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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

暴力と不合理性と「問題の誕生」

コリン・ウィルソンの「SFと神秘主義」の中に出て来るふたつの思考素、あるいは思考課題を書いておく。前者はヴァン・ヴォークト(文中ではヴォートと書いている。)後者はアルフレッド・コジプスキーという人の思想らしい。

1:「どうして人間はこうも暴力的、不合理なふるまいをするのか」
2:「問題は、われわれの不明瞭な論理と不明瞭な言語習慣から発している」

後者の「問題」がどういう問題なのか、あるいは「すべての問題」なのかは分からないが、ウィルソンの書によれば、2が1の解答であるようだ。(ヴォークトはそう思ったらしい。)
だが、その当否は別としても、1も2も思考素として面白い。

1は、「暴力的」と「不合理」が同じものであることを含意している可能性があると私には思える。もちろん、問題の合理的解決として暴力を手段として選ぶこともあるだろうが、より突き詰めるなら、暴力的なふるまいとは、問題の解決方法が分からないことから来る衝動的行為なのではないか。それは単なる力の行使とは異なるから、「暴発的な」力の行使という意味で「暴力」と呼ばれるのではないだろうか。それは、暴力的な人物のほとんど頭が悪い人物であるという事実と一致しているように思う。(この場合、単純に「人を殺すから暴力」という考えは採らない。冷静に行われた殺人は暴力とは別のものであり、またその殺し方も問題ではない。)

2は、単純にその考えが面白い。つまり、問題自体に問題が内在しているよりも、考える側の思考法によって問題が生じている、という思想と言えるかもしれない。別の見方をすれば、「それが問題だと思う時に問題は生まれる」とも言えるだろう。少なくとも、動物が人生に悩むことは無さそうである。人間が人生に疑問を持つからその生き方が問題になるわけだ。動物同様に自分の人生に悩みを持たない層は存在する。別に悩むほうが高級な人間だとは言わない。むしろ愚かだろう。問題は、問題がどうして生まれるのか、ということで、それはそれを問題視するから生まれる、というだけのことだ。そして、何かの疑問は「我々の不明瞭な論理と不明瞭な言語習慣から来ている」可能性は非常に高いと私も思う。


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「レ・ミゼラブル」は現代で日常に生じる話

法と倫理の境界線上の事例で、この最高裁の判決は非常に面白い。ただし、これはいわば「緊急避難」の事例であり、「カルネアデスの板(舟板)」の法的思想なのである。杓子定規な法解釈はしばしば人倫(人情に基づく道徳)に背くことになる。かと言って、金額的に小さい窃盗は逮捕しないという、アメリカ某州(カリフォルニアだったか)の決定は、馬鹿の骨頂だろう。
要するに、困窮者を救う手段が不十分だから、緊急避難の窃盗が生まれるという話だ。新自由主義の跋扈で切り捨てられてきたのがそういう社会のセーフティネットである。

(以下引用)

食品万引きの男性に無罪判決、「必要に駆られた行為」 伊

イタリアの裁判所が必要に駆られての食品の万引きは犯罪に当たらないとの判決を下した

2016.05.06 Fri posted at 12:26 JST

(CNN) 必要に駆られて少量の食品を盗むことは犯罪には当たらない――。スーパーで食品を万引きして窃盗の罪に問われたホームレス男性の上告審で、イタリア最高裁がこのほどそんな判決を言い渡した。

ウクライナ国籍のロマン・オストリアコフ被告(36)は2011年にスーパーマーケットでソーセージとチーズ4.07ユーロ(現在のレートで約500円)分を盗んだとして窃盗罪に問われていた。

