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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」のこと

内田樹のブログ記事で、依頼されて書いたようには思えない内容だから、それほど「これについては一度書く必要がある」というテーマだったのだろう。
ここに書かれた「コリン・ウィルソン体験」は私もほぼ同じで、違いは私はその内容を熟読玩味はせず、「哲学的な詩」として読んだことだろうか。それほど、細部が魅力的であり、その書き方が魅力があったのだ。そして、その欠点については内田が述べているとおりだ。彼はあくまで「ガイド」だったのであり、自分自身の思想を発展させるタイプではなかった。しかし、これほど魅力的な文学・哲学ガイドは、空前絶後だろう。
ちなみに、カミユの「異邦人」もウィルソンの「アウトサイダー」も、社会の異端者の意味であり、国籍は無関係だろう。ひとつの教室の中にも必ずアウトサイダーはいる。そのアウトサイダーは、案外周囲の「真実」を見抜いている。

(以下引用)

『アウトサイダー』についての個人的な思い出とささやかな感想

2021-12-06 lundi

 私が『アウトサイダー』を手に取ったのは、1966年の秋のことである。そのときのことは半世紀近く経った今でもはっきり記憶している。この本の導きによって、私は知的成熟の一つの階段を上ることができたからである。その話をしよう。
 その年、私は都立日比谷高校という進学校の雑誌部という超絶ナマイキ高校生たちのたまり場のようなクラブの1年生部員だった。上級生たちはヘーゲルとかマルクスとかフロイトとかサルトルとか、そういう固有名をまるで隣のクラスの友人たちについて語るかのように親しげに口にしていた。私はそこで言及されている人たちについて、かろうじて人名辞典レベルの知識があるのみで、手に取ったこともなかった。ましてやその一節を適切なタイミングで議論の中で引用するというような知的離れ業は夢のまた夢であった。
 この圧倒的な知的ビハインドをどう克服すればいいのか、15歳の私はその手立てがわからぬまま呆然としていた。なにしろ私の中学時代の愛読書は山田風太郎の忍法帖とフレドリック・ブラウンのショートショートと『足ながおじさん』だったのである。今思えば、中学生としてはなかなかバランスのよい選書だったと思うが、それはクラブの先輩たちに「こんなのを読んできました」とカミングアウトできるようなラインナップではなかった。雲の上を行き交うような高踏的対話を横で立ち聞きしながら、自分のこれまでの読書が知的成熟とまるで無縁なものであったのかと私は深く嘆じたのである。
 とはいえ、当時の私は(信じがたいことに)向上心にあふれる少年であったので、とりあえず上級生たちの会話に出てくる難語のうち最も言及頻度の高い「弁証法」についてだけは、それがどういうものか知ろうと思った。そして、昼休みに3年生のイトウさんが部室で所在なげにしているのを好機に、勇を鼓して質問してみた。
「先輩、『弁証法』とはどういうものなんですか?」
 イトウさんはにこやかに笑って、「うん、それはいい質問だ。ウチダくんがキャッチボールをしているとするね。キミが投げた球がうっかり隣の家に飛び込んで、ガラスを割ってしまった。さあ、どうする?」
 私は意味がわからず、ぼおっと立っていたが、そのうち血の気が引いて、黙って部室を立ち去った。背中にイトウさんの甲高い笑い声が聞こえた。そのとき、二度と先輩たちの前で自分の無知をさらすことはすまいと心を決めた。
 まず柳田謙十郎の『弁証法十講』という文庫本を買ってみた。弁証法の辞書的な定義はわかったが、どう使っていいのかはわからない。やむなく続いて、マルクスの『共産党宣言』とさらにサルトルの『実存主義とは何か』を買った。こちらも意地である。
 だが、七転八倒してそのような本を読み通してみても、彼らが何が言いたいのかはやっぱりよくわからない。
「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊である」といきなり言われても困る。ヨーロッパは行ったことがないし、共産主義はソ連や中共(と当時は略称されていた。今ではATOKでも変換されない)の国是と聞いているが、それがどうしてヨーロッパで幽霊になっているのか文脈がわからない。誰を相手にしてこの人たちはこんなに怒っているのか、それがわからない。「ブルーノ・バウアー」とか「ラロック中佐」って誰?
