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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

妄想との比較という妄想

「はてな匿名ダイアリー」記事だが、こういう「ありえたかもしれない人生」と比べて、今の人生を不満に思う、という人はどれくらいの割合でいるのだろうか。それをたとえば「結婚」だけに限定して、「他の相手と結婚していたら幸福だっただろう」と思う人は、男よりは女に多いような気がする。まあ、どちらが多いかというのはさほど問題でもないか。
私なども、初恋の女の子と結婚していたら人生はどうなったかと妄想することも無いではないが、その妄想はあまりに馬鹿げているので、まったく想像が先に進まない。
いずれにしても、「単なる妄想との比較」という思考パターンは愚劣なのではないか。
この手の愚痴というのは、だいたい「責任は自分ではなく他人にある」という思考が大前提なように思われる。

(以下引用)

モヤモヤして眠れないか

ちょっとした愚痴

私の旦那出会った時から現在まで定職に就いた事がが無い。

3度の飯と体を動かす事が大好きで、たまにスポーツコーチ格闘技トレーナーみたいな仕事スポットでする以外は、

基本トレーニング登山等の運動に勤しんでいる。だから家事生計もほぼ全て私が担ってきた。

子供も二人いて、両方とも女の子

長女は外見はどちらかと言えば私に似たんだけど性格旦那に似てしまい、

高校卒業後は旦那と同様定職に就かずに、良く分からない不定業で自称家事手伝いで暮らしている。

もちろん家には一切お金を入れていない。

お小遣いとかも上げて無いけど何か上手い事してるから収入自体はあるみたいだけど。

次女は大学生だけど体型が旦那に似てしまって、女らしさがあまり無い感じでこれはこれで将来が不安

180cm近くの身長で、下手な男よりも背が高いから、そういう意味でも敬遠されていると思う。

実際に未だに彼氏等の気配は無い。(同性にはモテるらしい…)

私自身には家族を養える程度の収入はあるし、それなりに平凡な生活を送って来たつもりなんだけど、

旦那ちゃんと働いて妻は主婦パートで、子供もそれなりにちゃんと育って…みたいな家庭を見ると、

ついつい自分の家庭を比べてしまい、もっと幸せ生活があったんじゃないかと思ってしまう。

旦那を選んで子供を産んだのは自分だし、後悔したってしょうが無いんだけど、それでもたまにモヤモヤして眠れなくなる。

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「不完全性定理」

ゲーデルの「不完全性定理」を非常に大雑把に言うと、「論理とかいうものに完全性などない」と言えるのではないかwww (数学の場合は「設定」によって部分的完全性を得るだけだろう。たとえば、ユークリッド平面と非ユークリッド空間の違いのようなものだ。)
下の文章は、「不完全性定理」を日常語で説明したもので、まあ、私も真剣に読んではいないが、思考訓練のネタに転載しておく。

(以下引用)

【日常言語による不完全性定理】

【まえがき】

 このページでは、 正直者のパラドクスを用いた日常言語による不完全性定理の証明を行います。 正直者のパラドクスは、「私は正直者です」という文の真偽を考えると起こります。 もし、「私」が正直者であれば、この文は真となって何の矛盾もありません。 しかし、「私」が嘘つきだったとしても、 嘘つきが自分を正直者と嘘をつくことに何の矛盾もありません。 つまり、「私は正直者です」という文は、真と考えても偽と考えても矛盾せず、 どちらか分からないのです。ここでは、「私」が健全であるなら、 「私は正直者です」が証明も反証もできないこと、 すなわち第一不完全性定理を証明し、それを用いて第二不完全性定理も証明します。

 ただし、ここで証明する第一不完全性定理は、 無矛盾ならば不完全という形ではなく、健全なら不完全という形です。 また、第二不完全性定理は、 無矛盾なら無矛盾であることを証明できないという形ではなく、 健全なら健全であることを証明できないという形の定理です。 健全性とは無矛盾性より強い性質で、証明できるなら真という性質です。 健全なら無矛盾ですが、無矛盾なら健全とは限りません。 しかし、健全性の成り立たない理論は、たとえ無矛盾だとしても使い物にならないので、 論理の信頼性を議論するという意味では、この形の定理の方が重要です。

【準備】

 まず、いくつか準備をしましょう。 「私」という代名詞と正直者という概念にはいくつかの解釈があるのですが、 ここでは第二不完全性定理を証明するのに必要な解釈を採用します。 以下では「私」は人であるかのように書きますが、 実際には公理系を指すと思ってもらうと分かりやすいかもしれません。 想定するのは日常言語を交えた自然数論の公理系です。 自然数論程度の記述能力があれば、 「私は正直者です」という概念を表現できるはずです。 これは厳密には証明が必要なことですが、ここでは認めてしまいましょう。

