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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

敵(商売敵)を信頼するビジネスマンww

私の兄が脳溢血で倒れてリハビリの意図で書いているブログの記事だが、私自身は内情をまったく知らない(出店したひとつのお飾り店長だったが、毎日の売り上げも知らなかったwww)ので、書かれた内容への感想は多くは書かない。ただ、出来事の大筋の備忘としてここに保存しておく。私自身は兄の「甘さ」(防衛姿勢の弱さ)にやや批判的なのだが、攻撃一辺倒のビジネス姿勢だったからこそ短期間であれほどのビジネス展開ができたのだろう、とは思う。まあ、安土城築城までの織田信長のようなものだ。「裏切り」も何も、他人(商売敵で、しかも喧嘩別れした相手も含む)を信頼して仕事をするビジネスマンなど、笑止だろう、と思う私のほうがおかしいのだろうか。まあ、一時だけでも暴れ回った(その背後にサンエーの名前が働いていたわけだ)エネルギーは凄いと思う。
いい加減、折田喜作や琉銀への恨みは忘れたほうが精神的にもいいと思うが、その恨みが生きるエネルギーになっている可能性もあるので、何とも評し難い。

(以下引用)


想像の世界(312)誰も知らない中山誠の倒産の真実は、実に裏切りに満ちていたのだ。







昔、新聞紙上を騒がせ、兄にも大きな負担をさせてしまい、ついには離婚にまで繋がってしまった僕の倒産について、少し詳しく書いておこう。

前年度の売り上げが13億円と好調だったプラザイン石垣を始め、服は折田本店、ショッピング食品館の西里店、ホームセンター、会員制クラブコザなど、いずれの店も順調で全部担保なしで、これを1年数ヶ月でオープンさせたのだが、1度も資金不足、資金ショートに苦労した事はなかった。

つまりトータルで売り上げが好調なわけで、支払いに不足することはなかったのだ。



それで今度は琉球銀行から相談された。

松村さんのビルが完成したが、借り手がいないと言うのだ。

今考えても馬鹿げた話だが、ワンフロア150坪の4階建ての、宮古島としては最大のビルを作ったのだが借り手がいない、つまり予定なしで着工していたのだ。

資金はすべて琉銀で、これは回収出来ないと僕に泣き付いてきたわけだ。

だが僕は断った。

つまり僕の店はすべて好調に回ってはいるが、資金はショートしないが貯まってはいない。

つまり、もう一軒大型店を作る余裕は無いのだ。



すると琉銀の仲宗根孝副長は、”いくら融資すれば出来ますか”、と言うので、”そうだな1億3000万円は必要だな”、と答えると、”分かりました。これは琉銀宮古支店の問題ですから、絶対無担保で融資しますので、店をオープンさせてください”、と言うのだ。

その後、下地正吉支店長とも話し合ったが、”必ず出す”、と約束するので、僕にとっても渡りに船の良い話となり、大喜びで出店の計画を始めたのだ。

これまで既にニュー・サンエイとして20億円余りの売り上げがあり、沖縄初のコンビニエンスストア、マイショップとして約5億円が、直営店フランチャイズで2店舗展開中で、新店舗プラザ・イン宮古は最低でも10億円が予定されていたので、計、(株)ニュー・サンエイとしては年商30億円余りで、マイショップとして5億円 + フランチャイズとなり、わずか2年で沖縄県では、サンエー、ダイナハ、山形屋、リウボウに次いで第4位に躍り出て、三越を抜くのだ。



それを2年で実現したスピードは想像を絶するもので、驚異的と言わざるを得ない。

コザの会員制クラブも着々と準備中で、敷地2500坪は借地ながら小高い丘をまるまる1つ使った、スターズ・アンド。ストライプスと言う米国の新聞社の社長宅を買い取ったもので、建物は丘の上の中城湾を見下ろす絶景に建っており、入り口から玄関までは、なだらかな坂で、両サイドは計40本あまりのデイゴの巨木の並木で、花の季節にはそれは美しい花のトンネルだった。

