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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

恋愛の美と花火の美

昨夜というか、もう今日になっている深夜にネットテレビで「ジェニーの肖像」という古い洋画を見たのだが、見て良かったと思う作品のひとつである。
第二次大戦の少し前に作られた作品だと思うが、今ならタイムリープ物のSFロマンス映画として制作されるタイプの映画だろう。このころはSFよりは幻想的ファンタジー映画(ファンタジーそのものが幻想を意味するのだが、実は描写はリアリズムのファンタジー映画もあるので、こういう妙な言い方をした。)として作られたようだ。つまり、作中の現象に「科学的」説明はなく、ただ、なぜか突然そういう超常現象が起こり、そこに悲劇的な恋愛が生まれた、という描き方だ。
ヒロインのジェニーを演じたのがジェニファー・ジョーンズで、そのヒロインが10歳くらい、15歳くらい、18歳くらい、22歳くらいという年齢で主人公の画家(ジョセフ・コットン)の前に現れ、主人公は彼女に恋をする、という話である。繰り返し流れるドビュッシーの曲が、この話の雰囲気によく合っている。
クラシック曲というのは、こういうタイムリープ物のロマンス映画によく似合っている。正確な題名は忘れたが、クリストファー・リーブ(「リーブス」だったか)が主演した、「いつかどこかで」とか言ったSFラブロマンスもラフマニノフの曲が実にぴったり合った、いい作品だった。

私は「恋愛は期間限定精神病だ」という説の持ち主だが、芸術的には恋愛というのは素晴らしい題材であることは確かである。その美しさは、実は恋愛が「永遠ではない」という点にあるのではないか。はかないからこそ美しい、という点で、花火の美しさに似ている。
恋愛がタイムリープ物のSFと相性がいいのもそのためだろう。「時を駆ける少女」が、作者が思いがけないほど読者の支持を得て、何度も映画化されたのも、タイムリープということ自体が恋愛のはかなさをいっそう際立たせ、だからこそいっそう美しく思わせるわけだ。「たんぽぽ娘」がSF短編小説の中の傑作のひとつとなったのも、恋愛とタイムリープの重ね合わせの効果だろう。
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人間環境と笑いのレベル

タモリも松本人志(私はこいつの下劣な人間性が大嫌いなのだが)も、「クラスのお調子者だった人間は(芸人としては)面白くない」と言っているが、「クラスのコメディアン」的ポジションというのは、クラス内でそれを許容する空気が形成されているだけのこと(当人なりの努力の結果ではあるだろうから、そういう努力もしてこなかった陰キャラよりは偉いわけだが)で、その言動自体に高いユーモアセンスがあるわけではない。周囲の人間は「付き合いで笑っている」だけで、それをその場に無関係の第三者が見たり聞いたりしたら、その冗談のつまらなさは呆れるほどなのだが、では「陰キャラ」が面白いことを言ったら周囲は笑うか、と言えば、絶対に笑わないだろう。つまり「笑うための空気」が形成されていない状態では笑えないのである。
何度も何度も「滑って」いるうちに、「ああ、こいつは『コメディアン』的な奴なのだ」と周囲が理解し、受け入れるわけである。つまり、最初から笑う準備をしてその人物の言動を見るから、笑いのハードルが低くなる。
米国人が初対面の相手に対してもジョークを言うのは、「自分には害意はない」ことを伝えることで、その後の関係が良好になるからである。そのジョークが面白いか低レベルなものかは関係がない。むしろ高度なジョークは理解力の無い人間からは「(それが理解できない)自分を馬鹿にしている」と思われる可能性すらある。周りの知能や教養のレベルに合った人間がそのコミュニティでは受け入れられる。(他人を尊敬する、ということは、「自分が劣っている」ことを認めることだから、自我の肥大した現代の人間には苦痛な行為なのである。)




16: 名無し 2019/07/04(木) 13:55:21.71 ID:WH7tphTXp
陽キャは周りが内輪ネタ身内ネタで笑ってくれるからハードル低いんだよな
そのノリで芸人とかになったらそら売れんよ


19: 名無し 2019/07/04(木) 13:55:44.27 ID:xV+Hsjyra
陰陽どちらにしろ自分が面白いと勘違いしてるやつのつまらなさは異常



漢字の成り立ちから社会の原則を考える

漢字の成り立ちというのは面白くて、今でも通じる知恵が含まれているように思う。
たとえば、「武」という字の中に「止」という字が含まれているのは示唆的である。上の部分が「鉾」を表し、「鉾を止める」意であるらしい。つまり、最初から、「暴力を止める」ことが「武」の意味だったわけで、暴力をふるうことが「武」ではない。
とすれば、憲法9条や自衛隊本来の専守防衛こそが「武の心」の神髄だと言えるのではないか。

