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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

刑事司法制度の根本

まあ、弁護士側の言うのも理解はできるが、被害者遺族などから弁護士が憎悪されても当然だろうな、と思う。そういう因果な商売だから米国などでは高い報酬を得ているのだろう。
何か、これを改善する方法は無いのだろうか。本当に、「それをしなければ刑事司法制度が崩壊する」のか、その根本をもう一度考える価値はあると思う。

なお、私は、殺人事件に関しては、その遺族には殺人犯を許す権利は無い、と思っている。許す権利があるのは、死んだ被害者だけだろう。だが死人が意見を言えるはずがない。遺族がその代弁をするのも不可能だ。では、どう裁けばいいか。「犯した罪に等しい罰を与える」でいい。
つまり、殺人には死刑判決以外は不要だという考えだ。では、殺された人間が殺されても仕方が無いような悪行を積み重ねたとんでもない悪党だったらどうか、と言えば、それでも殺害者は死刑にすべきだと思う。
要するに、「目には目をもて償い、歯には歯をもて償う」という最古の(かどうかは知らないが)法律こそが一番正しいという意見である。
法律がまともに機能していれば、誰かがその悪党を殺す前に、その悪党は法で正しく裁かれており、殺す必要性もないはずであり、それを殺すのは、「罪に相当しない罰」を勝手に与えていることになるわけだ。




さんがリツイート

素朴な感情としては理解できるんですよ。このような凶悪犯罪を許せないという気持ちはおそらく全ての弁護士にあります。
でも、刑事弁護人としての矜持があるので、被疑者被告人を全力で弁護するんですよ。それをしなければ刑事司法制度が崩壊するからです。



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男のマロンwww




女性というのは、料理というと何か大げさなものしか料理と言わないと考えているようだが、野菜を切って塩か何かをかけるだけでも料理だ、と男の私は思っている。下手に手を加えないほうが素材そのものの味が生かせるものである。ただ、たとえば刺身をきれいに切るだけでも実は修練が要る。
まあ、それはともかく、台所に2人も人がいて料理をしたら危ないのではないか。台所では刃物も使うし火も使う。洗い物をしていると割れ物も出る。そんな場所である。自分だけの行動ならコントロールできるが、他人の行動の予測はつかない。プロの調理人でもないかぎり、同じ場所で複数の人間が働くのは危険だろう。いや、プロでも危険だ。ただ、訓練されているだけのことだ。台所で男女がいちゃいちゃしながら料理をする、というのは料理を甘く見すぎているのではないか。そんなのは漫画か何かだけの世界だ。

なお、日本の男は自分で家事をやるということへの抵抗が強すぎ、だから女性に家事負担を押し付ける。そしてそれが日本の美風だと威張ったりする。下のスレッドは女も男も、どっちもどっちである。

(以下引用)



私が料理してると夫が「何か手伝おうか?」って聞いてくれた。私「じゃぁお願い」夫(えっ)

コメント(0)

何を書いても構いませんので@生活板77

309: 名無しさん@おーぷん 19/07/11(木)19:20:19 ID:Vih.fs.5j

そういえば、新婚の頃、私が料理をしていると
「何か手伝おうか?」って聞いてくれるから
ありがとう!じゃあry
って何事か頼むと、えって顔されたの思い出すわ。

そのうち、そういうこと言われなくなって忘れたころ

明石家さんまの番組かなんかで、
彼女が家に来て料理をしてくれているとき
「手伝おうか?」
「ううん、いいよー、テレビ見て待ってて☆」
って、会話いいよな!と、男芸人たちが盛り上がってて
あー、男のマロンってそれかぁ!
と気づいたわ。

正直、イチャイチャ一緒にお料理☆的なのにあこがれてたんだけど
考えたらこれ、女のロマンなんだろうな・・・

 

310: 名無しさん@おーぷん 19/07/11(木)19:22:29 ID:veA.9r.gl

>>309

男のマロンて…








恋愛の美と花火の美

昨夜というか、もう今日になっている深夜にネットテレビで「ジェニーの肖像」という古い洋画を見たのだが、見て良かったと思う作品のひとつである。
第二次大戦の少し前に作られた作品だと思うが、今ならタイムリープ物のSFロマンス映画として制作されるタイプの映画だろう。このころはSFよりは幻想的ファンタジー映画(ファンタジーそのものが幻想を意味するのだが、実は描写はリアリズムのファンタジー映画もあるので、こういう妙な言い方をした。)として作られたようだ。つまり、作中の現象に「科学的」説明はなく、ただ、なぜか突然そういう超常現象が起こり、そこに悲劇的な恋愛が生まれた、という描き方だ。
ヒロインのジェニーを演じたのがジェニファー・ジョーンズで、そのヒロインが10歳くらい、15歳くらい、18歳くらい、22歳くらいという年齢で主人公の画家(ジョセフ・コットン)の前に現れ、主人公は彼女に恋をする、という話である。繰り返し流れるドビュッシーの曲が、この話の雰囲気によく合っている。
クラシック曲というのは、こういうタイムリープ物のロマンス映画によく似合っている。正確な題名は忘れたが、クリストファー・リーブ(「リーブス」だったか)が主演した、「いつかどこかで」とか言ったSFラブロマンスもラフマニノフの曲が実にぴったり合った、いい作品だった。