 何冊か本を読めば、先輩たちが何の話をしているのかわかるようになると思っていたが、こと志に反して、しだいに知識が身につくどころか、読むほどに知らない書名、知らない人命のリストが幾何級数的に増えてゆくばかりである。
 これではとても間に合わない。自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかについての鳥瞰図を手に入れないと話にならない。
 いかにも受験生の考えそうなことである。「出題範囲」をまず確定してもらいさえすれば、その上で一マスごとに塗りつぶすように暗記してゆくことならできる。哀れな話ではあるが、15歳の私はそのような勉強法しか知らなかった。だから、哲学に向き合うときも、その方法しか思いつかなかった。そしてこう考えた。問題は「現代哲学の出題範囲」というか「現代哲学の学習指導要領」というか、そういう「哲学についてのトピックはだいたいここから出題されます」という大枠を示す情報がどこにもみつからないいことである。さて、そのような情報はどこにゆけば手に入るのか。
 そんなある日、同じ雑誌部1年生のM田君が、一篇のエッセイを書いて編集会議に持参してきた。エッセイは1年生全員に課された宿題で、そのとき、私はジャズ喫茶についてのルポを書いていた(新宿のDIGとか銀座の69とかいう店の様子はどんなふうであるかをジャーナリスティックなタッチでレポートしたのである)。ところが同時に提出されたM田君のレポートには、サルトルとかカミュとかニーチェとかキェルケゴールといった名前がすらすらと引用されており、彼らは「アウトサイダー」という共通傾向によってカテゴライズされるのが妥当ではないかというようなことが書いてあった。
 私たちは驚倒して絶句した。ふだん温顔でおとなしいM田君にこれほどの教養があるとは思いも寄らなかったからである。上級生たちも「哲学がわかる1年生」の突然の出現にいささか気色ばんでいた。
 でも、なんか変だ、と私は思った。どうも、ふだんの彼の話題とエッセイの中身に隔たりがありすぎる。それに「アウトサイダー」という言葉は高校生が普通名詞として使うにはあまりに鮮やか過ぎた。
 私は頭上に疑問符を点じたまま下校した。当時、私の家は目蒲線の下丸子というところにあった。多摩川沿いのぱっとしない工場街である。町には一軒だけ本屋があり、その大衆小説と雑誌しか置いていない間口一間奥行き二間くらいの店に私は駅から家に戻る途中に、なぜか寄り道した。目的もなく書棚の背表紙を目で追っているうちに、『アウトサイダー』という書名が目に飛び込んできた。私は雷撃に打たれた。
 手に取って、ぱらぱらとめくると「アウトサイダーは、事物を見とおすことのできる孤独者なのだ」「盲人の国では片眼の人間が王者である。が、この王権は、何ものをも支配しない」というようなポエティックな断言がちりばめられている。
 これだ、と私は確信した。M田君はこれを読んだのだ。私はその茶色の土偶のようなものが表紙に描かれた『アウトサイダー』を不機嫌な顔の店主からひったくるように買い求め、そのまま払暁に至るまでむさぼるように読んだ。最後まで読み終えるまでに三日とかからなかったと思う。そして、読み終えたときに、私は深い満足感と、一抹の寂しさを感じていた。
 うれしかったのは、この本が私の久しく待望していた「現代哲学の学習指導要領」(それもきわめて出来のよい)だったからである。寂しかったのは、おそらくはあの先輩たちもこれに類した「参考書」をひそかに自分用に持っており、(誰にも教えずに)哲学者たちの名前と引用句をそこから拝借して読んだような顔をしているのではないかという疑念にとらえられたからである(事実、一年後に私自身が新入生たちに先輩風を吹かせるようになったとき、私は「読んでもない本を読んだような顔をする」技術にすっかり習熟していた)。
 これは「教科書」として読むべき本だろう。私はそう思った。ただし、きわめて強い個人的バイアスのかかった教科書である。
 バイアスがかかっていることは知識を得る上では少しも障害にならない。現に、山川出版の『詳説世界史』は唯物史観に貫かれているがゆえに、歴史事実を「価値中立的に」記述した世界史の教科書よりはるかに読みやすく、それゆえ歴史の知識を得る上で効率的であるではないか。

