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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

浄土教の本質とは何か

別ブログに載せた記事だが、重要性が高いと思うので、ここにも載せておく。
何度も読み直し考察すべき文章だろう。

(以下自己引用)

守中高明氏の「革命的」浄土宗論

これも同じく「中外日報」の記事だが、凄い「浄土宗論」である。私は浄土宗を単なる「厭離穢土欣求浄土」の空想的宗教と思っていたが、この浄土宗論は実に革命的な現実変革の思想ではないか。
この小論の中には「神概念」についてのスピノザの思想の簡明な説明もあり、それが、私が以前に考えた「神とは何か」という考えに少し近い気もする。つまり、神とは人間の外部に在る超越的存在ではなく、人間の中に、あるいは自然物のすべてに内在する力だ、という思想だ。「山川草木悉皆成仏」であり、日本古来の「八百万の神」であり、あなたも私も神なのである。いや、「神性」を持つ存在なのだ。
もしそうだとすれば、「南無阿弥陀仏」という「称名念仏」つまり仏の名を呼び、念じることは、あらゆる存在の中の神性を強く確認する作業だ、と言えるのではないか。(「南無」は「至高の」の意味だと聞いた記憶がある。)そうだとすれば、他者を(自然物含め)破壊し傷つける行為や発言は、すべて「阿弥陀仏」に反する行為(慈悲の心の欠如や無視)だと言えるのではないだろうか。もちろん、「称名念仏」は神仏への賛歌であり、別に浄土宗徒だけの特権でもないだろう。要は、この宇宙の原理を理解し、生活に反映して生きることにあるわけだ。


(以下引用)まだ熟読していないが、とりあえず保存する。

阿弥陀仏、あるいは超越なき生成の力(1/2ページ)

早稲田大法学学術院教授 守中高明氏

2022年1月17日 09時19分
もりなか・たかあき氏=1960年生まれ。早稲田大法学学術院教授。浄土宗専念寺住職。著書に『浄土の哲学 念仏・衆生・大慈悲心』(河出書房新社、2021年)、『他力の哲学 赦し・ほどこし・往生』(同、19年)など多数。

法然・親鸞・一遍へと受け継がれ、深化し徹底化されていった日本中世浄土教――その思考と〈信〉を現代社会において真に実効性をもつ変革の力として甦らせるために、私たちはなにを考えるべきか。


現代の日本社会における浄土教についての一般的理解がどのようなものであるかは、容易にまとめることができる。浄土教とは西方極楽浄土への「往生」を説く大乗仏教の一形態であり、死後にこの現実世界とは隔絶した彼岸に往き生まれることを教えの中心とし、そのための手段として念仏を位置づけ、それを称える人間を阿弥陀仏という同じく現実世界には不在の超越的存在が摂取しその慈悲深い心で浄福を授けてくれると考える、そんな宗教であるというのが広く共有されている図式であるだろう。今日の世俗化社会にあって、それは端的に神話的世界観の表現であり、それを前にして問われるのはその非―現実的な物語を信ずるか信じないかという選択だけであると言ってよい。


だが、そのような理解に立つとき、私たちは浄土の教えをたんなる精神的ないし心的領域における救済論に矮小化することになる。なぜなら、そのとき私たちは近代的な理性の範疇と前近代的な説話の範疇とを区別したうえで、後者をそれが想像界にもたらす平安と慰めにおいてのみ肯定し顕揚していることになるからだ。そして、なるほど現代社会が宗教を許容するのは、その効果が精神的―想像的なものであるかぎりにおいてだと言える。すなわち、宗教が現実的な力をもつことは現代市民社会において望ましいことではなく、宗教者の側がその教えをみずから無力化することと社会の側がその教えの無力さを前提とすることが共犯関係にあり、その帰結として宗教の無害な安全圏への囲い込みが生じているというのが今日の状況である。宗教が現実的な力をもつとき、それは――宗教的原理主義に対する社会の警戒に現れているように――危険だと見なされるのである。


しかし私たちは、このような区別、このような境界画定に甘んじていてよいのか。否、法然が「凡夫」往生を約束したとき、親鸞が「屠沽の下類」との連帯を宣言したとき、そして一遍が「他力称名に帰しぬれば、自他彼此の人我なし」と断言したとき、それらの言葉が社会の現実を見据えたものであり、そのヒエラルキーや差別や搾取の諸構造を打破する根本的変革の意志に貫かれていたことを忘れるべきではない。この偉大な宗教家たちにとって、その〈信〉は社会秩序とその常識、その規範化する通念に抗う闘い以外のものではなかった。だが、そうだとすれば、現代の私たちが打破すべき常識・通念はどこにあり、どのような構造をしているか。