なお、「政治」の「政」の字に「正」が含まれているのは、政治は正しく行われねばならない、という当然のことを示している。昔の人も「政は正なり」と言っている。しかし、「政」の右側は「文」であると同時に「鞭」でもあるらしい。政治は人民の教化と、法令や警察による強制力を伴うことが示されているように思う。
「治」はなぜサンズイの右に「台」があるのか、と言えば、台とは高い建物や高貴さを象徴するもので、この場合はサンズイは水害などの自然災害を表し、高い台に住む高貴な人が水害などから人民を救う、という意味ではないかと思う。

小林秀雄の文章とレトリック

小林秀雄の評論を、私は「詩人による論文」だと思っていて、それは時には、凡人には思いつかない素晴らしい「未知の世界を理解する鍵」を与えてくれるが、その表現自体は難解なレトリックの連続であって、私などは、書かれた半分も理解している自信はない。そして、その言っていることがすべて素晴らしいわけでもなく、深遠であるわけでもなく、レトリックのためのレトリックに堕している場合が多いという印象がある。

ここで、レトリックとは何かを小林秀雄的なレトリックで言えば、「通常の会話や通常の文章が歩行であるとすれば、レトリックとは言葉の舞踏である」と定義できるだろう。
そして、舞踏の例に漏れず、失敗したレトリックは地面に転倒したりする等の無様な姿をさらすのである。
次の文は小林秀雄の「様々な意匠」からの引用である。

「『大衆文芸』とは人間の娯楽を取り扱う文学ではない、人間の娯楽として取り扱かはれる文学である。」

上手の手から水が漏れたというべきだろう。どこの世界に「大衆文芸」を「人間の娯楽を取り扱う文学」と考える馬鹿がいるだろうか。ならば、人々は推理小説を「殺人という『娯楽』を取り扱う文学」と考えている、とでもなるのか。
これは、小林秀雄お得意の、「世間の馬鹿(偉い人間や著名作家や著名評論家も含む。)はこう考えているだろうが、それは間違いであり、本当はこれが真実だ」という、「対比法」による自分持ち上げのレトリックである。
基本的に小林秀雄の文章は、「説明抜きの断定」の連続であるから、読者の側はその断定の正当性を、自分の頭を悩ませて考えて納得しなければならない。しかし、人間の脳というのは外界の理解しがたい事柄を勝手に合理化する性質があるから、小林秀雄の断定にもほとんど合理的な解釈をつけて先に読み進めることになる。そして、合理的な解釈ができたら、自分が賢くなったようで嬉しいから、小林秀雄の「示唆」を価値あるものだったと思うわけである。
と、憎まれ口を叩いたが、小林秀雄の書いた文章の中には、本当に貴重な言葉がかなりあるので、特に若い人は読む価値のある作家(評論家)なのである。まあ、9割までは詩人の譫言と思えばいいが、中には高価な宝石もたくさんあるわけだ。




リアリズムの仮面を被った感傷癖

筑摩書房「現代日本文学大系」の「小林秀雄集」のパンフレットに松原新一という評論家が寄稿した「小林秀雄氏に学んだこと」の中に面白い言葉がある。それは、

「リアリズムの仮面を被った感傷癖」

という言葉だ。
これが小林秀雄の言葉の引用かどうかは定かでないが、小林秀雄がリアリズム思想の持つ欠陥をその詩人的体質から鋭く見抜いて批判していることは確かだろう。
「リアリズムの仮面を被った感傷癖」というのは、それ自体の説明はそこ(松原新一の文章)では書かれていないが、おそらく、「リアリズムは人生における感傷性の持つ非理性性を指弾するあまり、感傷性の豊富な宝をすべて否定するという、非理性的態度(感傷的態度)に堕している」ということではないかと思う。
その例示を小林秀雄自身の文章から摘出してみる。オスワルドは芝居の登場人物だろう。

「ゾラはオスワルドに言ふ。『舞台どころではないぞ、さっさと下り給へ、君には親父の遺伝がある』。イプセンが、やって来る。『成る程廃人だ、もう口も利き度くはあるまい、だが、もう一つぺん出てみるんだな、台詞は何んとか工夫しよう』」(「ヘッダ・ガブラー」より)


要するに、リアリズムとは現実の合理的集約の思想であり、集約の常に漏れず、常に多くの細部を取り落としていくわけである。思索という行為そのものが現実の捨象による抽象作業なのであるから、それがリアリズムを旗頭にしたら、どれほど多くの粗漏が生じるか、明白だろう。
ついでに言えば、私は自然主義文学が大嫌いなので読まないままで言うが、自然主義文学のリアリズムとは、要するに、現実の汚い部分醜い部分を主に取り上げることから来る「現実的だ」という錯覚を利用した印象操作にすぎないのではないか。