レジでは盗んだ食品を上着の下に隠してパンの代金のみを支払っていたが、別の客が店員に告げたことから盗みが発覚し、警察に逮捕された。

2013年の一審では窃盗罪で禁錮6年と罰金100ユーロの有罪判決を言い渡し、15年の控訴審判決も一審を支持した。

しかし最高裁はこの判決を覆し、必要に駆られて少量の食品を盗む行為は犯罪には当たらないと判断。「被告人は緊急かつ不可欠だった栄養摂取のために少量の食品を手にした。従ってこれは必要性に駆られた状況における行為だった」と認定し、無罪を言い渡した。

地球温暖化と異常気象

私は、「異常気象」というものを信じていないし、地球温暖化が異常気象の原因になるという説も信じていないし、地球が温暖化しているとしても、それは周期的なものにすぎないと思っているが、それは直感的なものだから、科学者たちがどう言っているか、メモしておく。

(以下引用)

解説異常気象と地球温暖化の関係について

地球環境研究センター 気候変動リスク評価研究室長 江守正多

*この稿は、2013年9月3日にNHKテレビのオピニオン番組「視点・論点」で放送された内容(タイトルは「異常気象と人類の選択」)をもとに再編集したものです。

2013年夏の異常気象

2013年の夏、日本列島は、記録的な猛暑と度重なる大雨といった異常気象に見舞われました。たとえば、8月12日には、高知県の四万十市で最高気温が41.0℃を記録し、国内最高記録を更新しました。また、7月28日に山口と島根を襲った豪雨、8月9日に秋田と岩手を襲った豪雨では、気象庁が「これまでに経験したことの無いような大雨」として、最大限の警戒をよびかけました。

この異常気象ですが、気象庁による定義は、「三十年に一回起こる程度の珍しい気象」のことです。つまり、異常気象とは、起こることが信じられないような異変のことではなく、たまにしか起こらないけれども、昔からたまには起こっていたことです。異常気象が起こるのは、主には大気や海の不規則な自然の変動のせいです。

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図1-1 日本国内における観測史上最高気温(2013年と2007年に注目)

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図1-2 日本国内における観測史上最高の1日最低気温(2013年と2007年に注目)

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図1-3 日本国内における観測史上最大1時間降水量

図1-1〜1-3は気象庁ウェブサイトから作成

異常気象(猛暑、豪雨)の背景

今年の日本に関していえば、日本の南側に位置する太平洋高気圧が北に張り出して日本を覆い、大陸からも大気上層のチベット高気圧が東に張り出したことが、猛暑をもたらしました。また、太平洋高気圧の縁にそって流れ込む南からの暖かい湿った空気と、偏西風の蛇行などによって北から来る寒気がぶつかると、大気が不安定になって大雨が起きやすくなりました。いってみれば、今年はたまたま、そのような気圧配置になったということです。

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図2-1 今年の異常気象の背景

地球温暖化とのかかわり

しかし、近年、極端な高温や大雨の頻度が長期的に増加する傾向の背景には、地球温暖化が関わっているとみられます。地球温暖化により、長期的な傾向としては地球の平均気温が上がっています。すると、地域ごとの気温は不規則に変動しながらも、極端に暑くなる頻度が徐々に増えてきます。雨に関していうと、地球温暖化による長期的な気温の上昇にともなって、大気中の水蒸気が増えます。すると、雨をもたらす低気圧などの強さが変わらなかったとしても、水蒸気が多い分だけ割増で雨が降る傾向になり、大雨の頻度が徐々に増えていきます。

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図2-2 スーパーコンピュータによる将来の気候変動予測

*将来、地球温暖化が進むと真夏日が増え、豪雨が増えることが計算結果から示唆されています。

地球温暖化のしくみ

地球温暖化は、二酸化炭素などの温室効果ガスが大気中に増加することで、赤外線が地球から宇宙に逃げにくくなり、地表付近の気温が上昇する現象です。現在、大気中の二酸化炭素濃度は400ppmに達しており、これは産業革命前の値、280ppmのおよそ4割増しです。この原因が、人間活動による石炭、石油、天然ガスなど化石燃料の燃焼にともなう二酸化炭素の排出であることは間違いありません。一方、世界の平均気温は、産業革命前から0.8℃程度上昇しており、1980年代、90年代には特に気温上昇が顕著でした。今世紀に入って気温上昇が鈍っていますが、その理由の大きな部分は、熱が海の深層に運ばれているためと考えられます。逆に、今後、海の深層の熱が地表付近に出てくると、再び顕著な気温上昇が生じることになります。