超越への欲望とそれに起因する人間中心主義を解体すること――最重要の賭札はそこにある。そして、浄土教におけるその具体的課題は、なによりもまず阿弥陀仏を超越的〈一者〉と見なす通念的理解を突き崩すことに存する。実際、阿弥陀仏を西方十万億土の彼岸にいる存在、それもキリスト教における人格神イエスと同じような唯一の超越者と見なし、それを人間的形姿によって表象することは、今日最も広く行われており、教団としての浄土宗における公的教義さえもそのような理解を支持している。しかし、これは完全な誤謬、しかも日本浄土教をキリスト教と同じ一神教的構造をもつと人々に誤解させその教えを神話的物語に縮減する点で、きわめて大きな弊害をもたらす根本的に誤った認識である。


阿弥陀仏とはなにか。言うまでもなくそれは「無量寿」「無量光」という本来的に物質性を一切もたない「法身」であり、衆生済度のために時と場所に「応」じて仮の身体となって現れる「応身」、さらに仏となるための果てしない修行を積んだ結果「報」れて現れる「報身」とは、いずれも衆生の理解を容易にするための方便に過ぎない。この点を明確化すべく錬成されたのが、法然・親鸞・一遍における「自然(じねん)」概念である。


「自然」とはなにか。それはスピノザが「神あるいは自然(しぜん)」というテーゼにおいて示した「能産的自然」にきわめて近いなにかである。すなわちキリスト教における神が、最高度の知性と自由な意志においてあらゆる産出の選択を可能性としてもつ超越者であるとすれば、スピノザ的「神」はまったく反対に、事物のそれぞれに変様し、様態化する「内在的原因」であり、それはあらゆるものを必然という様相において産出する。そしてそれゆえに、私たち人間存在にできるのは、ただその「自然」の生成に内在することだけであり、その必然を肯定することだけである。法然のあとを承けて親鸞が「自然(じねん)」とは「おのづから」「しからしむ」はたらき、すなわち「行者のはからひ」の外で作動する自律的な生成のプロセスだと述べるとき、それはまさにスピノザ的「自然(しぜん)」の原理を指していると言ってよい。「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり」と言うとき親鸞は、阿弥陀仏がいかなる擬人化される存在でもないことをはっきり認識している。すなわち、「自然」である阿弥陀仏とは、形相なき力能にほかならないのである。


そのような「かたち」なき生成する力として認識し直された阿弥陀仏は、したがって、浄土教における〈信〉のあり方そのものに変更を迫り、私たち衆生に現実を変革する力を与え返してくれるだろう。阿弥陀仏を超越的〈一者〉として表象し、その疑似人格的意志によって救われたいと欲望するかぎり、浄土教は神話的説話体系にとどまり、その救いの力はどこまでも精神的―心的な慰藉であるほかない。


しかし、衆生が阿弥陀仏への〈信〉を「自然」の生成への内在として実践し、その必然を留保なく肯定するとき、浄土教は神話的世界から脱却し、「自然」の論理と倫理を説くすぐれて現実的な教えへと変貌を遂げる。実際、阿弥陀仏がその仮定され捏造された超越的意志によって衆生を救うという論理は、衆生がみずからの超越への欲望を阿弥陀仏に投影し、阿弥陀仏をみずからの似姿として理解してしまうことから生じる妄念に過ぎず、それは衆生を人間中心主義的なイデオロギーの内部に閉じ込め続けるだろう。そのイデオロギーの最も深刻な現れが、今日の世界における自然環境破壊であることは言うまでもない。「自然(じねん)」=「自然(しぜん)」から超越してあり、そのすべてを対象化し操作し利用し続けることが可能だと信ずる傲慢――その典型が、たとえば「持続可能な開発目標SDGs」という空疎なスローガンである。


しかし、この妄念から目覚めるとき、衆生はまったく新たな認識を獲得し、まったく新たな世界を生き始めることができる。


たとえば「浄土」――それはもはや、はるか彼岸に位置する実在性を欠いた幻想の領土ではない。そうではなくそれは、阿弥陀仏の大慈悲の力が貫徹しているすべての実在の場、衆生が称名念仏の声とともに生成変化していくすべての内在性の平面となるだろう。


たとえば「往生」――それはもはや、死の瞬間に来迎する阿弥陀仏によって摂取され来世における安楽を約束されることではない。そうではなくそれは、衆生がこの世界において念仏を称えることで阿弥陀仏の「本願」の構造にほかならない閉じざる未来完了の中へ身を投げ入れ、新たな誕生を繰り返しつつ、この穢土そのものを「浄土」へと生成させていくプロセスと化すだろう。いかなる超越への欲望も知らない内在性の領野に立ち現れる、この真の仏国土……。



宗教が本来的にもつ現実的な力を回復すること――ここにこそ、今日の日本浄土教の使命と課題はある。

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少年たちよ、自由になれ!

