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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

鉄の優位性と木の優位性

鉄板(スチール板)は簡単に折れ曲がるというのは、子供のころから覚えておくべき知識だろう。
もちろん、曲がるからこそ使える場合もあるわけで、それが欠点というわけではないが、鉄は丈夫で長持ちする、というのは誤解である。特に水分による腐食は案外早い。だから塗装をするわけであるが、それも10年くらいで剥げ落ちる。法隆寺の五重塔が確か1000年以上も保たれていたはずで、建築材料や家具として、木の方が鉄より長持ちすると考えていいのではないか。不要になれば分解して切り刻むこともできるし焼却することもできる。
だが、鉄道のレールや自動車や飛行機などには木は向いていないのは当然だwww


うちは組み立て式のスチールのラック(あんまり本棚には適さない…)を壁際に並べてるんですが。頑丈そうに見えて棚板は折り曲げた薄い鉄板なので人間1人分の体重を掛けようものならすぐグニャッと曲がっちゃう。「でも子供は絶対足掛けて登る!」と考えて真ん中に補強用の縦板をかましました。









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料理における値段と質の不整合

おそらく、値段から想像される期待値より出される料理の味や質がはるかに低いという、単純な話だろう。料理の値段というのは、普通の料理屋なら材料原価と妥当な粗利でだいたい決まるはずだが、高級料理店だと戦略的に、わざと異常に高い値段をつけるわけだ。もちろん、そこには料理人や店のプライドが加算されているが、そんなのは当人たちの主観にすぎない。
料理というのは、素材さえ良ければ、下手に料理法で誤魔化すより、素材の味をそのまま出したほうが美味いのが普通であるはずだ。つまり和食の行き方である。
私は、「ソース命」の西洋料理店のビーフステーキより、塩コショウだけで自分で焼いたステーキのほうがはるかに美味いと思っている。西洋料理のソースなど、素材の味を誤魔化すだけの糞料理法だとすら思う。いや、複雑な料理法で美味いのもたくさんあるだろうが、単なる「素材いじめ」を料理と思っている料理人が多いのではないか。





自分にとって、ご馳走と呼べるものが「納豆・卵かけごはん」だったり「王将の餃子」だったり「サバ缶」だったりするのはどういうことなんだ?中華料理にしても、高級店よりもバーミアンの方が美味しく感じるし。高い食材や高級料理は値段のわりに美味しいとは感じない。なぜなんだ?






「根はいい人」という言葉の怪しさ

記事全体が面白いが、長いので最後のページだけ転載。
最近、書いた記事が投稿した瞬間に消える「事故」が多いので、私自身も、この傾向が続く間はあまり長い文章は書かないことにする。


(以下引用)


娘の彼氏は「刺青」入りだった…「根はいい人」という言葉の違和感

私が面会を拒絶した理由
鷹橋 公宣 プロフィール

コンビニやファミレスの店員に声をかけるときに「おい」と投げかける、車を運転している最中に腹を立てれば降車して相手を怒鳴りつけるといった行動を取る人物なら、根がいいという評判も疑わしい。どんなに「根はいい人」と評されていても、他人に迷惑をかけることを何とも思わない人物であれば、社会的には害悪でしかない。

つまるところ彼らは「いい人」と「悪い人」を意識的に巧みに使い分けており、自分がよく思われたい相手の前でだけ「いい人」になりうる。つまり、身近な存在でもない限り、誰がみても「悪い人」の部類なのだ。

Photo by iStock

今回、私の投稿をみて「刺青を入れているからといって悪人だと決めつけるな」とコメントした方々は、きっと「根はいい人」と評される類のわずかに残った人間味に触れた経験があるのだろう。そうでなければ、誰が見ても「悪い人」の部類に入ってしまう刺青が入った人たちを擁護する気になんてならないはずだ。

人的なトラブルが発生したときに「根はいい人なんだけどな……」と語ることがあるが、そんなときは、必ず悪評とセットになっている。「根はいい人だけど、怒ると我を失ってしまう」「根はいい人だけど、約束を守らないところがある」といった話は典型的な例だろう。

「根はいい人」といわれている人は、他人に数々の不利益を与えているにも関わらず、どこか憎めない性格や愛嬌を免罪符にしている気配がある。すでにあなたにとって不利益が発生しているのであれば、どんなに根はいい人でもあなたにとっては害悪であり、付き合いを続けることによってあなたが損をする。

ちょっとした面倒くらいの損なら許せるかもしれないが、「根はいい人」のために自分の人生までもが狂わされてしまってはたまらない。現代はとかく内面重視が美徳とされがちだが、花や葉の情報から根の毒性を選別することも大切だ。







議論手法のコストという概念

会話や議論の(手法)コストという概念は、非常に面白く有益だと思う。
特に、下で言及されている「なぜ?」という質問の質問者と返答者の桁違いのコストの違いは多くの人が知るべきだろう。だが、その防御方法はおそらく確立されていない。質問に答えないと、無責任視されたり、根拠や論理の曖昧な発言をしたのだと見做されたりする。また、同じように質問を返すと、「質問に質問で答えるな」と封じられる。


さんがリツイート

ツイッターやってたら分かるが。「なぜ?」は、聞く側のコストが激安で、答える側のコストがとても高い。答えることに見合ったリターンを与えてくれそうにない相手が「なぜ?」と聞いてきたら、相手してはいけない。







義務と自発

昔から、「下手な考え休むに似たり」という言葉もあり、何か(特に目の前の仕事)についてあれこれ考えるのは、実は「それをしないで済む方法が何か無いか」考えているだけ、という場合が多いのではないか。
そういう義務的仕事でない場合、たとえば趣味的行為だと、我々は難しさや面倒くささをけっして避けたりはせず、むしろそこに面白さを見出したりする。



  1. 「君は、勇気と自暴自棄の区別がついていないようだね」
    「どこが違うんだ?」
    「勇気とは、自らの安全すら顧みずに前に進む強い決意のことで、一方、自暴自棄は、単にすべてを投げ出した判断放棄を意味している」
    「で、どう違うんだ?」
    「……同じかもしれない」

  2. ひとつ言えるのは、自分が勇気に基づいて行動していると思いこんでいる時、その人間は、単に知的に検討する作業を投げ出しているだけなのかもしれないということだよ。