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図3-1 日本の大気中の二酸化炭素濃度(北海道根室市落石岬)

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図3-2 日本の大気中の二酸化炭素濃度(沖縄県波照間島)

注:二酸化炭素濃度は植物の光合成活動のため、夏は濃度が下がります。9月初旬は1年間で最も濃度が低い時期です。過去365日間の年平均値では、北海道、沖縄県とも398ppmを超えています。

6年前は?

ところで、この「地球温暖化」という言葉をみなさんの多くが初めて聞いたのは、6年前の2007年のことだろうと思います。実は、今から振り返りますと、今年は6年前といろいろな点でよく似ていることに気が付きます。6年前に、埼玉県の熊谷市と岐阜県の多治見市で40.9℃という高温を記録し、日本の日最高気温記録を更新しました。今年は四万十市の41.0℃がこれを塗り替えました。(図1参照)

また、6年前に、国連の「気候変動に関する政府間パネル」、IPCCは第4次評価報告書をまとめ、「地球の温暖化には疑う余地が無い」などの科学的な見解が発表されました。今年は、IPCCの第5次評価報告書が、今月末から順次発表されます。わたしもその執筆に参加しました。さらに、6年前の2007年、国連の気候変動枠組条約における温暖化対策の国際交渉では、新しい国際枠組の決定を目指す締約国会議COP15を2年後に控えた局面でした。しかし、このCOP15で枠組が決まらず、決定は6年間先延ばしになりました。つまり、今年は、改めて新しい国際枠組の決定を目指すCOP21を、やはり2年後に控えた局面ということです。さらにいえば、6年前、今の首相と同じ安倍晋三首相が、世界の温室効果ガス排出量を2050年までに50%削減する「クールアース50」という提案をされています。

そういうわけで、今年は6年ぶりに多くのみなさんに地球温暖化について考えて頂ければと思っています。しかし、地球温暖化の日本への影響や日本の対策目標について考える前に、地球規模で長期の問題として、みなさんにぜひ認識して頂き、考えて頂きたいことがあります。

世界平均気温上昇を2℃以内に抑えるという目標

国連の温暖化交渉では、「世界平均の気温上昇を、産業化以前を基準に2℃以内に抑えるべき」との科学的見解が認識されています。安倍首相が6年前に提案された2050年50%削減は、この「2℃以内」の目標を5割程度の確率で達成するための条件に相当します。しかし、世界の排出量は増加を続けており、専門家の多くはこのような目標の達成がもはや非常に困難になったと認識しています。今からこの目標を達成するには、世界の排出量を急激に減らしつづけ、今世紀末には排出量をゼロやマイナスにする必要があります。

目標を目指しても、諦めてもリスクはある

これを本気で実現しようとするならば、対策の経済的なコストのほか、社会システムの大胆な変革にともなう社会的混乱のリスクや、二酸化炭素の地中貯留をはじめとした新技術の導入にともなうリスクなどを覚悟する必要があります。一方、このようなリスクをとらずに温暖化の進行を許せば、もちろん、将来の温暖化の悪影響に人類が対処しきれなくなるリスクを覚悟する必要があります。つまり、「2℃以内」の目標を目指しても、諦めても、どちらにしてもリスクがあるということです。この意味で、人類は、もはや温暖化のリスクから逃げることはできません。リスクに向かい合い、どのリスクをどれくらい受け入れるかを判断しなければなりません。人類はそこまで追い詰められてしまったのだという現実を、わたしたちは直視すべきだと思います。

地球温暖化の悪影響のリスクに対して誰が判断する?

