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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

正義論

倫理について考える場合に「正義とは何か」というのは大きな問題かと思うので、ここで少し考えてみたい。

昔、ちょっと聞きかじっただけなのだが、ロールズという哲学者だか社会学者だかに、「正義論」というのがあるらしく、その中心思想を私なりに解釈したのが「正義とは、無知の壁を間に置いて、第三者が正しいと判断することである」といったものだったが、この「無知の壁」というのは、要するに、争点となっている問題の「完全な局外者として」問題に対処する意味かと思う。まあ、法廷の裁判官などが、事件に対処する姿勢である。(現実がどうかは知らないが、一応、事件の局外者だと見做されている。)この定義は、裁判などを想定しているように私には思えて、正義の普遍的定義としては不十分な気がする。ただ、「第三者としての判断」というのは重要かと思う。これがその判断に「客観性」を担保すると思うのは自然だろう。

もっと根本的かつ普遍的に「正義」とは何かを考えてみたい。
まず「正」と「義」は同じものか、異なるものか。日本語ではどちらも「ただしい」と読める漢字であるが、「正」は、私には「数学的正しさ」に思える。実際、「数学的義しさ」という漢字の用法は無いだろう。それは、「義」という漢字は、「道義的ただしさ」を意味する、と誰もが直観的に感じているからだと思う。で、我々の日常の誤りは「数学的正しさ」と「道義的ただしさ」の区別をしなくなっていることだろう。シャイロックが、契約に従って「負債の代わりに肉1ポンドを切り取る」のは、数学的(法的)には正しいが、道義的にはただしくないわけだ。しかし、現代では、このシャイロック的行為は「社会的にただしい」と見做されていないか。つまり、たとえばブラック企業の行為(労働者の搾取)は、法的に取り上げられないかぎり、まったく問題とされていない。そして、法的に正当化できるなら、どんな悪行も許容されている。(端的に言えば、法廷を買収すれば、殺人も強姦も無罪になる。)
なお、墨子だったと思うが、「義は利の和である」という、解釈の難しい言葉を言っているが、これは、墨子の思想傾向から考えると、「多くの人の利益となることが、義である」と解釈していいかと思う。孟子は「義と利を弁別(峻別)せよ」と言っていて、これも重要な言葉だが、墨子の言葉はそれと正反対に見えて、実は矛盾していないと解釈できるわけだ。
そして、墨子の「義は利の和である」の解釈が私の解釈で正しいとすれば、これは「最大多数の最大幸福」という西洋近代の思想と同じである。つまり、民主主義思想、人権思想の土台である。また、孟子の「義と利を弁別せよ」は、酷薄化していく資本主義社会(新自由主義社会)において、資本の暴走、資本による政治の私物化の防波堤となる言葉だとなるだろう。

結論を書いておく。「正義」とは、「論理的にも道義的にもただしいこと」である。その比重を言えば、(論理は詭弁論理に蹂躙されることもあるため)道義のほうを重視すべきだというのが私の意見だが、これは、「道義は主観的なものだ」という反論があるかと思う。だが、そこで「無知の壁」を用いれば、客観性が保証されるのではないだろうか。

(追記)念のためネットで調べたら、「無知の壁」ではなく、「無知のヴェール」のようだ。だが、その趣旨は私の解釈でいいかと思う。ただ、原書の書き方は難渋で、分かりにくい書き方をしているらしい。


無知のヴェール †

正義が、先験的に与えられたものではなく、社会の構成員が合意した原則によって決まる、と考えた。 そのとき、社会の構成員は「無知のヴェール(the weil of ignorance)」におおわれた状態で、正義の原則を選ばなければならない。

「無知のベール」とは、自身の位置や立場について全く知らずにいる状態を意味する。 一般的な状況はすべて知っているが、自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らない、という仮定である。 自身の利益に基づいて選ぶのを防ぐための装置だ。 それを通じて、社会全体の利益に向けた正義の原則を見いだせるようになる。

無知のベールを動員すれば、社会的な対立をさらに容易に解決できる道を見いだすことができる。 ストライキの例を見てみよう。 労働者と経営者は、それぞれ有利な状況を総動員し、最大限に、自分の利益を確保しようとするはずだ。 しかし、無知のベールに蔽われているならば、状況は変わる。 労働者と経営者いずれも、自身に戻ってくる損が最も少ない方を選ぶようになる。 自身の強みと相手側の弱みが分からないからだ。 無知のベールにおおわれれば、自身の位置が分からなくなるため、合理的な利己心によって、すべての人の被害を最少化する「正義の選択」をするようになる、というのがロールズ教授の教えだ。