自分の別ブログの過去記事を読んでいたら、「boys be free!」の歌詞が引用されていたので、前置きと共に転載する。記事後半は省略した。

大好きよ 強くなくても
 大好きよ ガンバらなくても

これは、すべての「男の子」への優しい言葉である。枯堂夏子は天才だ。

(以下自己引用)


勝つって本当に「楽しい」のか

珍しいスレッドなので、転載しておく。
この問いかけに対する反応はだいたい予想どおりで、おそらくアスリートである側の反応は、基本的には

でも負けて楽しいとか言えんわ、そもそも勝つための技術やし
体育会系でそんなこと考えてる人おらんと思うで

これだろう。もちろん、何事でも負けるよりは勝つほうが楽しいのは当たり前の話であり、要するに、自分が、負けることが不愉快ならば、自分が勝てば相手にその不愉快な思いをさせている。それが本当に楽しいのか、と私などは疑問に思うわけだ。
まあ、負けて平気だという考えが昂じれば、人生の負け犬になるかもしれないがwww
しかし、勝利至上主義者が不愉快極まる連中であることは断言できる。
会社や組織の構成員や突撃隊員としては利用価値が高いから、大企業などがスポーツマンを優先的に採用するのは理解はできる。


(追記)枯堂夏子の「Boy's be free!」の歌詞を上げておく。世の少年たちが、もっと自由になってほしいものだ。


BOYS BE FREE!

歌:小桜エツ子
(作詞:枯堂夏子/作曲・編曲:長岡成貢)

魔法使いが
あなたを 女の子に
変身させても

わたし 平気よ
いままでどおり きっと
あなたが 好きでいられる

おそろいの リボンつけて
おしゃれを しましょ

いまよりも もっと
なかよくなれる
そんな気も するわ

◇大好きよ 強くなくても
 大好きよ ガンバらなくても

 守って欲しい
 わけじゃないわ

 あなたと ただふたり
 いっしょに いるだけでいい

大きな 敵と
戦っているような
鋭い目は イヤ

甘い夢 見て
トロンとしてる そんな
瞳が とても 好きだわ

しなきゃいけないことなど
この世に ないわ

優しさが なければ
自由になる
資格はないのよ

◆大好きよ 偉くなくても
 大好きよ 負けてばかりでも

 勇気も 力も
 いらないわ
 あなたと いつまでも
 なかよくしていたいだけ

解説

    OVA「神秘の世界エルハザード」のエンディングテーマ. アレーレの歌というよりは,誠に捧げる歌といった感じでしょうか. ポップなリズムがエッちゃんの声にとってもマッチしていて良いですね. 「
それでいいのだ
    」で 新録されていて,落ち着いた雰囲気で歌い上げてます.

垂加神道

「垂加神道」というと、ただの神道と何が違うのか疑問になるが、単に山崎闇斎の唱えた神道、くらいに解していいようだ。明治政府による「天皇の神格化」は、この垂加神道が背後にあったのだろう。

(以下引用)

「垂加」の由来[編集]

臨済宗の僧侶であった山崎闇斎は、その後儒教を学ぶがあきたらず、度会延佳(出口延佳)及び大中臣精長(河邊精長)から伊勢神道を学び、ついで吉川惟足に師事し、吉川神道の奥義を伝授された。垂加とは、このとき、惟足が闇斎に贈った号である[要出典]。「倭姫命世記」の「神垂以祈祷為先冥加以正直以本」の語句に由来する。

思想[編集]

垂加神道は、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした[3]。また、人間の「」を最も大切な徳分とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。この「敬」の実践行為とは「正直」であるとした[4]

影響[編集]

垂加神道は、 その内容から、尊王思想の思想的バックボーンを形成することとなり、水戸学尊王論国粋主義思想に大きな影響を与えた[3]。また、この系譜から竹内式部山県大弐のような熱烈な尊皇家が出た。浅見絧斎も儒教的大義名分論から尊王論を唱えた。やがてそこから日本主義国学の隆盛をもたらすこととなった[要出典]