「アウトサイダー」という補助線を引くことで、コリン・ウィルソンはニーチェからドストエフスキーまで、ニジンスキーからブレイクまでを「同じ一つの籠」に入れてみせた。これは偉業という他ないと思う。
 たぶんこの書物を最も熱狂的に歓迎したのは、本国イギリスでもその他の国でも(15歳の私がそうであったように)「哲学の出題範囲」の確定を切望していた「知識人予備軍」の若者たちだったろうと思う。この本が1956年の英国でどのような人たちからどのような評価を受けたのかについて、私は出版史的知識を持たないが、おそらく誰よりもまず若者たちの支持を得たのではないかと思う。
 年代的に言ってそうである。当時のイギリスは「若者文化」の勃興期であった。文学・演劇の領域ではジョン・オズボーンやアラン・シリトーら「怒れる若者たち」が登場してきていた。アメリカからエルヴィスやバディ・ホリー、チャック・ベリーのロックンロールが入ってきたのはこの頃のことだ。16歳のジョン・レノンがポール・マッカートニーに出会うのが『アウトサイダー』の出た翌年だと言えば、その時期のイギリスの若者たちの気分がどんなものだったかわかる人にはわかるだろう。
 彼らは自分たちの新しい価値観に従って、万象をデジタルな境界線で二分割する作法に熱中していた。「ヒップかスクエアか」、「インかアウトか」、「コマーシャルかアートか」「ロックかロックじゃないか」、そういったいささか乱雑だが、爽快感あふれる斬り捌き方が若者文化を席巻しようとしているまさにそのタイミングにコリン・ウィルソンは登場したのである。
 素晴らしいことに、この青年はどんなアカデミックな教育とも無縁な独学者であった。昼間は英図書館で万巻の書物を読み、夜は公園で野宿していたこの「ホームレス哲学者」がなんと凡庸なアカデミシャンをはるかに凌駕する恐るべき博覧強記によって哲学史を一刀両断してみせたのである(「ロック」だ)。私がイギリスでの『アウトサイダー』のリアルタイムでの読者だったら、喜びのあまり手の舞い足の踏むところを知らなかったであろう。
 でも、若者たちだけではない。もう少し年長の知識人たちもコリン・ウィルソンの中に「イギリスの知的未来」についての希望を見たのではないかと思う。
 もしかするとコリン・ウィルソンは「イギリスのアルベール・カミュ」になるのではないか。そういう夢を見た批評家たちがきっといたはずである。というのは、二人の間にはたしかにいくつかの共通点が見出せるからだ。
『アウトサイダー』の出る15年前にカミュは『異邦人』という小説と『シーシュポスの神話』という近現代哲学を一刀両断する「哲学書」を携えてフランスの文壇に華々しく登場した。『シーシュポスの神話』はこんな言葉で始まっていた。
「真に深刻な哲学的問題はただ一つしか存在しない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学の根本的な問いに答えることである。自余のことは、世界に三つの次元があるかどうかとか、精神は九つのカテゴリーを持つか十二のカテゴリーを持つかといったことはその後の話である。そんなのはたわごとに過ぎない。」
 同時代の哲学者たちが論じている問題のほとんどは「たわごと」である。だから、「それを否認すれば生かしてやるが、それを主張し続ければ殺す」という究極の選択を前にしたときにそれに殉じる覚悟の哲学者は一人もいるまいとカミュは憎々しげに言い放った。この本が出たとき、カミュは弱冠29歳。のちにサルトルに揶揄されるように、彼もまた哲学についてのアカデミックな教育とは無縁の人であった。