私はここで、悪影響のリスクは受け入れるべきでないとか、対策のリスクは受け入れるべきでないといった、個別の主張を押し付けるつもりはありません。それは、この問題は専門家や官僚などの判断で決めてよい問題ではなく、社会全体で議論して決めるべき問題だと思うからです。そんな難しくて抽象的な話は、専門家が議論して決めてくれと思う人もいるかもしれません。しかし、2年前の福島第一原子力発電所の事故を受けて、人々は日本の原子力行政が一部の官僚や専門家や業界の判断で決まっていたことを知って怒りました。そして、人類は原子力とどう向き合っていくかという難しくて抽象的なことに、専門家でない普通の人が意見を言うようになりました。わたしは、地球温暖化もこれと似ているのだろうと思います。

IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の新しい報告書

ぜひ、2013年9月から発表されるIPCCの新しい報告書にご注目頂き、地球温暖化という人類の大問題について、みなさん一人ひとりがどう思うか考えてみて頂きたいと思います。そして、政府やメディアには、この問題を改めて社会全体で議論する仕組みを作ってほしいと思います。

原罪とは何か

「原罪」という言葉を、自分には何の責任も無いのに先祖のために不条理に負わされる罪と解すれば、この「原罪」の用法は正しい。つまり、キリスト教の「原罪」がいかにナンセンスなものか、ということでもある。

(以下引用)

俺が毎月払ってる東京の家賃十数万は、「都会の地主の息子に生まれなかった原罪税」であるし、「田舎の窮屈さか逃れるための料」であるという認識であるよ。

「セカイ系」とは何か

とある評論の一節で、書いてあることが妥当かどうかは別として、「セカイ系」という、昔から気になっていたが今でも理解できない言葉の説明らしきものがあるから転載した。
私の印象では「世界系」ではなく「セカイ系」と表記されているのは、揶揄であり、その「セカイ」は本物の世界ではありませんよ、という指摘を含意していると思う。つまり、「妄想系」だろう。普通なら妄想で終わる事柄が、作品中では実際の出来事となるような作品を「セカイ系」と言っていたのではないか。いや、これは私の独断でしかないのだが、下の定義にはあまり納得できないのである。
つまり、ここでの「世界の危機」とは、要するに「作品内世界の危機」でしかないのだから、やはり「セカイ」と揶揄されることになるのだと思うわけだ。つまり、「近景」が「中景」と関係を持つことなく「遠景」と接続される、というもっともらしい分析的表現ははたして妥当なのだろうか。小説や漫画やアニメの中で、はたして中景というのはそれほど重要な要素だったかと言えば、そうだとは思わない。繰り返すが、要するに「セカイ系」とは、「妄想的事態」が作品内の「世界」になることではないか。「妄想的事態の現前化」が本質なのであって、「世界の危機」がはたして「セカイ系」の必須条件かどうか疑わしいと私は思う。広義で言えば、あらゆるフィクションはすべて「セカイ系」だとも言えるのではないか。
あのころ「セカイ系」と言われた作品を私はよく知らないが、「近景(日常的世界)」が妄想性や飛躍性を持つこと(それは世界を「遠景」とすることとは別のものだろう)が「セカイ系」のような気がする。まあ、要するに「近景」「中景」「遠景」という言葉に私は無理さを感じるわけである。むしろ、現実と非現実の表裏が入れ替わるのがポイントなのではないか。


(以下引用)

セカイ系とは、アニメやライトノベルやゲームの分野で、おもに2000年代初頭以降に流行った世界観のこと。自分の心境や自分を取り巻く狭い範囲の状況(近景)が、コミュニティや他の人々(中景)との関係性が描かれることなく、世界の危機(遠景)に直結している、といった定義が一般的だ。

やや強引にこの構図を当てはめるなら、繊細な彼らはネットを通じて、自分のお気持ち(近景)が、大文字の“社会”や“マスコミ(遠景)”と、直結してしまっている。