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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「地中海殺人事件」のこと

まあ、雑談なのだが、最近やっているテレビゲームが、この先どう進めればいいのか分からなくなり、レベル上げばかりしていると眠くなるので、気分転換にアマゾンプライムで昔の映画を見ると、これが実に素晴らしい掘り出し物だった。
アガサ・クリスティの推理小説を映画化した「地中海殺人事件」という作品だが、品のいい娯楽作品としては完璧なのではないか。たとえば、ミュージカルで言えば「バンドワゴン」的な完璧さである。(「雨に唄えば」は傑作だが、途中にジーン・ケリーを引き立てるためだけの退屈なナンバーが長々と続いたりする。)
監督はガイ・ハミルトンで、アクション映画の名匠(たしか「ナバロンの要塞」の監督だったと思う。)だが、こうした「推理小説の映画化」という困難な作業にこれだけの手腕を示したのが驚きだ。まあ、昔の映画監督は、ウィリアム・ワイラー(「ローマの休日」「ベン・ハー」その他)のように、どんなジャンルでも名作に仕上げる「職人監督」が多かった気がする。
で、「地中海殺人事件」は邦題がダメダメなせいか、アマゾンプライム内での評価は「星2.5」という低評価になっていて、気の毒なのでここに書いた次第である。
映像がきれいで、話が面白く、音楽も素晴らしく、俳優たちの演技もいい。どこをどう見れば「星2.5」などという評価になるのか。
そして、何より凄いのは、推理小説にはお決まりの「ご都合主義」がほとんどなく、推理の内容に整合性が見事にあることだ。文章で書いたらいくらでも読者は誤魔化せるが、映像だとそうはいかない。それを、映像を見せながら推理内容に破綻が無い、というのは実に凄いことである。
まあ、細かく言えば、「犯行の動機」が最後近くまで「見えない」ので、動機面から推理することが好みの人はアンフェアだと思うかもしれない。しかし、その程度は、推理小説やそれに基づく映画では仕方がないだろう。
ちなみに、原題は「Evil under the sun」で、「太陽の下の邪悪」とでも訳すべきだろうか。単に殺人というのではなく、まさに邪悪の塊りのような犯人像が最後に暴かれ、実にいい題名だと思う。
ポワロはピーター・ユスチノフで、デービッド・スーシエより愛嬌があって私は好きだ。ほかに、マギー・スミスとかジェーン・バーキンとか、魅力的な俳優が出ている。
そのマギー・スミスが、昔から仲の悪かったスター女優のショーダンサー時代を他の人々に紹介して、「彼女は誰よりも高く足が上がった」と言い、それでその女優が満足げな顔をすると「誰よりも大きく足を広げた」(つまり、誰とでも寝た)と続けてムッとさせるのが笑わせた。
なお、作中の音楽は、コール・ポーターの名曲の幾つかをアレンジしたもので、レトロ感覚が気持ちいい。




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死者との接触が不可避の商売

おそらくイタリア在住の人かと思われるツィッター(のリツィート)から転載。
こういう事態になっても宗教信者の神への信仰は無くならないのだろうか。
まあ、「天に召されるのも神の思し召し」なのだろう。


(以下引用)

カトリックでは、危篤に近い段階で司祭(神父)を呼び、逝去の前に「聖油の秘蹟」=塗油式を行うが、その際にコロナウイルスに感染したくさんの神父が亡くなっている。ベルガモでは15人の司祭が亡くなった。ここ3日間でミラノも3人の司祭を失った。パルマは6人の司祭と次々に


漫画家の画力とデッサン能力

根拠のない話をするが、「デッサンが上手い人」で漫画の大家になった人は少ない気がする。大友克洋などがその少数の例だと思うが、その代わり人物キャラの顔に魅力がまったく無い。まあ、それは意図的なものかもしれない。「アジア顔」を美的に誇張しないで描いたのは戦略的に選んだことなのだろう。あるいは美形キャラを描くのが苦手、もしくはつまらないと思ったからではないか。美形キャラでなくても、人物キャラで魅力のある顔がまったく存在しない漫画というのも珍しい。美形キャラをほとんど描かなかった平田弘史でも、魅力のある顔は描いたのである。(なお、漫画「AKIRA」の題字は平田弘史に頼んだものだと言う。平田弘史は書家としても優れている。)
いずれにしても、漫画は「頭の中にあるイメージ」を外に出すもので、「外界(外物)を見たままに描く」デッサンとは似て非なるものであるというのが面白い。

