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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

流行の意味

私もこの種のジーンズが出始めてから今まで、まったくこれをお洒落と思ったことが無いのだが、頭が子供だからだろうwww
で、問題は、「お洒落だ」というのは何なのか、ということである。
私見を言うなら、「周囲(上層集団)と同じである」ことだろう。だから、「お洒落とは流行に従うことである」というのが一般的なお洒落哲学だとなる。もちろん、「小さな工夫」をすることで、「自分は流行に流されていない。自分は一段上のお洒落だ」というプライドを持ったりする。だが、事実は、周囲と同じ格好(流行が行き渡るまでのタイムラグはあるが)をしているにすぎない。
で、これは単なるファッション業界やその周辺の陰謀だというレベルの話ではなく、実際に、「統一性のあるものは美しく感じられる」という美学の定理の問題でもある。そうだから、ナチスの軍隊行進も北朝鮮のマスゲームも、あれを国家上層部は「美しい」と見做すわけだ。
全員が穴あきジーンズの集団の中だと、それ以外の服装の人は「異物」となり、美しさを破壊する因子として排除されるだろう。しかし、幼稚園児の制服に囲まれると、穴あきジーンズは非常に恥ずかしいものになるのである。





さんがリツイート

穴の開いたジーンズ履いて幼稚園に迎えに行ったら、会う子ども会う子どもに「なんであなあいてんの?!」と指を突っ込まれ、「お、おしゃれだと思ったから...」とダサすぎる説明をせざるを得ず、もう二度と履いていくまいと思いました。



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コレスポンダンス


「家を花で飾る者は、その心を花で飾る」


上の言葉は、西洋のことわざか格言らしい。山田太一の随筆で知った。
単純だが、深い言葉だと思う。我々が花を見る時、その心の中にも花がある。「深淵を見るものは深淵に見返される」のと同じである。つまり、万物は照応している。

子供の内面での「主観」から「客観」への変換




ここで、「息子」がなぜ泣き止んだかが面白い。
おそらく、嘘無きをしてみせたお姉さんの姿を見て、自分が泣いている姿の醜さを鏡で見せられたように自覚したのだと思う。つまり、自分自身の客観視という、幼児にとっては大きな視点変換が起こったのだ。これは、この場だけのことではなく、これから先も、この子供は人前であまり泣くことはしなくなるだろう。偉大な教育である。



さんがリツイート

レストランで息子泣きだし焦る

隣の席のお姉さん「かわいい君に涙は似合わないぞ!」

息子泣き止まない

お姉さん「じゃあハイタッチしよう!」

息子泣き止まない

お姉さん「じゃあ泣きっこ競争しよう!」

先攻 お姉さん「ゔああぁぁぇぅええぇぇぶあぁぇぇえん」

息子泣き止む

感謝しかない。




飛べない豚たち

私自身は、性というものは秘匿されることで魅力を生じるという、「秘すれば花」主義者なので、このブログでは性的解放や恋愛病に批判的だが、行政というものが性的なものを過度に恐れることは興味深いと思っている。昭和の頃に、猥褻物の一般公開を行政があれほど厳しく取り締まっていた理由が、いまだに分からない。まあ、「表現の自由」を拡大すれば、それは必ず行政批判の拡大にもなる、という危惧だろう、とは思う。
もうひとつは、性においては社会的な権威が通用しなくなる、という「恐怖感」も性の抑圧の奥底にあるのかもしれない。飛べない豚はただの豚だ、という「紅の豚」の科白ではないが、立たない男はただのインポ(たいていは醜い老人)だ、というのはその男がどんな偉い人でも同じである。つまり、総理大臣でも高級官僚でも、17歳のアホなガキに劣るわけである。



さんがリツイート

海外ほのぼのニュース
1年間道路に穴があいたまま放置→誰かが穴の周囲にチンコの落書き→数日後に自治体は落書きを消して穴も埋める→地元住民「ちんこの力」と落書きを称賛→めでたしめでたし





Iとは何でしょう

「恋とは何でしょう」は、古いジャズのスタンダードナンバーだが、「私とは何か」というのは大昔からの哲学の根本的問題だ。だからこそ、ソクラテスは「汝自身を知れ」を一生の課題とした。
下のツィートの「自己を啓発してしまったら、自我は置いてけぼりになる」は、分かるような分からないような難しい言葉だが、重要にも思えるのでメモした。
つまり、啓発した後の自分は啓発される前の自分とは別人であり、すると、そこには一貫した自我というのは無い、ということだろうか。確かに、「昨日カネを借りた俺と今日の俺は別人だから、カネは返さない」と言われたら困るだろうwww 
まあ、冗談はともかく、自己啓発というのがはたしていいことなのか、疑問に思うことも悪くないかもしれない。たとえば、自己啓発の結果、自分がこれまで満足していた周辺世界に不満になり、周囲の存在を憎みだした毛虫や、自分自身が毛虫であることに絶望した毛虫がいたら、それは幸福な毛虫なのかどうか。






自己啓発にハマるのは、「オレはもっとできるはずだ」という思い込み(ないしは脅迫)に沿って自己を更新し続けている人間だと思うのだが、仮にそんなことが可能なのだとしても、できるのは一生のうちのほんの短い期間だけだ。
というよりも、自己を啓発してしまったら、自我は置いてけぼりになる。