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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

まさに「独楽」の時代か

カンドウヨシヒロという人のツィートである。
まあ、私のブログなど、「独りで(独りを)楽しむ」のがテーマだから、時代を先取りしていたわけだwww
ちなみに、独りを楽しむには想像力が必要で、馬鹿や無教養な人間にはできない。これまでは「陰キャラ」と散々馬鹿にされてきたのが、そういう「独楽」の人々である。

(以下引用)


ニュージーランドの警察公式アカウント 「史上初。テレビの前に寝転がって何もしないだけで、人類を救える」 私も人類救済に努力します。


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思い出の「自然淘汰」

DORAという人のツィートだが、「自然淘汰」という言葉がこの文脈で出てくるのが面白いので転載した。誤記なのか、意図的な使用なのか分からないが、まあ、「記憶された事柄同志で自然淘汰が起こる」というのは案外科学的な、あるいは理系的な発想かもしれない。
ただし、それは「適者生存」ではなく、むしろ、後々自分を苦しめる記憶が一番残ったりする。まあ、「強力なものが残る」意味での適者生存である。


(以下引用)


「愛と死を見つめて」これだけ本が売れちゃうと皆 脳内 で物語を理想化するんだろうな。作者が後に他の女性と 結婚したのも自然淘汰で第三者が非難することでは ないと思いますね。本当にバカはいつの世にも大勢 いますね。

「地中海殺人事件」のこと

まあ、雑談なのだが、最近やっているテレビゲームが、この先どう進めればいいのか分からなくなり、レベル上げばかりしていると眠くなるので、気分転換にアマゾンプライムで昔の映画を見ると、これが実に素晴らしい掘り出し物だった。
アガサ・クリスティの推理小説を映画化した「地中海殺人事件」という作品だが、品のいい娯楽作品としては完璧なのではないか。たとえば、ミュージカルで言えば「バンドワゴン」的な完璧さである。(「雨に唄えば」は傑作だが、途中にジーン・ケリーを引き立てるためだけの退屈なナンバーが長々と続いたりする。)
監督はガイ・ハミルトンで、アクション映画の名匠(たしか「ナバロンの要塞」の監督だったと思う。)だが、こうした「推理小説の映画化」という困難な作業にこれだけの手腕を示したのが驚きだ。まあ、昔の映画監督は、ウィリアム・ワイラー(「ローマの休日」「ベン・ハー」その他)のように、どんなジャンルでも名作に仕上げる「職人監督」が多かった気がする。
で、「地中海殺人事件」は邦題がダメダメなせいか、アマゾンプライム内での評価は「星2.5」という低評価になっていて、気の毒なのでここに書いた次第である。
映像がきれいで、話が面白く、音楽も素晴らしく、俳優たちの演技もいい。どこをどう見れば「星2.5」などという評価になるのか。
そして、何より凄いのは、推理小説にはお決まりの「ご都合主義」がほとんどなく、推理の内容に整合性が見事にあることだ。文章で書いたらいくらでも読者は誤魔化せるが、映像だとそうはいかない。それを、映像を見せながら推理内容に破綻が無い、というのは実に凄いことである。
まあ、細かく言えば、「犯行の動機」が最後近くまで「見えない」ので、動機面から推理することが好みの人はアンフェアだと思うかもしれない。しかし、その程度は、推理小説やそれに基づく映画では仕方がないだろう。
ちなみに、原題は「Evil under the sun」で、「太陽の下の邪悪」とでも訳すべきだろうか。単に殺人というのではなく、まさに邪悪の塊りのような犯人像が最後に暴かれ、実にいい題名だと思う。
ポワロはピーター・ユスチノフで、デービッド・スーシエより愛嬌があって私は好きだ。ほかに、マギー・スミスとかジェーン・バーキンとか、魅力的な俳優が出ている。
そのマギー・スミスが、昔から仲の悪かったスター女優のショーダンサー時代を他の人々に紹介して、「彼女は誰よりも高く足が上がった」と言い、それでその女優が満足げな顔をすると「誰よりも大きく足を広げた」(つまり、誰とでも寝た)と続けてムッとさせるのが笑わせた。
なお、作中の音楽は、コール・ポーターの名曲の幾つかをアレンジしたもので、レトロ感覚が気持ちいい。




死者との接触が不可避の商売

おそらくイタリア在住の人かと思われるツィッター(のリツィート)から転載。
こういう事態になっても宗教信者の神への信仰は無くならないのだろうか。
まあ、「天に召されるのも神の思し召し」なのだろう。


(以下引用)

カトリックでは、危篤に近い段階で司祭(神父)を呼び、逝去の前に「聖油の秘蹟」=塗油式を行うが、その際にコロナウイルスに感染したくさんの神父が亡くなっている。ベルガモでは15人の司祭が亡くなった。ここ3日間でミラノも3人の司祭を失った。パルマは6人の司祭と次々に


漫画家の画力とデッサン能力

根拠のない話をするが、「デッサンが上手い人」で漫画の大家になった人は少ない気がする。大友克洋などがその少数の例だと思うが、その代わり人物キャラの顔に魅力がまったく無い。まあ、それは意図的なものかもしれない。「アジア顔」を美的に誇張しないで描いたのは戦略的に選んだことなのだろう。あるいは美形キャラを描くのが苦手、もしくはつまらないと思ったからではないか。美形キャラでなくても、人物キャラで魅力のある顔がまったく存在しない漫画というのも珍しい。美形キャラをほとんど描かなかった平田弘史でも、魅力のある顔は描いたのである。(なお、漫画「AKIRA」の題字は平田弘史に頼んだものだと言う。平田弘史は書家としても優れている。)
いずれにしても、漫画は「頭の中にあるイメージ」を外に出すもので、「外界(外物)を見たままに描く」デッサンとは似て非なるものであるというのが面白い。

なお、下のツィートの「予備校」とは美術学校予備校のこと。

(追記)ブログ作成画面ではコピー状態がおかしいが、載せてみる。下のツィートは「芸術家のはしくれ」らしいが、その絵の実作過程動画を見ると、精密画が得意のようだ。ツィッターには、この手の「スーパーリアリズム」作成動画はたくさん見られる。そして、その大半に言えるのは、精密に描く技術は凄いが、描かれた内容が、「なぜこれを描いたのか」が理解できない、まったく魅力の無い対象であることだ。つまり、「お前の美意識はどこにある」と言いたいような、魅力の無い人物や物の絵がほとんどなのである。優れたクリエイターの最大の要件は「観察する能力」「作る能力」以前に、「感動する能力」「審美眼」にあるのではないか。

自分を芸術家の端くれだと思うのなら、常にブルーオーシャンを求めて動くべきだ。 あらゆる業界が右肩下がりの今の日本は新しい勢力が台頭しやすい土壌が整っている。 若手にとってこんな良い時代はないと僕は思う。((
竹熊健太郎《地球人》
@kentaro666
漫画家は車を描けと言われたら、とりあえず車に見えるものを描くことができますが、なまじデッサンをやっている人は逆に描けないんですよ。予備校でデッサン一位の友達に「お前よく何も見ないで描けるな」と言われたことがあります。