私は「恋愛は期間限定精神病だ」という説の持ち主だが、芸術的には恋愛というのは素晴らしい題材であることは確かである。その美しさは、実は恋愛が「永遠ではない」という点にあるのではないか。はかないからこそ美しい、という点で、花火の美しさに似ている。
恋愛がタイムリープ物のSFと相性がいいのもそのためだろう。「時を駆ける少女」が、作者が思いがけないほど読者の支持を得て、何度も映画化されたのも、タイムリープということ自体が恋愛のはかなさをいっそう際立たせ、だからこそいっそう美しく思わせるわけだ。「たんぽぽ娘」がSF短編小説の中の傑作のひとつとなったのも、恋愛とタイムリープの重ね合わせの効果だろう。

人間環境と笑いのレベル

タモリも松本人志(私はこいつの下劣な人間性が大嫌いなのだが)も、「クラスのお調子者だった人間は(芸人としては)面白くない」と言っているが、「クラスのコメディアン」的ポジションというのは、クラス内でそれを許容する空気が形成されているだけのこと(当人なりの努力の結果ではあるだろうから、そういう努力もしてこなかった陰キャラよりは偉いわけだが)で、その言動自体に高いユーモアセンスがあるわけではない。周囲の人間は「付き合いで笑っている」だけで、それをその場に無関係の第三者が見たり聞いたりしたら、その冗談のつまらなさは呆れるほどなのだが、では「陰キャラ」が面白いことを言ったら周囲は笑うか、と言えば、絶対に笑わないだろう。つまり「笑うための空気」が形成されていない状態では笑えないのである。
何度も何度も「滑って」いるうちに、「ああ、こいつは『コメディアン』的な奴なのだ」と周囲が理解し、受け入れるわけである。つまり、最初から笑う準備をしてその人物の言動を見るから、笑いのハードルが低くなる。
米国人が初対面の相手に対してもジョークを言うのは、「自分には害意はない」ことを伝えることで、その後の関係が良好になるからである。そのジョークが面白いか低レベルなものかは関係がない。むしろ高度なジョークは理解力の無い人間からは「(それが理解できない)自分を馬鹿にしている」と思われる可能性すらある。周りの知能や教養のレベルに合った人間がそのコミュニティでは受け入れられる。(他人を尊敬する、ということは、「自分が劣っている」ことを認めることだから、自我の肥大した現代の人間には苦痛な行為なのである。)




16: 名無し 2019/07/04(木) 13:55:21.71 ID:WH7tphTXp
陽キャは周りが内輪ネタ身内ネタで笑ってくれるからハードル低いんだよな
そのノリで芸人とかになったらそら売れんよ


19: 名無し 2019/07/04(木) 13:55:44.27 ID:xV+Hsjyra
陰陽どちらにしろ自分が面白いと勘違いしてるやつのつまらなさは異常



漢字の成り立ちから社会の原則を考える

漢字の成り立ちというのは面白くて、今でも通じる知恵が含まれているように思う。
たとえば、「武」という字の中に「止」という字が含まれているのは示唆的である。上の部分が「鉾」を表し、「鉾を止める」意であるらしい。つまり、最初から、「暴力を止める」ことが「武」の意味だったわけで、暴力をふるうことが「武」ではない。
とすれば、憲法9条や自衛隊本来の専守防衛こそが「武の心」の神髄だと言えるのではないか。

なお、「政治」の「政」の字に「正」が含まれているのは、政治は正しく行われねばならない、という当然のことを示している。昔の人も「政は正なり」と言っている。しかし、「政」の右側は「文」であると同時に「鞭」でもあるらしい。政治は人民の教化と、法令や警察による強制力を伴うことが示されているように思う。
「治」はなぜサンズイの右に「台」があるのか、と言えば、台とは高い建物や高貴さを象徴するもので、この場合はサンズイは水害などの自然災害を表し、高い台に住む高貴な人が水害などから人民を救う、という意味ではないかと思う。