 次に、「私」とは正直者かあるいは嘘つきのことです。 正直者でも嘘つきでもない人はこの世界にはいません。 正直者とは自然数論の真なる文のみを発言する人のことです。 正直者が発言できる文のことを正直者の発言可能文と呼ぶことにします。また、 嘘つきとは自然数論の偽なる文のみを発言する人にことです。 嘘つきが発言できる文のことを嘘つきの発言可能文と呼ぶことにします。 正直者の発言可能文のうち、証明可能な文のことを定理と呼びます。 嘘つきの発言可能文のうち、反証可能な文のことを反定理と呼びます。 明らかに、 定理は正直者の発言可能文の部分集合であり、 反定理は嘘つきの発言可能文の部分集合です。

 また、定理と反定理の間には以下の関係があります。 もし、命題 A が定理ならば、not A は反定理です。 もし、命題 A が反定理ならば、not A は定理です。 さらに、次の条件が成り立つとします。 正直者は正直者の発言可能文の全てを発言する必要はありません。 定理の全てを発言すれば十分です。 嘘つきは嘘つきの発言可能文の全てを発言する必要はありません。 反定理の全てを発言すれば十分です。 つまり、どちらにも黙秘権があります。 以上で準備は終わりです。

【第一不完全性定理】

 これから第一不完全性定理の証明を始めます。 まず、「私は正直者です」が定理であると仮定します。 すると、「私は正直者ではない」が反定理になるはずです。 しかし、「私は正直者ではない」は嘘つきの発言可能文ではありません。 反定理は嘘つきの発言可能文の部分集合なので、 「私は正直者ではない」は反定理ではありません。 これは矛盾なので、「私は正直者です」は定理ではありません。

 次に、「私は正直者です」が反定理であると仮定します。 すると、「私は正直者ではない」が定理になるはずです。 しかし、「私は正直者ではない」は正直者の発言可能文ではありません。 定理は正直者の発言可能文の部分集合なので、 「私は正直者ではない」は定理ではありません。 これは矛盾なので、「私は正直者です」は反定理ではありません。

 「私は正直者です」は定理でも反定理でもないので、 証明することも反証することもできません。 これで第一不完全性定理が証明できました。ただし、「私」が矛盾する場合、 つまり「私」が従っている自然数論が矛盾する場合は、 全ての命題が証明かつ反証できるので、上記の証明は成立しなくなります。 したがって、上記の証明には、「私」は無矛盾であるという条件が必要です。 実際には、正直者という概念を表現するのに、より強い健全性が必要です。 これは、「私」は正直者か嘘つきかのどちらかで、 正直者でも嘘つきでもないという状態がないという条件と同値です。

【第二不完全性定理】

 これから第二不完全性定理の証明を始めます。「私は正直者です」が真だとします。 すると、「私」の発言は全て正しいことになります。 ここで、「私」の定理を任意に1つ選び命題 A とすると、 定理は正直者の発言可能文の部分集合なのですから、A は必ず真になります。 定理は証明できる文のことなので、これは証明できるなら真ということです。 よって、「私は正直者です」という文は健全性を表す文です。

 上記、第一不完全性定理の証明により、 「私は正直者です」は証明も反証もできませんので、 健全性は証明も反証もできません。これで第二不完全性定理が証明できました。

【あとがき】

 このページでは正直者のパラドクスを用いて、 第一不完全性定理と第二不完全性定理をきわめて簡単に証明してしまいました。 特に難しい数式や概念を用いているわけではないので、 たぶん間違いはないと思いますが、証明した当の本人ですらマジか? という心境です。何かとんでもない見落としがある可能性もあるので、 参考にする人は十分に検証してくださいね。

【追記】

 その後詳しく考えて、何でこんなに簡単に不完全性定理が証明できるのか、 そのカラクリが分かりました。日常言語では「私」という代名詞が、 正直者も嘘つきも指すことができます。しかし、数学の言語では、 正直者な私と嘘つきな私を使い分けてやらねばなりません。 つまり、「私は正直者です」という命題を論理式に書き換えてやると、 正直者バージョンと嘘つきバージョンの2通りの論理式ができるということです。 なるほど、それだと数学の言語では上記の証明は通りませんね。 そのほか、無矛盾性と健全性の違いなども影響しているようです。

 この教訓は、日常言語の表現力は数学の言語より強力で、 日常言語では簡単に証明できることでも、 数学の言語で簡単に証明できるとは限らないということですかね。 漠然とした感想ですが、文脈依存と文脈自由の違い等が原因ではないかと思います。