そして玄関はロータリーで、車が来ると横付け出来、ビバリーヒルズの豪邸を彷仏とさせるものだった。

にはにはプールがあり、これは沖縄県ではもう一軒、外人宅にあるだけで、それはそれは優雅な暮らしを想像させるものだった。



そこに僕は、台湾から台湾デイゴの巨木を2本と、香水木数本、夜来香数本を輸入し、その他に日本初のアボカド等の果樹園も作り、2,500坪の庭は登り下りの起伏を利用した散歩コースと、ミニゴルフパター練習を3カ所作ったのだった。

これは兄のゴルフ好きを参考にしたものだ。

まさに全て順風満帆で倒産など微塵も考えられない状況の中で、プラザ・イン・宮古は着々と出来つつあった。

独立から1年余りで沖縄第4位に躍り出るわけだから、既に噂が本当になりつつあった。

ビジネスの天才、中山誠は生き生きと活躍していたのだ。



宮古島では、沖縄初のメキシコ料理の店マノンはわずか25坪ながら、壁から天井まで流木を焼いて貼り付けた内装が大人気で、料理も沖縄初のメキシコ料理とウォッカが大人気で、当時としては脅威の月商450万円売り、沖縄県でも初めてと思われるマンガ喫茶まことちゃんも、10坪の店で月商210万円を売ると言う、これも驚異的な売り上げだった。

また、石垣ではプラザイン石垣は13億円を越える勢いだったし、ついでに作った雑誌中心の言わばマガジン喫茶のグローバルが、これ又好調で、これは僕が宮古島で作ったメンバーズのグローバル協会で、みんなで徐々に資金も蓄えてビジネスを展開しようとしていた事にちなんだ、店舗名の喫茶店だった。

わずか1年半でこれだけの事はやってのけたのだが、資金はお釣りが出るほどの余裕が当然なかった。



利益は全て使い切って、次々と展開していったわけだ。

いっぱいいっぱいで資金は回していたが、1度も不足を感じることなく、1度も支払い等を遅らせたこともなかった。

愈々プラザ・イン・宮古の完成も近づき、当然僕はやがてくる1億3,000万円の支払いのための借り入れを要求していたのだ。

そうした所、仲宗根副長は2度3度ちょっと待ってくれと言った挙げ句、”本店からのすべての借り入れのストップが出ていて、今は出せないんだ”、と言うのだ。

そして、”中山さんは好調だから、しばらくは自己資金で回せるんじゃないか”、と言うので、僕は、”いや、新しく必要な1億3000万円なんて回せるはずがないだろう”、と怒った。

その後は何度行って借り入れを要求しても、副長は頭を下げ謝るだけ、支店長は逃げ回りいつも不在と言う始末だ。



自分たちで頼んでおきながら、今度は、”服はオリタ”、を担保に出すなら、必ず1億3000万円出すと言うのだ。

確かに、”服はオリタ”、は僕が退職金代わりにもらった僕のものではあるが、まだ名義変更がなされてなく折田喜作になっているので、僕は那覇へ行き折田社長に、”大至急名義変更してくれ”、と頼んだのだ。

つまり1年余も名義変更を待たされており。それさえ済めばすんなり1億3000万円が降りることを説明したのだ。

約束が守れれば全てはすんなりと通り、僕は資金に悩むことなど何もないのだ。

それから何度か折田喜作に会ってお願いし、それでも中々名義変更がなされないので、最後は、”では、せめて担保として使わせてくれ”、とお願いしたのだ。



ここまで全て平身低頭に丁寧にお願いしたけど、後は逃げ回るのでついに兄にお願いして、折田夫婦に会ってもらい、担保の提供をお願いしてもらったのだ。

兄も何度かお願いしたけど、とうとう折田澄が、”勲さんが誠を甘やかし過ぎたのよ”、などと言う始末で、全然ラチがあかない。

こういう最中、寝耳に水の処置が飛び出したのだ。

”ニュー・サンエイ中山誠と、(株)サンエー折田喜作は一切の関わりがありません”、と言う、例え今後中山誠がどうなっても、折田喜作に相談を持ち込まれても、一切の申し出には応じない旨の書類が、取引先全社に通達されたのだ。