なお、下のツィートの「予備校」とは美術学校予備校のこと。

(追記)ブログ作成画面ではコピー状態がおかしいが、載せてみる。下のツィートは「芸術家のはしくれ」らしいが、その絵の実作過程動画を見ると、精密画が得意のようだ。ツィッターには、この手の「スーパーリアリズム」作成動画はたくさん見られる。そして、その大半に言えるのは、精密に描く技術は凄いが、描かれた内容が、「なぜこれを描いたのか」が理解できない、まったく魅力の無い対象であることだ。つまり、「お前の美意識はどこにある」と言いたいような、魅力の無い人物や物の絵がほとんどなのである。優れたクリエイターの最大の要件は「観察する能力」「作る能力」以前に、「感動する能力」「審美眼」にあるのではないか。

自分を芸術家の端くれだと思うのなら、常にブルーオーシャンを求めて動くべきだ。 あらゆる業界が右肩下がりの今の日本は新しい勢力が台頭しやすい土壌が整っている。 若手にとってこんな良い時代はないと僕は思う。((
竹熊健太郎《地球人》
@kentaro666
漫画家は車を描けと言われたら、とりあえず車に見えるものを描くことができますが、なまじデッサンをやっている人は逆に描けないんですよ。予備校でデッサン一位の友達に「お前よく何も見ないで描けるな」と言われたことがあります。



組織は頭から腐る

おそらく電通のネットマガジンだと思われる「電通報」というサイトから転載したが、日本を腐らせた最大の犯罪組織である電通がこういう記事を書いているのが面白い。国家は腐らせたが、電通自体は腐っていない、と言いたいのか。
なお、「魚は頭から腐る」は西洋のことわざだと書いてあるが、「鯛は頭から腐る」というのは、日本で作られたのだろうか。そして、実際に、魚、特に鯛は頭から腐るものだろうか。
ちなみに、「鯛は頭から腐る」をグーグル検索すると、辻本清美批判記事がずらっと並ぶ。検索エンジンが政権に抑えられていることがよくわかる。


(以下引用)


「組織は頭から腐る」

魚も組織も頭から腐る

「魚は頭から腐る」は西洋のことわざですが、企業や組織でも「組織は頭から腐る」という言葉が使われます。「頭」とは、社長など組織長を示しており、社長の社内での無理な業績要求や、目標達成を過度に追求する姿勢・発言が、組織(企業)を腐らせることを表現しています。要するにこの言葉は、危機管理におけるトップの重要性を訴えている言葉なのです。

実際に、われわれが企業の緊急時広報を支援している現場においても「上からの強い要請があった」「物を言えない社風が…」などの声が漏れ伝わってきます。

トップの過度なプレッシャーから組織文化が壊れていき、世間の常識と企業の常識にズレを生じさせ、結果、不正が行われてしまう。こうしたことは、多かれ少なかれ記事を目にしている企業人であれば感じたことがあるのではないでしょうか?

組織の頭(トップ)というのは、強いリーダーシップがあるものであり、その発言や文章は、自身が考えている以上に強い影響力があるということを、経営者や危機管理担当者はあらためて強く認識すべきでしょう。近年はメールやLINEなどでの指示や命令も増えていると思います。しかしテキストでのコミュニケーションは、淡泊になりがちでニュアンスが伝わらず、高圧的指示に受け止められやすいコミュニケーション手法であることを、あらためて考慮する必要があると考えます。

寝仏陀と寝豚

「ねぷた(ねぶた)祭」の「ねぷた(ねぶた)」の意味が知りたくて調べたが、定説は無いようだ。青森方言に、それに近い言葉は無いのだろうか。私は「寝仏陀」などはどうかと考えている。つまり、東南アジアでよく見る「寝釈迦」を最初は祭の象徴に描いていたのだろうが、その後いろいろな絵が出てきたという説だ。まさか「寝豚」ではないだろうwww


(以下引用)


名称[編集]

「ねぶた」「ねぷた」の語源には諸説あるが、「眠(ねぶ)たし」[5]、「合歓木(ねむのき、ねぶたのき、ねぶた)」「七夕(たなばた)」「荷札(にふだ)」などに由来する説がある[6]

青森市や青森市周辺と下北が「ねぶた」なのに対し、弘前市を中心とした津軽地方では「ねぷた」と呼ばれるところが多い。

起源[編集]

「ねぶた」の起源にも諸説あるが、禊祓に由来するという説が現在では有力である[6]。さらに、除災行事としての「眠り流し」や星祭りのひとつである「七夕」、仏教行事と習合した民俗行事「お盆」など、様々なものから影響を受けて現在のようになったと考えられている。