 1956年、コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』で劇的なデビューを果たしたまさにその年、アルベール・カミュは史上最年少でノーベル文学賞を受賞し、ヨーロッパ中のメディアを賑わしていた。英国の少なからぬ数のジャーナリストや批評家たちが『アウトサイダー』のうちに『シーシュポスの神話』とのスタイル上の近似を認めたがったとしても、誰がそれを責められよう。
 現に、独学者には固有の「書き癖」があり、カミュにもウィルソンにも、それは共通していた。それはただ一つの鍵概念(カミュの場合は「不条理」、コリン・ウィルソンの場合は「アウトサイダー」)を手にして、古今東西の文学者・哲学者の仕事を「一つのものさし」でざっくりと類別してしまうという豪快な手法である。
 多くの人が指摘しているように、『アウトサイダー』はカミュの『異邦人』の英訳タイトルをそのまま借りている。そのことを勘案しても、コリン・ウィルソンがカミュを「ロールモデル」に擬していたということは十分吟味するに値する仮説だろう。二人とも下層階級の出身で、野心と反骨精神にあふれた貧しい若者である。それが大学教授たちの講壇哲学をおのれの拳ひとつで叩き壊そうとしている。
 だが、『シーシュポスの神話』と『アウトサイダー』の相似点はそこまでである。
 まず、カミュの本は残念ながら「現代哲学の学習指導要領」には使えないからである。引用が少なすぎるのである。カミュは自説の傍証として何か他人の言葉が必要なときには、書棚から適当な哲学書を選んで取り出し、ぱらりと開けばそこに自分がまさに読むべきことが書かれているはずだと思っていた(それくらいに自分の直感力を信じていた)。カミュはノートをとりながら哲学書を読むタイプではない。
 でも、コリン・ウィルソンは逆だった。彼は本職のアカデミシャンを知識量で圧倒する道を選んだ。やり方としてはウィルソンの方が手堅い。結果的にコリン・ウィルソンの本は引用の宝庫となった。
「アウトサイダーをめぐる」中心的な命題だけをまとめれば50頁で終わったはずの書物がその十倍の量になったのは、彼が実に多くの書物から大量の引用を行ったからである。それだけではない、コリン・ウィルソンは小説についてはそのあらすじを、人物についてはその伝記を実に細かく記してくれた(複雑な小説のあらすじをさらさらとまとめる技術と印象的なエピソードをつなげて立体感のある略伝を書き上げる技術においてコリン・ウィルソンは紛れもなく例外的才能の持ち主である)。おそらく彼は図書館で読んだ本の重要箇所をこまめに「抜き書き」したノートを作り、それを蔵書に代えていたのだと思う。その膨大な抜き書き作業に投じた時間に対する愛着が彼の書物を「引用の宝庫」にしてしまった。
 おかげで、『アウトサイダー』は「その一節を引用しさえすれば、その本全部を読んだことになるくらいに著者の思想とスタイルのエッセンスの詰め込まれた選び抜かれたフレーズ」で埋め尽くされることになった。そのことが、私たちのような、その本を全部読むだけの暇も根気もないが、何が書いてあるかは知っておきたい気ぜわしい若者たちにとってどれほどの恩恵であったかは贅言を要すまい。
 いずれにせよ、『アウトサイダー』は1950-60年代における最高のブックガイドだったと私は思う。私はコリン・ウィルソンの案内によって、その後ニーチェを読み、キェルケゴールを読み、ドストエフスキーを読むようになった。私の同世代の友人たちのあるものはT・E・ロレンスを読み、あるものはニジンスキーを読み、あるものはブレイクを読むようになった。彼らは自分がなぜそのような本を読み始めたのか、理由を告げなかったが、私は彼らの書棚には必ずや『アウトサイダー』があったろうと確信している。

