耕作を知らなかったり、効率の悪い農業しか知らない集団の中に、効率の良い近代的な農業を携えた集団が入り込むと、数世代で旧集団を駆逐してしまうわけです。アメリカインディアンとか典型的にそうで、別に虐殺で減ったわけじゃない。新しい効率的な農業集団の人口増加率が高いので、生産性の低い集団はあっという間に少数派に転落してしまうのだ。古墳時代の出雲人は、同時代に関東で見つかった人骨や現代の日本人よりも、縄文人に近い遺伝子を持っている――。出雲市で発見された古代人骨のDNA解析から分かった。古代出雲では、大陸から来た弥生人との混血が進んでいない可能性がある。 おいらの持論なんだが、水稲栽培技術を携えて日本に渡ってきた集団と、以前から住み着いていた水稲栽培技術を持たない集団とは、激しい抗争や戦闘はなかったようなんだが、それは依って立つところのエリアが違っていたからで、低湿地の足がズブズブ埋るな土地というのは、水稲栽培にしか使えないので、喧嘩にならなかった。縄文人はそれこそ「海彦・山彦」で、鳥獣、魚、木の実などを採取したり、山麓で焼畑農業やったり。低湿地には興味がない。それが、2000年かけてゆっくりと融合して来たのが、今の日本です。 |
Do you see the boy?
2月8日(土)
漱石の「猫」の中に、苦沙弥先生と迷亭が囲碁をやっていて、迷亭が「待った」をし、「ついでにこの石も引き上げてくれ」と言うのに苦沙弥が「図々しいぜおい」と不満を述べると迷亭が「ドゥユーシーゼボイ(Do you see the boy)か」と洒落を言う場面がある。
子供のころに「猫」を読んだ時、私はこの会話がなぜ成立するか理解できなかったのだが、洒落というものが、まったく異なる言葉を無理に同一視する「遊び」であることが理解できなかったからだった。中学校くらいになって洒落を理解するようになっても、「猫」のそれは無理な洒落だなあ、と思っていたが、それは「the」は「ザ」、「boy」は「ボーイ」と発音するとしか思わなかったからである。
そしてその疑問は中学から高校と進んでも解消されなかった。と言うのは、日本の英語教育では、「the」は「ザ」、「boy」は「ボーイ」と教えられ続けられたからである。
ところが、英和辞書を引くと、「boy」の発音は明らかに「ボイ」である。それがなぜ日本の英語教育の中では「ボーイ」と教えられ続けたのか。まあ、英語ネィティブの発音も実際は「ボーイ」と伸ばして発音する事例が多いのかもしれないが、よくは知らない。
そもそも、「I am a boy 」「He is a boy」などという会話は現実生活ではほとんど聞くことも無いだろうから、日本人が英米人の「boy」の発音に接する機会はほとんど無かったのではないか。
「the」の方は、「ザ」か「ジ(ジー)」と発音されるのが通例だろうが、続く言葉の語頭が母音か子音かで発音が変わるのを面倒に思った明治人はそれを単語のローマ字読みで「ゼ」と発音したのかもしれない。そもそも、英語の母音の発音には「曖昧母音」が多いのではないか。