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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

人情を基盤とする人間関係と利害を基盤とする人間関係

電話の話は別として、人間関係を利害関係として捉える人間はけっこういると思う。現代ではそのほうがむしろ大多数かもしれない。
そういう人間が存在する、というのは、私は大学進学で都会に行ってはじめて知った。まあ、田舎者で精神的に子供だったためだが、それまで、人間関係を利害関係として考えたことは無かったのである。たとえば、大学の友人や先輩から講義ノートを借りるなどの行為である。私は、自分の利益のために平気で他人を利用する人間を初めて見てショックを受け、しかもそういう人間がむしろそこでは普通であること、利用される人間も平気でそれに協力すること(つまり、自分の努力で成績を上げるのではなく、他者の利用で効率的に成績を上げる行為に協力すること)が、非常に不道徳な感じがして耐え難い思いをした。
夏目漱石は『三四郎』で、主人公の三四郎を田舎者として描いているが、その「田舎者」の精神は、やはりどうしても都会人である漱石の空想の産物であり、こうした「功利主義的な人間関係」が都会人の特徴のひとつであることは理解していなかったと思う。いや、田舎者にも欲深な人間もエゴイストも悪どい人間も無数にいるが、基本的には、狭い社会では素朴な情愛から人間関係は営まれると思う。まあ、田舎者の鈍重な思考形態が嫌だ、という人間も田舎にもいるだろうが、お互いを気軽に利用し利用されるという都会的な交際というのは、やはり今でもどこかおかしなものに思える。これはモリエールの『人間嫌い』の主人公の心情に近いかもしれない。




電話によるやりとりの非効率さを攻撃している人たちは、そもそも人間と人間のコミュニケーションが時間と労力の浪費だという基本的な認識を欠いている。彼らはコミュニケーションという動作を、カネと情報と人脈を生み出す資産形成の一過程だぐらいに思っている。つまり強欲なのだね。




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