 それにしてもこのネタは危険ですね。 私自身私にまんまとだまされてしまいましたが、 素人をけむに巻くにはうってつけのネタですね。コワいコワい。

精神の欠落感と「恋愛依存症」

非常に頭の良い書き手である。専門家でもこのレベルの分析力を持った人間は少ないのではないか。大半はほとんど専門書で学んだ知識だけで患者に対する「なんちゃって精神科医(心療内科医)」だろう。
しかし、下の記事のような女性が、書き手が知っている中だけで「何人かいる」というのが驚きである。何人かいるなら、こういう心理は女性のひとつの性格パターンであって、異常者でも何でもない、と言えるのではないか。
で、私が思うに、こうした人間は性欲のためにセックスをしているのではなく、異性との関係は誰か(相手は実は誰でもいい)に何かを与え、与えられる、という感情が主なのではないか。つまり、「自分という存在単独では満足できない」のだろう。自分に存在意義を感じていないわけだ。だからこそ努力によって技巧的な社交性を身に付けているとも考えられる。
こういう人間が或る日突然、仏道や新興宗教に入り込むのではないか。
ついでに言えば、たいていの男はこういう女性を「公衆便所」と見て軽蔑するだけである。もちろん、便利だから「使用」はするwww

(以下「はてな匿名ダイアリー」から転載)

自罰的な恋愛しかできない友達

今まで出会ってきた女友達の中には破滅的な恋愛ばかり繰り返す人が何人かいる。

大抵は天真爛漫で、はきはきと話すことができ、好きなものがあって目標に向かって行動できる魅力的な子である。綺麗な顔立ちであることが多いが、どんな人にも差別することなく対等で「一軍」に属していることは少ない。服装無難ユニクロ系でモテファッションスカートは好まない。Twitter等でよく見る「メンヘラ」のテンプレートとはかなり異なっている。

しかし、恋愛や好みの異性が絡んでくると自分軸を失いたちまちメンヘラ化してしまう。サークルクラッシャータイプは、浮気と略奪を繰り返し、属しているコミュニティ破壊する。ある程度自分の属するコミュニティを聖域として捉えるタイプは、行きずりの男と寝まくる。普通の男ではなく、2回り以上年上のオヤジ、素性の知れない外国人、明らかなDV男など通常は考えられないような男と。男と寝ることへの抵抗が小さく、困窮しているわけでもないのに風俗嬢AV女優として働いている人もいる。

また、本人たちもそれが異常であることを理解した上で自罰的な恋愛に走る傾向がある。誠実で優しい彼氏と付き合うとしばらくは精神的に安定するのだが、最終的には誠実でも優しくもない男への浮気に走ってしまうのである。どの場合も止めても絶対に聞いてくれることはない。セ●クスが好きで楽しいからやっちゃうだけだと言いながら、結局傷ついてよく泣いている。人間関係自罰的行動をするからわかりにくいが、リストカットをしている人と行動原理は同じなのかもしれない。

偶然ではないと思うのだが、彼女たちは小さいころから父親がおらず母親男性依存気味な家庭環境で育っていることが多い。何かしらの強い不満があるときに、人間普通その不満を直接取り除くように働きかける。しかし、自分自身にはどうしようも解決できない不満があるとき人間は「否認」という防衛機制をとることがあるらしい。家庭環境子供にとって解決不可能な不満の典型例で、そういうったとき子供がどういう反応するかはいくつかあるが、一例として不安や罪悪感を生じさせた行為をやり直したり、反対の行為をとって無効にしようとすることがある。これが、恋愛体質に陥るメカニズムの一つだと思う。だから、本当に必要なのは良い男でも理解のある友達でもなく、「人間関係の不満 (生い立ち) を、同じ人間関係 (特に男女関係) で自罰的行動をすることで和らげる」以外の生き方を教えることかもしれない。恋愛方向性で真っ当に解決しようするとか、親身になって話してあげるとかそういうレベルの話では解決することはできず、医療の力が必要になるかもしれない。

何が彼女たちにとっての救いでどうすれば自傷行為のようなセ●クスを止めてあげられるのかずっと考えていた。彼女たちはたぶんとても寂しがりやだ。でもその寂しさは私たち女性いくら親身になっても埋められるものではないのだと思うと、どうしたらいいのかわからずとても悲しい。相手に言われるがまま避妊もしないことがあり、シングルマザーになって歴史を繰り返す可能性も高いと思っている。魅力的な女性であり、いくらでも幸せになれるチャンスがあるからこそもったいないとも思う。ただしあくま他人恋愛沙汰なので首をつっこんでいいのかもよくわからず悩み中である