 それから45年経って、文庫版の解説のために『アウトサイダー』を再読した。そして、この本から後もコリン・ウィルソンの著作を長く追い続けた結果、彼が網羅的に情報を集めることは好きだが、それらを分析し考察を深めるという仕事には同じほどの情熱を示さない書き手であることを知ってしまった私としては、このデビュー作の完成度の高さにむしろ驚かされた。最初にこれほどのものを書いたのか、と。そして、セールス的にも、文学史的評価においても、ついにデビュー作を超えることができなかった多作な書き手のために一掬の涙を注ぐのである。
 残念ながら、『アウトサイダー』は『シーシュポスの神話』のように「現代思想の殿堂」入りを果たすことはできなかった。けれども、1950-60年代の世界の若者たちに、「哲学もロックすることができる」という心躍る思いを与えた。そのことだけでも、一冊の書物が知性の歴史に残した足跡としては十分語り継ぐに値する業績ではないかと私は思う。

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米国植民地日本の「影の政府」電通

「逝きし世の面影」記事の一部だが、電通や博報堂を通さずにテレビ番組のスポンサーになることはできないのだろうか。それとも、できるが、電通の手によってスポンサーや番組が潰されるのだろうか。

(以下引用)

『満州国の「国通」から連綿と続くの負の遺産、マスコミ界最大の禁忌(タブー)が「電通」だった』

『電通』を歴史的に見れば。前身である日本電報通信社は阿片王里見 甫(さとみ はじめ)や満映理事長や初代民生部警務司長だった満州国の影の支配者甘粕正彦など裏社会と繫がる特務機関と同じように(連携して)、悪名高き関東軍の造った人造国家『満州国』の満州鉄道の調査部(関東軍の嘱託)として対外宣伝と宣撫工作を担っていた。
1945年の日本の敗戦後には満洲国や上海から逃げ帰ってきた戦犯の特務機関員や軍人、満鉄関係者を大量に採用してGHQや日本政府に食いこみ、影の情報局とか築地CIAなどと呼ばれて、戦後における『影の特務機関』(裏の情報機関)の一種として機能しながら、広告専門会社として戦後の高度成長期、テレビの登場で急成長を果たし、1974年には広告取扱高は世界1位に躍り出た。
電通の吉田秀雄社長は政界だけではなく敗戦後のGHQとの関係でアメリカのCIAや山口組を始めとする日本のヤクザと広範囲な人脈を持っていて、電通は日本国内の最大最強のCIAエージェントであり、また暴力団との裏のコネに豊富だともいわれている。単なる圧力だけでなく、電通はCIAや暴力団を使ってテロや要人暗殺も可能なバケモノであるとも言われているらしい。電通は自分たちの目的のためには『実力行使』を行うことが可能な会社なのです。

アメリカの広告術を取り入れた吉田秀雄社長の有名な『鬼十則』という軍事組織のようなスローガンの下に、日本の広告市場の制覇を握っただけではなくマスメディアの世界を完全に掌握する。政財界やマスコミ、元皇族など日本の主だった実力者の子供を優先的に入社させ、電通社員を代議土の秘書に送り込むなど、電通はフィクサーの集団として機能する。
日本以外ではGMとフォードは別の広告会社を使っているように資本主義の自由競争の原理で、業種別に激しい実力競争が行われるが、日本では『電通』1つが業界全体の広告代理店を占有する。本来絶対に『有り得ない』状態が生まれているが、だから、電通は世界一の広告代理店になった。
なんと日本政府の広報でも電通がダントツでほとんど独占しているし、テレビや新聞広告も圧倒的に電通が握っているので メディアともたれ合いで安易な営業をしているだけではなく、読売や朝日毎日などマスコミの幹部の子弟たちが電通社員。日本のメディアは首根っこを電通に押さえられ、世界有数の発行部数を誇る大新聞でも、手も足も出ない状態が続いていた。(今回5月17日から今までは敗戦後最大・最強のタブーだった『電通』の名前が国会やマスコミで解禁になったのは画期的な出来事だった)

(抜粋)

5月17日突然「風向き」が変わり「電通」の名前が出てくる 2016年05月18日 | 政治 

突然のニヒリズムと自殺

かなり貴重というか、希少価値のある体験談である。
まあ、一般に言う「魔が差す」だ。(この場合は「差す」でいいのか?)
そのまま死んでいたら、父親との口論が直接の原因だったわけで、それを知ったら父親はどうなっただろうか。

(以下引用)

