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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「根はいい人」という言葉の怪しさ

記事全体が面白いが、長いので最後のページだけ転載。
最近、書いた記事が投稿した瞬間に消える「事故」が多いので、私自身も、この傾向が続く間はあまり長い文章は書かないことにする。


(以下引用)


娘の彼氏は「刺青」入りだった…「根はいい人」という言葉の違和感

私が面会を拒絶した理由
鷹橋 公宣 プロフィール

コンビニやファミレスの店員に声をかけるときに「おい」と投げかける、車を運転している最中に腹を立てれば降車して相手を怒鳴りつけるといった行動を取る人物なら、根がいいという評判も疑わしい。どんなに「根はいい人」と評されていても、他人に迷惑をかけることを何とも思わない人物であれば、社会的には害悪でしかない。

つまるところ彼らは「いい人」と「悪い人」を意識的に巧みに使い分けており、自分がよく思われたい相手の前でだけ「いい人」になりうる。つまり、身近な存在でもない限り、誰がみても「悪い人」の部類なのだ。

Photo by iStock

今回、私の投稿をみて「刺青を入れているからといって悪人だと決めつけるな」とコメントした方々は、きっと「根はいい人」と評される類のわずかに残った人間味に触れた経験があるのだろう。そうでなければ、誰が見ても「悪い人」の部類に入ってしまう刺青が入った人たちを擁護する気になんてならないはずだ。

人的なトラブルが発生したときに「根はいい人なんだけどな……」と語ることがあるが、そんなときは、必ず悪評とセットになっている。「根はいい人だけど、怒ると我を失ってしまう」「根はいい人だけど、約束を守らないところがある」といった話は典型的な例だろう。

「根はいい人」といわれている人は、他人に数々の不利益を与えているにも関わらず、どこか憎めない性格や愛嬌を免罪符にしている気配がある。すでにあなたにとって不利益が発生しているのであれば、どんなに根はいい人でもあなたにとっては害悪であり、付き合いを続けることによってあなたが損をする。

ちょっとした面倒くらいの損なら許せるかもしれないが、「根はいい人」のために自分の人生までもが狂わされてしまってはたまらない。現代はとかく内面重視が美徳とされがちだが、花や葉の情報から根の毒性を選別することも大切だ。







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議論手法のコストという概念

会話や議論の(手法)コストという概念は、非常に面白く有益だと思う。
特に、下で言及されている「なぜ?」という質問の質問者と返答者の桁違いのコストの違いは多くの人が知るべきだろう。だが、その防御方法はおそらく確立されていない。質問に答えないと、無責任視されたり、根拠や論理の曖昧な発言をしたのだと見做されたりする。また、同じように質問を返すと、「質問に質問で答えるな」と封じられる。


さんがリツイート

ツイッターやってたら分かるが。「なぜ?」は、聞く側のコストが激安で、答える側のコストがとても高い。答えることに見合ったリターンを与えてくれそうにない相手が「なぜ?」と聞いてきたら、相手してはいけない。







義務と自発

昔から、「下手な考え休むに似たり」という言葉もあり、何か(特に目の前の仕事)についてあれこれ考えるのは、実は「それをしないで済む方法が何か無いか」考えているだけ、という場合が多いのではないか。
そういう義務的仕事でない場合、たとえば趣味的行為だと、我々は難しさや面倒くささをけっして避けたりはせず、むしろそこに面白さを見出したりする。



  1. 「君は、勇気と自暴自棄の区別がついていないようだね」
    「どこが違うんだ?」
    「勇気とは、自らの安全すら顧みずに前に進む強い決意のことで、一方、自暴自棄は、単にすべてを投げ出した判断放棄を意味している」
    「で、どう違うんだ?」
    「……同じかもしれない」

  2. ひとつ言えるのは、自分が勇気に基づいて行動していると思いこんでいる時、その人間は、単に知的に検討する作業を投げ出しているだけなのかもしれないということだよ。

ガラケーを使い続ける理由

私もガラケー党だが、理由は簡単で、携帯電話は電話としてしか使わないからだ。それに、持ち運びの際に、ズボンのポケットに入れやすい。それで十分であり、ネットを使うにはパソコンがあればいい。何も外出先でネットに接続する理由はない。まあ、社会とつながっている人間ならスマホでないとできない作業もあるのだろうが、四六時中社会とつながっているのは私には不快でしかない。
ただし、使用料金がなぜかどんどん上がってきているので、近いうちに契約変更するつもりだ。ガラケーのほうがスマホより高いのは理不尽だが、携帯会社にとっては「使用台数が少ないから商売の旨味がない」ので、使用料金を上げているのだろう。実に下品である。

(以下引用)なぜかコピーが半分しかできないし、文字が勝手に拡大されているが、まあ特に面白い記事でもないので後半は読むまでもないだろう。



周囲の人に「ガラケー男」と呼ばれるようになったという中川淳一郎氏 © SHOGAKUKAN Inc. 提供 周囲の人に「ガラケー男」と呼ばれるようになったという中川淳一郎氏

