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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

幸福な病気

「嵐が丘」のE・ブロンテは自宅以外の世界、特に男の世界を知らず、キャシーに失恋したヒースクリフが外国に行って成功し、資産家になって帰ってくる、その仕事内容とかも想像できないからまったく書いてない、という話があるが、社会的知識がゼロに近くても、あれだけの傑作小説が書けるというのが面白い。つまり、主テーマが「人間の精神」であれば、想像だけでかなりな部分が書けるわけである。逆にそのほうが「感情量」が巨大だから読む人の心を打つのだろう。
現実のE・ブロンテは恋愛経験もほとんど無かったと何かで読んだ記憶があるが、女性にとって恋愛とは現実(の男性との接触)以前に存在する「確かな存在」なのではないか。もちろん、父親や兄弟から「男とはこういうものだ」という手がかりは得ていても、それ自体は恋愛の対象ではなく、何か「理想化」されたものが追加されるわけだ。まあ、中世騎士物語など、過去の古典的「恋愛礼賛」文献がそこに一役買っていたと思う。
恋愛とは病気である、精神病である、というのが私の説だが、まあ、風邪やはしかのような「流行性」の病気でもあり、周囲の人間(読んだ漫画や小説や映画も含む)が恋愛病にかかっていると、自分もかかるのが当然だ、という心理になるわけである。言い換えれば、恋愛という概念が生じて広まったために恋愛病が猛威を振るうようになったわけだ。封建時代の農民など、恋愛も糞もなく、親の決めた相手と結婚してどちらかが死ぬまでは一緒に暮らしたのが普通だろう。相手をべつに「愛している」のかどうかも考えたこともなかったと思う。概念が無ければ思考は生じない。
ただ、私は恋愛を否定しているわけではない。ある意味では「幸福な病気」だと思っている。恋愛感情を持つことで、異常な精神的高揚を得ることは誰でも知っていることで、それは酒や麻薬を使用するのと同じことであり、酒や麻薬より安価である。だが、その危険性は酒以上であり、あるいは麻薬以上かもしれない。周囲の人間の手によって治癒できない、という点では普通の病気より厄介だ。そして自分自身の手でも治療は難しい。幸い、相手の拒否によって自然治癒するwww
失恋によってのみ治癒されるのが恋愛という病だが、その失恋の後遺症を一生抱える人間もおり、実は、その失恋という体験すら「甘美な、捏造された記憶体験」であったりする。
まあ、要するに、恋愛というのは実に面白い「妄想」なのである。
そういう「精神病」を実は健常者も時折経験しながら生きている。これに関しては、完全な健常者、つまり病気にならない「理性的」な人間がより幸福だとも言えない。



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「正義を疑え」など、思索家には大昔からの常識だが

最近は、こうした「正義を疑う」発言が大流行りで、少々うんざりしている。悪人にとっては望ましい傾向だろう。彼を非難したら、「それはお前の正義であり、お前の主観だろう」で口封じができるわけだから。そして、こうした「正義を疑う」発言は、たいてい権力擁護者、つまり現体制から利益を得ている人間やその関係者から発せられやすい気がする。



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自分は正しいと思ってる人がいつも加害者になる。どこまでも残虐になれる。身に付いた正しさを捨てて生きたい




恩返しと復讐

この発想は面白い。我々は言葉に騙されて、「恩返し」をしたら、恩は返された、つまり相手への心理的負債(これは漱石の「坊ちゃん」の中の山嵐と坊ちゃんのエピソードから、恩とは心理的負債であると分かる。)はそれで清算されたと思うのだが、実は、恩を受けたという事実は変わってはいない。従って、恩を返すことは不可能であり、ただ謝するのみだ、というのは正しい思想だと思う。
と同時に、「仇を返す」ことも不可能だとなるだろう。「敵討ち」をすれば、その時には一種の爽快感もあるだろうが、その敵討ち自体が「他者への危害」であるのだから、良い行為であるはずはない。相手に危害を受けたという事実は、復讐によって消えることはない。単に心理的負債の清算の問題だとしても、相手に受けた危害の事実は変わらず、その上、相手に危害を加えたという自責の念が加算されるだけであるわけだ。
まあ、そうは言っても、我々凡人は「復讐は何も生まない」と達観はできず、復讐の快感を選ぶだろう。




さんがリツイート

恩は返せるものではない ただ謝するのみである

人情を基盤とする人間関係と利害を基盤とする人間関係

電話の話は別として、人間関係を利害関係として捉える人間はけっこういると思う。現代ではそのほうがむしろ大多数かもしれない。
そういう人間が存在する、というのは、私は大学進学で都会に行ってはじめて知った。まあ、田舎者で精神的に子供だったためだが、それまで、人間関係を利害関係として考えたことは無かったのである。たとえば、大学の友人や先輩から講義ノートを借りるなどの行為である。私は、自分の利益のために平気で他人を利用する人間を初めて見てショックを受け、しかもそういう人間がむしろそこでは普通であること、利用される人間も平気でそれに協力すること(つまり、自分の努力で成績を上げるのではなく、他者の利用で効率的に成績を上げる行為に協力すること)が、非常に不道徳な感じがして耐え難い思いをした。
夏目漱石は『三四郎』で、主人公の三四郎を田舎者として描いているが、その「田舎者」の精神は、やはりどうしても都会人である漱石の空想の産物であり、こうした「功利主義的な人間関係」が都会人の特徴のひとつであることは理解していなかったと思う。いや、田舎者にも欲深な人間もエゴイストも悪どい人間も無数にいるが、基本的には、狭い社会では素朴な情愛から人間関係は営まれると思う。まあ、田舎者の鈍重な思考形態が嫌だ、という人間も田舎にもいるだろうが、お互いを気軽に利用し利用されるという都会的な交際というのは、やはり今でもどこかおかしなものに思える。これはモリエールの『人間嫌い』の主人公の心情に近いかもしれない。




電話によるやりとりの非効率さを攻撃している人たちは、そもそも人間と人間のコミュニケーションが時間と労力の浪費だという基本的な認識を欠いている。彼らはコミュニケーションという動作を、カネと情報と人脈を生み出す資産形成の一過程だぐらいに思っている。つまり強欲なのだね。




有名人は家庭を作らないほうがいい

「谷間の百合」記事の一節である。
これはなかなかの卓見かもしれない。
私は、結婚という制度に肯定的だが、社会的に影響力の強い仕事をしている人間は、家庭がかえって足かせになるのではないか。
今の時代、家庭が無いと不便なことはほとんど無いのであり、家庭よりも「秘書」か「マネージャー」のような存在のほうが有意義だろう。セックス相手が欲しければカネで買えばいいし、こちらが有名人なら相手の方から体を提供するだろう。有名人はなまじ家庭を持つと面倒が多すぎる。自分の作った財産を子供に残したいというのは封建時代の思考であり、現代ではほとんど無意味だろう。それどころか、自分の子供だけを特別視するところから、多くの社会的害悪も生まれている。上級国民の馬鹿息子などがその最たるものだ。


(以下引用)


家庭を持つ=社会的信用という通念がありますが、わたしは、公の仕事一筋で生きる人は子どもはつくらないほうがいいのではないかと思います。
大女優と言われている人の多くは子どもがいませんが、わたしはそれが正解だと思っています。
子どもを持ったばかりに苦労の絶えない女優さんもいて同情を禁じ得ませんが、有名税と言ってしまうにはあまりにも不条理なものを感じます。