10年前に首を吊ったことがある

失敗したというか、そもそも成功するかどうかわからない雑さだったので生きている。

それは本気で死ぬ気ではなかったのでは、と思われるだろうが、後にも先にもあんなに「死」に取り憑かれたことはないし、本当に病的に死ぬ気だったのだと自分ではわかる。

当時の自分は、社会人一年目で、新卒人間自分の他に一人しかおらず、あまり職場に馴染めず鬱々としていた。

こう書いてしまうとさもありなんと思われるだろうが、それ自体別に死ぬほどのことではなかった。

仕事の代わりに趣味が充実していたし、楽しいこともいろいろあったし、明確なパワハラがあったわけでもない。

なんとなく職場のことは好きではないが、やってることはまあ嫌いでもなかった。

なかったのだが、色々なストレス自覚もないまま積み上がっていたらしい。

とある連休の折り、地方住まいの両親が会いに来てくれた。

食事の席で珍しく酒を飲み、少々酔い、気分良く話していたはずが、気がついたら父親口論になっていた。

なんでそんなことになったのか、全く思い出せない。実際、ものすごく些細な話だったのだと思う。

不機嫌に別れて家に帰った。帰り着いて、風呂に入って、なんでかわからんがめちゃめちゃに泣いて、時間はすでに深夜だった。

まりにも突然急に、あっ、死のう、と思った。

自分で言うのもなんだけど、正直昔からメンタルが強いほうではなかった。人生のうち半分以上を「死にてぇ〜」と思いながら生きていた。

生きていたけれども、「死にたい」じゃなくて「死のう」となったのはその時だけだ。

そして「死のう」の質感は、「死にたい」と全然違っていた。

WEBで今できる死に方を検索した。できるだけ苦しみが少ない方法。それらしいのを見つけた。これだと思った。

親しくしてもらっている大家さんに迷惑がかかるとか、今まさに近くに来ている両親のこととかも考えた。

胸が痛むような気持ちを遥かに上回って「死んじゃうんだからどうでもいいじゃん」と思った。

誰かが困っても、泣いても、死んだ後だからどうでもいい。

そのころ私は趣味WEBサイト運営していて、そこそこ閲覧もされていた。

親しくなった友人も、慕ってくれる閲覧者もいた。

当時はまだ個人サイトを作る人間も多く、そしてなんらかの理由更新が止まってしまったところも多かった。

いつかまた更新されるかも、という期待の残る跡地は切ないので、自分サイトを閉じる日が来たら、ちゃんとその旨を掲示して、これまで見てくれた人への丁寧な感謝文章を書こうと、ずっと前から決めていた。