 いわゆる「あおり運転殴打事件」で逮捕された宮崎文夫容疑者(43)の同乗者で、高速道路上の被害男性の車をガラケーで撮影し続けた喜本奈津子容疑者(51)は、メディアで「ガラケー女」と報道されている。

 ネットでも「ガラケー女」という書き込みは多数見受けられるが、それだけスマホ全盛の今、「なぜガラケーで撮影をする」「なんでスマホ使わないの?」という感想を持った人が多いのではないだろうか。「まさかのガラケー」と報道するメディアもあるほどだった。

 それだけ絶滅危惧種となっているガラケーだが、喜本容疑者のせいで「ガラケー男」と呼ばれるようになってしまった人もいる。ネットニュース編集者の中川淳一郎氏はスマホを持っておらず、2013年型のシャープのガラケーを未だに使っているが、打ち合わせでこの事件の話題になると「そういえば中川さんも『ガラケー男』ですよね」と苦笑されるというのだ。

 宮崎容疑者の暴行の様子を止めようともせず、その直前にはサングラス・帽子で顔を隠し、ガラケーをかざして撮影をし続ける喜本容疑者に対しては「非常識」扱いだ。さらには宮崎容疑者も一見ガラケーに見える「ガラホ」を使っていたと指摘されており、「ガラケー使いはDQN(非常識な人)」といった声もネットでは書き込まれた。中川氏はこう嘆く。

「いやぁ~、最近、仕事で会う人会う人、あとは飲み会で会う人から笑われることが多くなりました! あのカップルのように非常識なDQNだったのか、なんて言われ方もされます。もちろん、皆ジョークで言っているものの、私のことをまったく知らない人が、私がガラケーをポケットから取り出す様子を見たら『近づいてはまずい』なんて思ってしまうかもしれません。

 初対面の仕事相手からしても、『えっ、もしかしてDQNなの?』なんて思うかもしれないので、最近はガラケーを会議中、外に出さないようにしています。もう何年も『なんでまだガラケー使ってるの?』なんて言われてきたものの、今回の騒動により、ガラケー使いの肩身が格段に下がったように思えます。とんだ風評被害ですよ……」(以下同)

 では、なぜ同氏はガラケーを使い続けるのか。そこには何らかのメリットがなくてはならないだろう。

「今の時代、書類等の添付されたメールを送ればすぐに返事が返ってくると思う人が多過ぎる。それは『返事ができる環境に常時いる』からに他なりません。緊急性の高すぎる仕事なんてそこまではない。だったら『ガラケーなんでメールは見られません』と言った方がラク。あと、スマホは中毒性が高いので、どうでもいい情報に常に接することになるし、余計な課金をしてしまう懸念もある。ガラケーだとそもそもネットに繋げるのも大変だし、今の時代、対応するサービスもどんどん少なくなっていっているので、業者からむしり取られる心配もない。特に不自由がないんです」

 こうした利点を同氏は主張するものの、こう考える人はもはやマイノリティではないだろうか。生活空間全般へのスマホ対応化が進む昨今、ガラケーは奇異なものとして捉えられているようだ。中川氏はこう続ける。

「今回の騒動でガラケーが注目されましたが、この風潮は、昨年10月、さいたまスーパーアリーナの沢田研二のコンサートがドタキャンされた時以来です。報道では、ガラケーで現場の看板を撮影する高齢女性が多く写っていましたが、この時もネット上には『ガラケー久々に見た』『ガラケーをまだ使ってる人がいたんだ』と驚かれていました。それだけガラケー使いは『奇怪な人』扱いなんでしょうね」





断捨離は誰のためにするのか

私は、頭の中味が江戸時代か原始時代なので、「機能的に素晴らしいもの」とか「個人で作るのが無理な、現代文明の恩恵」は、どんな安物でも使用済みの品でもとても捨てる気にはなれない。
紙切れ一枚でも、それを捨てるのは「悪事を働いている」気持ちになる。お前が、ひとりで、その紙切れを作れるのか、という気持ちが心のどこかにあるわけだ。ペットボトルの空きボトルなど、江戸時代なら宝物扱いだろう。軽くて長持ちする水筒である。酒の空きビンなどのガラス瓶も同様に、平安時代なら宝物だ。実用品であるだけでなく美術品である。インクの切れたボールペンも、そのフォルムの美しさを見ると、捨てるのに罪の意識を抱いてしまう。
私が、自分が鈍感で良かったな、と思うのは、そうしたガラクタやゴミが身近にたくさんあっても気にならないことで、美的感性の鋭い人は、そういう雑然とした部屋や家に我慢ができないのだろう。それが「断捨離」になるわけだ。だが、それは「他人に見せること」を過度に意識した美意識なのではないか。誰も見ない部屋でも、そうした断捨離による整理整頓をするかどうか怪しい気がする。





断捨離をしようとしたが素晴らしい物しか置いてないので何も捨てられん…。