ロリ・ペドについての定義

私はロリコンとペドフィリアは区別していたが、ペドフィリアは「実行に及んだ犯罪者」だと思っていた。「チャイルドマレスター」は初耳(「マレスター」の英語の綴りが分からない)だが、下の「定義」は信用できるのだろうか。特に「13歳以下」という数字は確かなのか。
ついでに言えば、「ロリコン」の元になった「ロリータ」を読んだ印象だと、ロリータという少女は日本だと中学生から高校生という感じを受けた。世間の「ロリコン」は小学生まで入る印象なので、ペドフィリアと重なるのではないか。つまり、こうした「数字」にはさほど意味は無く、「法的に性交が許されない年齢の女性に性的欲望を抱くこと」という定義が「ロリコン」「ペドフィリア」両者に共通するかと思う。つまり、区別する意味はあまりないと思う。まあ、議論好きな連中が勝手に定義しているだけだろう。

(追記)molesterという綴りを「マレスター」とカタカナ表記しているのでは、カタカナから原語を想像するのは難しい。これは英語の綴り自体の問題(G・B・ショーが痛烈に批判していた)だが、日本語(外来語)のカタカナ表記の問題でもある。

チャイルド・マレスター (child molester) は、子供にみだらなことをする人間のことを指す用語。日本語では児童性虐待者または小児性犯罪者などと訳される。ペドフィリアが医学的用語として多く用いられるのに対し、こちらは犯罪分析によく用いられる用語である。チャイルド・マレスターが複数の子どもを性的に虐待している状況をセックス・リングsex ring)と呼ぶ。


(以下引用)

ロリコンは定義不明の俗語。 ペドフィリアは通常13歳以下の幼児や小児を対象とした性愛・性的嗜好のことです。 それ自体は別に犯罪ではありません。 小児性犯罪者はチャイルドマレスターと呼ばれペドフィリアとは全く別の概念です。 そこを取り違えるのはとても差別的です。 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81
引用ツイート
Yuki Matsuzaki 松崎悠希
@Yuki_Mats
·
返信先: @nutty_6さん, @hitoshinkaさん
ロリコンとペドフィリアは同じ意味です。そしてそのような犯罪行為とマイノリティを同一視するのはあまりにも差別的です。マイノリティであることは犯罪行為ではなく、「フツー」です。だから「フツー」に作品に登場すべきだ、とずっと主張しています。一度スレッドを読まれた宜しいかと。

女系天皇の問題点とは何か

右翼作家の門田隆将の書いた記事だが、「女系天皇の何が問題なのか」という疑問に明確に説明している。まあ、天皇家の「万世一系」も神武天皇の実在も怪しいものだが、その両者が事実であると仮定するなら、なるほど「女系天皇」だと「皇統」は絶えることになる可能性が高い。
ちなみに、私は「尊皇主義」だが、万世一系も神武天皇の実在もどうでもいいと思っている。「日本には天皇が存在する」ということだけで、日本の政治は「民主主義の危険性」、つまり「民意に基づく独裁者の出現」という危険性を回避できる、と考えるからである。まあ、一種の「天皇機関説」である。「天皇機関説」は昭和天皇も「それでいいではないか」と言っていたという。天皇のほうが右翼より思想のバランスが良かったということだろう。

(以下引用)

なぜ「女系天皇」は皇室を潰すのか 「皇室そのものの正当性の根拠は消え…内側から解体されていく」との見方も 門田隆将氏特別寄稿

産経新聞
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門田隆将氏1/1枚 秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまのご婚約をめぐる最近のメディア報道の過熱ぶりを見ると、改めて、「日本国民の誰にとっても皇室は、敬愛すべき存在であってほしいと願う気高きものなのだ」と気付かされる。これまで「男系」だけで世界に類を見ない長い歴史を紡いできた中で、「女系天皇」を認めてしまえば皇室はどうなるのか。人気作家でジャーナリストの門田隆将氏が、女系天皇の危うさについて緊急寄稿、警鐘を鳴らした。

<< 下に続く >>

 4月8日、安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議の第2回会合が官邸で開かれた。

 ここでは、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や八木秀次麗澤大教授をはじめ、皇室や男系継承の意味を深く理解している方々が意見を陳述したので、まずは安堵(あんど)した。

 だが、私はそもそも「安定的な皇位継承の在り方を検討する」との会議の趣旨に首を傾(かし)げている。男系の正統な継承者・悠仁さまがいらっしゃるのに、なぜそんな会議が必要なのか疑問だからだ。

