忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

トロッコ問題としての「夢」

某アニメを見ていて思ったのだが、自分の名前のついた少惑星か何かを見たいから月に電波望遠鏡か何かの大望遠鏡を作りたい、あるいは作らせたいという夢を持つ天文学者の夢は、多くの人の労力と膨大なカネをかけても実現するに値する夢なのだろうか。
その膨大なカネがあれば、何十人もの、あるいは何百人もの人間の命が確実に救えるのである。いや、ひとりの命でもいい。月の望遠鏡は、むざむざと死んでいく人間の命より貴重な価値があるのだろうか。月の望遠鏡は、それほど未来の人類の幸福や生命維持に寄与するものだろうか。

そして、その天文学者と子供のころに「自分は月に行く」と約束したアニメ主人公の夢は、はたして他のすべての宇宙飛行士志望の人間の夢より優先される価値があるのだろうか。子供のころの夢を大人になっても持ち続けていることは、そんなに素晴らしいことだろうか。月に立ちたいという夢は、隣家の貧困老人を助けるより大事な夢だろうか。いや、老人など汚いだけだし、助ける義務はない、という気持ちは分かるが、ひとりの人間の生命を一日でも伸ばすのは、月に行くよりははるかに素晴らしい行為なのではないか。いや、猫一匹の命でも、誰かが月に降り立つより、はるかに貴重なのではないだろうか。

まあ、そう言いながらも、私は昔は「ベートーヴェンの第七交響曲がこの世に生まれることは人類の半分の生命より価値がある」と思っていたのである。優れた芸術作品は、人類が月に降り立つよりはるかに価値がある。月など、空にあればいいのであり、人間の足が汚す必要などない。特に、月に降り立つ人間の動機が単なる功名心(それを夢と言ってもいい)であるとすればなおさらだ。
PR