「ヒロインとは何か」

「はてな匿名ダイアリー」のコメントというか、スレッドというか、呟きだが、こういう「言語化できない感情や思考」を言語化する試みは「微細思考」マニアとしてはチャレンジングなネタなので、少し考えてみる。
発言者が「(そこは)普通にヒロインでいい」という部分に引っかかったのはなぜか、という問題だ。それにモヤモヤを感じたのは

1:ヒロインというものが存在すること自体へのモヤモヤ
2:ヒロインという存在が軽視されていることへのモヤモヤ
3:ヒロインという存在が重視されていることへのモヤモヤ
4:「男の子同士で付き合う」ことが軽視されていることへのモヤモヤ

のどれかだと思う。「男の子同士で付き合うことが重視されていることへのモヤモヤ」は無いだろう。なぜなら、その問題のドラマではLGBT(性的多様性)への配慮(重視)として「男の子同士で付き合う」話にしたのだからだ。(「友人の発言」は、「男の子同士で付き合うことを軽視した発言」なので、コメント発言者、つまり書き込み者がBLファンの場合、4の可能性は一番高くなる。)
上記の1の場合が一番「モヤモヤ感」の説明が難しそうだ。3は1と似ているが、1はより根源的なモヤモヤで、仮に発言者が女性(おそらくそうだろう)なら、なぜ「ヒロインというものが存在すること」を不快に思うのか、それは、通俗芸術でのヒロインの扱いが「いい加減である」つまり、男性ヒーローの刺身のツマでしかなかったという歴史を考慮する必要があるだろう。
まあ、これ以上の分析はしないが、とりあえず、「思考が困難な問題は、問題を細分化してみる」というデカルト的手法の事例として書いてみた。
(補記)コメント発言者(書き込み者)が男である可能性については考察しない。そういう「ホモ心理」は苦手なのであるwww 私は「友情」は尊重するが、それに性的感情が混じるのは不愉快に思う人間だ。たとえそういう感情があっても、断固として自分で自分の心の中のそういう感情を「切り捨て」ないと友情が汚れる。昔の侍の「衆道」も大嫌いだ。


(以下引用)

結構長い付き合いになった友だちが好きなドラマの話をしてて

多様性忖度したのか男の子同士で付き合うんだよね、そこは普通にヒロインでいいのに」

って言ったのに対して、なんかすごいもやもやしている

めちゃくちゃ言語化しづらい

同性同士の恋愛が~っていうより、「普通にヒロインでいい」のほうに引っかかってる

なぜ組織ではヤクザ的人間が成り上がるか

朝起きてしばらくしてからぼんやり考えていた浮遊思考だが、フェミニズムと共産主義、いや党派的活動全体に共通する傾向の問題だ。場合によってはこれは宗教にも通じる。
それは、「協調主義」「対話での解決」「冷静な意見」が嫌悪され、戦闘的姿勢の人間がその党派の主導権を握る傾向がある、ということである。これは前の戦争での日本の政治や軍部内の派閥的闘争でも見られた傾向であり、特に軍部では、冷静な意見が「敗北主義」と見做され、あの悲惨な敗戦に至ったのである。
これは人間性の基本的傾向だと思うが、集団の中では「強い」という印象を与える人間が、たとえ強引な性格でも多くの賛同者を得る傾向がある。なぜかというと、「戦闘を好まない=弱さ」だと見做されるからであり、自分が弱いと他者から見られることを人は恐れるからだろう。これは女性集団であっても、党派というものが党派の利益を目指しての「社会的闘争の集団」であるから同じ傾向になる。
これが、なぜヒトラーやスターリンのような人間、あるいは暴力的な人間が集団のトップになるのか、という理由である。ある人物の頭の良さは頭の悪い人間には分からないし、その言うことを聞いて良い結果を出すまでは、その頭の良さの証明はできないから、戦闘が始まるまでは暴力的で好戦的な人間が主導権を握るのである。そして、戦闘で勝利を収めると、それが偶然の勝利であっても、その「暴力的人間」は「頭もよい」と評価されることになる。
たとえば、新選組の「芹沢鴨」など、なぜあのような狂人的な人間が初期新選組の隊長だったのか不思議であるが、それは彼の暴力性が他の隊員を圧倒したからだと思われる。そういう人間を相手には議論など成立しないから、従うか、相手を殺すしかない。だから、反芹沢鴨派が(芹沢鴨派に殺されないためには)徒党を組んで暗殺するしかなかったのである。