お知らせのための新規ページを準備して、文章を2行くらい書いたところで思った。

「これもやっぱり死んじゃうんだからどうでもいいじゃん」

この瞬間の確信は、今思うだに異常だった。

周りが聞いたら些細なことかもしれないけれど、当時の自分の一番の矜持とかこだわりみたいなものが、バツンと切られて散ってしまった。

スイッチが入る、という表現が一番近い。切るのではなく、入るのだ。「死のう」という方向に入ってしまう。

恨んだ人間も、お礼を言いたい人間もそこそこいたけれど、それも全部どうでもよくなってしまった。だから遺書も書こうとしてやめた。

面倒くささのほうが圧倒的に上回っていた。

詳しい方法は書かないが、死に損なって障害が残るのは絶対に避けたかったので、そうなる確率が低い方法をとった。

実行する直前で、就活中に軽い不眠になった時期があり、一時的に処方されていた睡眠導入剤のあまりがあった(このときかかっていたのは普通内科だった)のを思い出した。

全部飲んでしまおうかと思ったが、胃洗浄などになったら死ぬより辛いという話を聞いていたので、普通より効果が出るだろう、くらいの量だけ口にして首を吊った。

死にたいけれど苦しみたくはない自分が本当におかしかった。けれど、死んでしまえたらもうそういうことも考えないんで済むんだな、と思った。

頭がぼんやりしてきて、手と足の感覚がなくなったときものすごい解放感だった。嬉しかった。

死ぬとわかっただけでこんなに楽になるのなら、もっと早く思いついておけばよかったと思った。そのあたりで意識が途切れた。

目が覚めたら翌日の朝で、床にすごい体勢で倒れており、身体中がばきばきに痛くて、首には紐の跡が残っていた。

要は紐の結び方が甘くて、主に薬の効果意識が飛んだあとに自重で解けて、そのまま床で寝ていたらしいのだけれども、起きたら「死のう」の気持ちは吹っ飛んでいた。

びっくりした。死にたくなくなったことではなく、あんなにも盲目的に死のうとしていた自分のことが、まったくもってわからなかった。

魔がさすとか、憑き物とかいうけど、ほんとそんな感じだった。あまりにも明確に「どうかしていた」。

自分のしでかしたことが怖すぎて、トイレで吐いた。ついでにめちゃくちゃ腹が痛くなって困惑していたら、普段の周期より1週間も早く生理が来ており愕然とした。

(一部の女性には、ホルモン作用により生理前の時期に鬱に近い状態になってしまうPMDDという症例があるのだが、このとき生理周期が狂ったことも含め、なんらかのホルモンバランスの不調が原因で、それだった可能性がなくはない)(ただ、一因ではあるかもしれないがそれだけではないし、それが理由とも限らない)

首を吊った紐は捨てた。気に入っていたワンピースベルリボンだった。悲しくて怖くて服も捨てた。もう一度泣いた。

仕事は休んで心療内科に行って、薬をもらった。首の残った紐のあとは、夜には消えていた。翌日は普通仕事に行った。次の日も、その次の日も普通に行った。

薬は最初の処方分だけで不要になった。

それから10年たった今も生きている。

で、それでなにが言いたいかというと、人はあまりに突然死に取り憑かれて、急に死んでしまうことがあるだろうということである

ミステリとかで「あの人は近々こういう予定があって楽しみにしていたか自殺なんてありえない」みたいなシーンを良く見かけるが、結論として全然ありうる。

どんな予定があっても、約束があっても、「死のう」は突然やってくる。

あと、死ぬ前に思い悩んでいたことがあったのではとか、誰かに相談はできなかったのか、みたいな話も出てくる。

もちろん誰かに相談したくて、それができなくて思い詰めて、確固たる意志自死を選んでしまった人も多いと思う。

でも、自分が悩んでいる自覚もなく、ある日突然「死のう」が顔を出すこともある。

準備がなくても、杜撰でも、衝動的でも、一瞬の気の迷いでも、タイミングが重なれば、死ぬときは死んでしまうのだ。

たとえそれが自死であろうが、突然の事故と同じくらいに、本人だってわけもわからず、死んでしまうことは、たぶんある。

から他人の死に対し、できればあまり物語を見ようとしないでほしい。

(以下略)

Ah, look at all the lonely people

正直な告白で、ホストクラブに通う女性の気持ちが分かって興味深いが、コメントのほとんどが冷酷で、そこも面白い。つまり、女にモテない男たちには、ホストクラブに通う女性は敵なのだろうwww
ちなみに、ホステスをやっている女性などがホストクラブの客になりがちなようだ。中には、トルコ嬢(死語か?)になっても通ったり、あるいは勤めている職場のカネを盗んでも通う女性もいる。それだけ、ホストクラブには或る種の魔力があるのだろう。ただ、中村うさぎと誰か別の女性作家が対談で言っていたが、ホストというのは基本的に恐ろしく無知無教養らしい。むしろ、その無知さ、無教養さを冗談にして笑いが取れるということではないか。客のほうも大半はホストをどこか見下しているのだと思う。
太客と細客という、資本主義の階層構造で客の価値が決まり、その階層構造を客たちが素直に受け入れているというのも興味深い。

2018-06-13

ホストクラブに通うのをやめた話

1年近くホストクラブに通っていた。

歌舞伎町マイナー店。

担当ナンバー上位の幹部だった。

月に遣ってたのは20ちょっと

スクラじゃゴミみたいに安い金額だ。

お金を遣うのが絶対正義世界

そんな世界お金を出せない私は、担当にとって都合のいい便利な客にならなければ客にも見られないと思っていた。

わがまま文句を言ったら嫌われる。

お金を払った上でイヤなことがあっても我慢をするなんて、はたから見たら頭がおかしいと思われるかもしれない。しかし、ホスクラでそれも細客担当を好きになるというのは、こういうものなんだと思っていた。

はい人間は強欲な生き物だ。

いい子を演じれば演じるほど不満や文句が生まれてくるのは当たり前のことである

ある日、担当に珍しくシャンパンを煽られた。私のお気に入りヘルプバースデーが近いから前祝いをしてほしいとのこと。もちろんいつもお世話になっているからと鴨を発揮し、月に遣っている総額を1日で遣った。