勿論その頃は新店舗は開店したが、資金不足で支払い等が多少遅れ始めていたが、何とかやりくりしていたのだ。

だが、この通達の後は仕入れも徐々に削られ、とうとう仕入れた金額の半分にも満たないようになり、中には一切取引をストップする企業も現れたのだ。

当然売り上げは1割落ち、2割落ち、3割落ちとどんどん落ちるので、ついに1億3000万円の必要資金は、2億円になり、3億円と、どんどん増えていったのだ。

約6ヶ月間つないだ物のもう限界で、とうとう倒産したわけだ。



つまり倒産の原因には、いくつかの約束違反があったのだ。

まず第一が、”自分らの有志で作った建物が、借り手がいなくて困っているので、ぜひ新店舗を出してくれ、必要な1億3,000万円は琉銀として保障する”、と約束した支店長と、副長の、約束違反、これが第一の原因。

次に、担保にする為、本来なら既に1年以上前に名義変更しておかねばならない、”服はオリタ”、の名義変更をせず、担保としても使わせず、逃げ回った折田喜作の約束違反、これが第2番目。

第3に(株)サンエー、折田喜作名による、各取引先への通知。

これによって事情がぐっと悪化し、全ての商品の不足が始まり、売り上げは急激に悪化したのだ。

商品不足による売り上げの悪化の店は、恐ろしく荒んでいった。

そしてついに倒産。



これが全て、真実の倒産のシナリオなのだ。

でも当時、”青年実業家の放漫経営”、とデカデカと新聞に載り、しかも借金は(株)ニュー・サンエイで8億円余り、コンビニエンスストア、マイショップで2億5,000万、合計10億5,000万円と言われているが、この数字の実態は、僕も今も知らない。

兎に角10億5,000万円で、沖縄県第2位の大型倒産と騒がせたわけだ。

果たして中山誠を潰したのは誰なのだろう。

順風満帆もいつ嵐に会うかも分らないし、人は裏切りに満ちていると言うことを、よく考えなければならないのだ。

これが、僕の倒産のあらましだ。



ちょこちょことは思い出にも書いたが、約40年間僕は誰にも言わなかった。

結果として、兄にも保証人としての大きな損害を与え、迷惑をかけてすまないと思っている。

ただ、本来、何も、誰にも迷惑などかける必要はなかったのだ。

折田喜作さえ、すんなり約束を守れば、お互い憎み合うことなど何もなく、僕は何も一家をバラバラにして過ごす必要もなく、時には折田喜作、澄夫婦とも仲良く談笑していたのに、何故あれほどの裏切り行為が出来たのか、僕の中では一切分らない。

しかもサンエーを沖縄一にしたのは間違いなく僕で、あの40坪足らずの薄暗いサンエー那覇店、年商5,000万円を、沖縄一元気な店に変身させたのも僕で、それが沖縄サンエーの第一歩となったわけだ。



ただ正直言って、僕には新しい人生が待っていたわけで、人間どんなに苦しくても、楽しく生きられない事はない、と思うんだ。

現在、折田ジョージ、富子、和子、節子が幸せかどうかは、全く知らない。

ただ分かっているのは、使い切れない程金はあると言うだけだ。

でもな、兎に角、”卑怯なことだけはするな”、と忠告しておく。

こうして全てを述べた。

これが真実なんだ。

誰も知らない中山誠の倒産の真実は、実に裏切りに満ちていたのだ。

だから言う。

少なくても、昔からサンエーと関わりがある人は、皆知っておくと良い。

これが真実だと。



2019年11月29日
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