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異性に告白するのはハラスメント

私も、「女性に告白したらハラスメント」を支持する。
ハラスメントとは何か、と言えば、自分の立場を利用して相手に苦痛を与えることと定義していいと思うが、告白した相手(男)が気に入らない相手だった場合、女性は非常に辛い思いをするはずだ。心の優しい人ほどそうなるに決まっている。相手の告白を受け入れるわけにはいかないし、拒否したら相手を悲しませることになる。あるいはその後の自分の立場を悪くする。そういうジレンマに「被害者」を陥れるのが「愛の告白」なのであり、これは明白なハラスメントになるだろう。
で、実は、これは女性だけの話ではない。
私自身、中学生のころに同級生の女生徒から「付き合ってほしい」と言われ、それにどう対応したらいいか、非常に困った経験がある。まったく私好みではない女生徒だったが、断ったら相手を傷つけるだろうな、と思ったのだ。だが、結局断った。相手を傷つけただろうことは、その後長い間私のトラウマになったものである。
それくらいの「心の傷」はすぐに治り、忘れるさ、という人が世間の大半だとは思うが、世の中にはそうではない人間もある程度はいるはずだ。
まあ、告白していいのは、相手も自分を好きだ、という自信がある人だけ、とするのがいい。だが、自分がかなりの美人美男子や人気者だとしても、世の中には美人美男子や人気者が好きではない人もいるだろう。とは言っても、相手のふだんの態度を見れば、自分への好意のある無しは或る程度は分かると思う。(女性の中には誰にでも愛想のいい人が多いから、そういう「お愛想」を自分への好意だと勘違いする若い男性も多いだろうが、そこは「人生キャリア」を積むしかない。)



さんがリツイート

「AEDを女性に使ってセクハラ扱いされるわけ無いだろ!」ってのはとても常識的で真っ当な考え方だと思う。

でも我々は「女性に告白したらハラスメント」という、有り得ない主張が受け入れられのを見たのだよ。




子供の忖度

「子供は無邪気(言い換えればアホ)」と考えている人は多いと思うが、或る種の子供は、物心付いたころから、「自分は親に依存して生きている」ということを分かっていて、かなり親を忖度して行動するものだと思う。少なくとも私はそうだった。
逆に言えば、子供は無邪気だと思って無考えにする大人の行動が、子供に大きなストレスを与え、場合によっては一生のトラウマになる。




さんがリツイート

僕も『子供には少しでも色んな経験』教の敬虔な信者だったんだけど、以前娘にいつもの如く『どうこれ、やってみる?』って勧めた際に『それやった方がパパ嬉しい?』って悪意なく聞かれて、こりゃやり方間違ってたと反省したよね。





一夫一婦制の崩壊

まあ、この種のアンケートに真面目に答えるかどうか怪しいものだが、この調査結果が正しいなら、結婚することには意味はない。結婚制度は今世紀前半でほとんど廃れるのではないか。
これが欧米由来のフリーセックス思想の帰結である。
もちろん、経済的利益目当ての結婚がまったく無意義とは思わないが、恋愛を偽装した性欲によるセックスは売買春と何が変わるのか。自分の結婚した相手が産んだ子供が他人の子供でも育てる義務はあるのか。

(追記)「紙屋研究所」記事の一部だが、雌が相手かまわずに性交をするのは、生物的本能にも背き、経済学的にも割に合わない、ということであるwww まあ、下の記事は性欲とか恋愛ではなく生殖を基準にしての話だが。(赤字は引用者による強調)

「雄がどんな雌とでも交尾したがるのに対し、雌は受動的ではあるが相手を選択する」ということをダーウィンは広く観察された事実だとした。イトマンはこの「事実」の説明として「精子はコストが低く卵はコストが高いので、雌は選り好みするが、雄は相手を選ばない」というベイトマンの原理を打ち立てた。





75:2018/08/11(土) 00:22:43.21 ID:0IMtoeom0.net


78:2018/08/11(土) 00:23:54.37 ID:KaJOoLPa0.net
>>75
人妻おおいな
ゾットする
79:2018/08/11(土) 00:24:48.25 ID:hg0WSxbc0.net
>>75
やっぱ大人になると行為するのも体力足りんのかね
80:2018/08/11(土) 00:25:22.73 ID:Qmd2nWsV0.net
イケおじ、DQN系、草食系とジャンルの数だけ浮気する可能性はあるぞ
68:2018/08/11(土) 00:20:57.80 ID:K6TuYr+v0.net
そもそも女なんて次の男探しながら今彼と付き合ってんだから常に浮気されてるもんだと考えや

ヴィーガンの主張は、合理性はあるか

現代倫理学のためのメモ。私は肉食や動物殺生についての問題意識はまったく無いが、ペット化された動物はだいたい可愛いと思うし、野生動物でも幼児は可愛いと思う。だが、原始時代に放り出されて、動物を殺さずに人間が生存できるとは思わないし、現代においても、かりに動物殺生を完全に禁止したら、「動物の避妊」が必要になるだろう。つまり、生まれることを許可された生命と最初から生まれることを拒否された生命の選別だ。これは、殺生とどれだけ違うのだろうか。大自然の中では、たとえば魚類は無数の卵を産むが、それは自然淘汰されて生き残るのはわずかだという「自然の掟」があるからだ。としたら、人間が他の動物を殺すのを禁じる合理的な理由があるだろうか。
ただし、人間の場合は、文明や理性という前提があるから、「戦争は自然の掟に合致している」などと、話を混同してはいけない。


追記しておけば、未来においては、本物の肉と味も栄養も変わらない人口食品ができると思うが、そうなると、動物が増えすぎるから、それを管理し、一定数以上は殺す、というシステムが必要になるだろう。今の鯨と同じだ。とすれば、「動物が可哀そうだから肉食をするな」というヴィーガンの主張は成立しなくなるのではないか。




さんがリツイート

お台場の肉フェスにて
楽しい気分が台無しだ。
過激派ヴィーガンは自分の思想信条を正しいと思い込み、そのうえ他人にこのように強制的に押し付ける…。
反社会的な行動をしている自覚はあるのか。カルト宗教と同じやん…。
不愉快でした。楽しかったのに悲しい気分。