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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

断捨離は誰のためにするのか

私は、頭の中味が江戸時代か原始時代なので、「機能的に素晴らしいもの」とか「個人で作るのが無理な、現代文明の恩恵」は、どんな安物でも使用済みの品でもとても捨てる気にはなれない。
紙切れ一枚でも、それを捨てるのは「悪事を働いている」気持ちになる。お前が、ひとりで、その紙切れを作れるのか、という気持ちが心のどこかにあるわけだ。ペットボトルの空きボトルなど、江戸時代なら宝物扱いだろう。軽くて長持ちする水筒である。酒の空きビンなどのガラス瓶も同様に、平安時代なら宝物だ。実用品であるだけでなく美術品である。インクの切れたボールペンも、そのフォルムの美しさを見ると、捨てるのに罪の意識を抱いてしまう。
私が、自分が鈍感で良かったな、と思うのは、そうしたガラクタやゴミが身近にたくさんあっても気にならないことで、美的感性の鋭い人は、そういう雑然とした部屋や家に我慢ができないのだろう。それが「断捨離」になるわけだ。だが、それは「他人に見せること」を過度に意識した美意識なのではないか。誰も見ない部屋でも、そうした断捨離による整理整頓をするかどうか怪しい気がする。





断捨離をしようとしたが素晴らしい物しか置いてないので何も捨てられん…。




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