鏡の場合は道鏡本人の意思といううより、彼を寵愛した何とか女帝の意思だったという見方が正しいようだ。蘇我氏や足利義満以外には、藤原氏も源頼朝も北條氏も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も政治の実権は握ったが、自ら天皇になろうとはしなかったのである。これは、彼らが非常に賢かったことを意味していると思う。つまり、「天皇というクッションを置くことによって、政治を安定させる」ということだ。別の言い方をすれば、天皇とは、「いざという時に大きな利用価値がある存在だ」ということだ。何しろ、天皇家の1500年(?)近い歴史は、それだけでも人々を畏怖させ畏敬させる力がある。政治的実権はなくとも、いわば「日本の生きた文化遺産」なのであり、それをゴミ箱に捨てるのは阿呆の所業である。
では、天皇制のデメリットは何か、と言えば、それは「天皇が政治的中心となり、政治的実権を握った場合に、政治の責任の中心が空白になる」ということだ。いわゆる「天皇無答責」論だ。
長くなるので、続きはまたいずれ書く。
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