その日は入店した時間も遅く、担当が卓に着いていたのは実質1時間もなかった。たまにはこんな日があってもいいかと思っていたが、店を出ると速攻でタクシーにぶち込まれた。見返りなんて求めてはいけないと思いつつもさすがにこれには悲しくなった。

お金を遣ったのに満たされない日の帰り道ほど虚しさに襲われる日はない。

あれ、私今日全然酔ってもないし担当感謝されてるわけでもないし、何のために店に行って何のためにシャンパン卸したんだろう?今日ほんとに楽しかったっけ?

こんなことを思っても数日したら担当に呼ばれてまた店に行ってしまう。

そしてまた雑に扱われて落ち込んでそれでも好きだから店には行ってしまうの無限ループ

自分でも好きとか依存とか執着とかお金とか営業とかよくわからなくなってきていた。

そんな時、担当ポロっと言った言葉

「そういえば俺、お前が怒ったとこ見たことないよな〜〜」

担当何の気なしに言ったと思うが、この時の私には刺さりすぎる言葉だった。

呼ばれた時はできる限りお店に行った。

苦手なヘルプの前でもニコニコ笑って担当が卓にいなくても楽しいふりをした。

連絡が雑でも、約束を守ってくれなくても、誕生日を祝ってくれなくても、担当負担にならないよう文句ひとつわずに平気なふりをした。

からといって何を感謝をされるわけでもなく、呼べば来るくらいのちょろい客にしか思われてなくてもそれでいいやと思っていた。

お金を遣えない細客わがままなんて言っちゃいけない。見返りなんて求めちゃいけない。そう思って店に通ってた私のちっちゃいちっちゃいこの頑張りってなんだったんだろう。

なんにも伝わってないじゃん。

なにこれ虚しい虚しい虚しい虚しい。

別にこんなこと思いたくもなかったし感じたくもなかった。こんな風に自滅なんてしていきたくなかった。でももう考え出したら止まらなかったし止められなかった。

私にとっては精一杯の好きと誠意を表したお金担当にとってはきっとしょぼいお金しか思われてなくて、どんな気持ちで遣ってきたかなんて全くもって考えてもいないんだろうなって。

自分は客で担当にとっては所詮お金しかないってこと、ホスクラに通ってる女の子はそんなの最初からみんな分かってます

からこそ、楽しく通ってるうちはせめて店にいる時くらいは、そんなこと思わせないでほしかった。少しくらい必要とされたり大切にされてるかもって勘違いをして、つまらない日常現実逃避をしていたかった。勝手担当を好きでい続けたかった。

きっとこれをホス狂や担当狂いの女の子たちが読んだら、細客が何言ってるんだよって鼻で笑われたのち、勘違いしてんじゃねぇよと私は叩かれまくることでしょう。

お金を遣うのが絶対正義世界

担当の為に人生捨てて風俗1本になる勇気もなければ、見返りを求めないこともできなくなった私の負けです。そして私をこんな気持ちにさせて離れることを選ばせた担当もっと負け。

と思っていたけど、担当は私がいなくなっても別に困ることなんて何もないし、代わりの女の子なんていくらでもいるから全く負けてなんていなかった件。

あー、ただただ虚しい。

記事への反応 - 

顔のいい猿たち

社会心理学的に面白い現象である。
「世間を舐めている」からホストになるのか、「ホストになったから世間を舐める心性になる」のか、のどちらか、あるいは両方半々だろう。つまり「いい加減なことをしても世間はたいてい許容する」ことを彼らは分かっているから、図々しくなるわけだ。女を騙すのが商売なのだから、そうなって当たり前だろう。
ちなみに、若くて前途が見えず苦しんでいた時、私も(顔が良かったのでwww)「ホストにでもなろうか」と考えたことがある。

(以下「カマヤンのツィッター」から引用)

ホストクラブの会社が客としてわりと来るのは別に良いのだけど、ゴミを分別して捨てるという行為ができないのがなぜなのか当社には分からないし、分別できない集団には来てもらいたくない。