 悠仁さまご誕生前に議論されていた「安定的な皇位継承」そして「女系天皇」が、親王ご誕生で消えたはずなのに、なぜ令和の御代(みよ)が来ても必要なのか、ということだ。

 男系は皇統唯一のルールである。代々の天皇は父方を遡(さかのぼ)っていくと神武天皇に辿(たど)り着く。これが皇統だ。歴史上、8人10代の女性の天皇も、いずれも父方に天皇、もしくは皇太子らを持つ男系天皇だ。つまり、父方を遡っても神武天皇に辿り着かない「女系天皇」は1人も存在しない。

 このたった1つのルールによって日本は「世界最古の国」となった。エジプトも、中国も、国家の興亡がくり返され、その度に新しい独裁者が生まれた。だが、日本は違う。昔も今も日本であり、いつの間にか世界最古の国となった。天皇は令和の今も脈々と続いている。

 その理由こそ男系にある。父系を辿れば神武天皇に辿り着く皇統は時の独裁者にも覆せない。平家や源氏、あるいは足利、織田、豊臣、徳川…どの時代の権力者も天皇になり代わることはできず、せいぜい娘を天皇に嫁がせ、外戚として振る舞うことしかできなかった。

 これは「権威」と「権力」を分離した先人の智慧(ちえ)による。6世紀に武烈天皇が後嗣(こうし)を残さず崩御した際、5代上の応神天皇まで遡り、越(こし)の国から5代孫の継体天皇を即位させた。

 江戸時代には、3宮家では皇位が危ないと感じた新井白石が東山天皇の6男の直仁親王に閑院宮家を創設させた。懸念は現実となり、白石の死後70年を経て、後桃園天皇が後嗣を残さず崩御。その際、閑院宮家から光格天皇が即位し、皇統が維持されたのである。

 どの国でも、権力と権威は一致している。独裁者は常に両方を持っており、国が滅ぼされれば新たな独裁者が生まれる。だが、日本は天皇の存在によって「国が変わること」は1度もなかった。

 悠仁さまご誕生によって、男系は維持されることになった。しかし、「安定的な継承」のために女系天皇を認めようという不遜(ふそん)な動きが起こった。悠仁さま廃嫡論だ。

 共産党の理論的支柱・奥平康弘東大教授が雑誌『世界』の2004(平成16)年8月号に寄稿した論文にヒントがある。

 女系天皇は〈天皇制のそもそもの正当性根拠であるところの『萬世一系』イデオロギーを内において浸蝕(しんしょく)する〉と記したのだ。正統性が消えた天皇はやがて滅ぶとの見解である。

 なぜ女系天皇になれば皇室は滅ぶのか。女性天皇が結婚され、生まれたお子さまが即位すれば女系天皇だ。どこの血筋の人かわからないが、いずれにしても父方を遡っても神武天皇に辿り着かない。つまり正統性なき天皇である。萬世(ばんせい)一系の皇統が途絶すれば、皇室そのものの正当性の根拠は消え、内側から解体されていくと奥平氏は分析している。

 仮に国際結婚で父親が中国人なら中国系になり、韓国人なら韓国系になる。それが女系天皇だ。皇統と関係のない天皇が続いた場合、やがて皇室は消え去るという見方だ。

 確かに、長く天皇制打倒を掲げてきた共産党は19(令和元)年6月、志位和夫委員長が「赤旗」で女系天皇容認を打ち出し、立憲民主党も追随。朝日新聞や毎日新聞がこれを評価した。面子を見れば「何のために?」ということが分かる。

 男系では、母親が昭和天皇の長女、祖母は明治天皇の第9皇女という東久邇家には、今も男系継承者が何人もいる。皇室典範を改正し、皇族が養子を迎えることができるようになれば皇統は何の心配もないのである。

 有識者会議の人々がどういう国家観を持ち、知識と常識を備えているのか。私はそのことに限りない関心を抱くのである。

 ■門田隆将(かどた・りゅうしょう) 作家・ジャーナリスト。1958年、高知県生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社入社。元「週刊新潮」デスク。歴史、司法、事件、スポーツなど、幅広いジャンルで活躍する。『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『死の淵を見た男』(角川文庫)、『疫病2020』(産経新聞出版)など、ベストセラー多数。『この命、義に捧ぐ』(角川文庫)で山本七平賞受賞。最新刊は『新・階級闘争論』(ワックBUNKO)。