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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

原罪とは何か

「原罪」という言葉を、自分には何の責任も無いのに先祖のために不条理に負わされる罪と解すれば、この「原罪」の用法は正しい。つまり、キリスト教の「原罪」がいかにナンセンスなものか、ということでもある。

(以下引用)

俺が毎月払ってる東京の家賃十数万は、「都会の地主の息子に生まれなかった原罪税」であるし、「田舎の窮屈さか逃れるための料」であるという認識であるよ。
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「セカイ系」とは何か

とある評論の一節で、書いてあることが妥当かどうかは別として、「セカイ系」という、昔から気になっていたが今でも理解できない言葉の説明らしきものがあるから転載した。
私の印象では「世界系」ではなく「セカイ系」と表記されているのは、揶揄であり、その「セカイ」は本物の世界ではありませんよ、という指摘を含意していると思う。つまり、「妄想系」だろう。普通なら妄想で終わる事柄が、作品中では実際の出来事となるような作品を「セカイ系」と言っていたのではないか。いや、これは私の独断でしかないのだが、下の定義にはあまり納得できないのである。
つまり、ここでの「世界の危機」とは、要するに「作品内世界の危機」でしかないのだから、やはり「セカイ」と揶揄されることになるのだと思うわけだ。つまり、「近景」が「中景」と関係を持つことなく「遠景」と接続される、というもっともらしい分析的表現ははたして妥当なのだろうか。小説や漫画やアニメの中で、はたして中景というのはそれほど重要な要素だったかと言えば、そうだとは思わない。繰り返すが、要するに「セカイ系」とは、「妄想的事態」が作品内の「世界」になることではないか。「妄想的事態の現前化」が本質なのであって、「世界の危機」がはたして「セカイ系」の必須条件かどうか疑わしいと私は思う。広義で言えば、あらゆるフィクションはすべて「セカイ系」だとも言えるのではないか。
あのころ「セカイ系」と言われた作品を私はよく知らないが、「近景(日常的世界)」が妄想性や飛躍性を持つこと(それは世界を「遠景」とすることとは別のものだろう)が「セカイ系」のような気がする。まあ、要するに「近景」「中景」「遠景」という言葉に私は無理さを感じるわけである。むしろ、現実と非現実の表裏が入れ替わるのがポイントなのではないか。


(以下引用)

セカイ系とは、アニメやライトノベルやゲームの分野で、おもに2000年代初頭以降に流行った世界観のこと。自分の心境や自分を取り巻く狭い範囲の状況(近景)が、コミュニティや他の人々(中景)との関係性が描かれることなく、世界の危機(遠景)に直結している、といった定義が一般的だ。

やや強引にこの構図を当てはめるなら、繊細な彼らはネットを通じて、自分のお気持ち(近景)が、大文字の“社会”や“マスコミ(遠景)”と、直結してしまっている。

日蓮宗とは何か

私は日本の仏教の区別が分からないし、その中で特に日蓮宗の他宗排斥の理屈が分からないので調べてみたが、それでも今ひとつ分からない。他宗の何が問題なのだろうか。
創価学会は何宗なのかもよく分からない。

(以下引用)

日蓮宗の歴史

平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、大地震や噴火などの災害が各地で多発し、貴族社会から武家社会へ移り変わる中で戦乱が繰り返され、飢饉や疫病で苦しむ人々が後を絶ちませんでした。

そのような社会的混乱や不安が広がる中で、仏様の教えにより人々を救おうとさまざまな宗派が生まれることになります。その一つが日蓮によって開かれた日蓮宗です。

平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、大災害が多発しその社会的混乱から人々を救うためにさまざまな宗派が生まれました。

16歳で出家し、比叡山や高野山などで修業を積んでいた日蓮は、妙法蓮華経(法華経)こそが仏教を説いた釈迦の唯一の教えであると確信します。そして、「天変地異が繰り返されるのは邪法や悪法が世間に広まっているからだ」と説いた『立正安国論』を執権北条時頼へ提出しますが、その内容を幕府に危惧され伊豆に流罪されてしまいます。しかし日蓮はそういった数々の迫害を乗り越え、1253年(建長5年)にはお釈迦様による法華経の教えをよりどころする日蓮宗を立教し、布教につとめました。

現在、日蓮宗寺院は全国に5,300ヵ寺あります。日蓮は晩年を山梨県で過ごし、日蓮と弟子によってたくさんの寺が開かれたため、山梨県は特に日蓮宗を信仰する人々が多い地域となっています。

日蓮宗の教え

宗派名に日本人の宗祖の名前が使われているのは、13ある宗派の中でも日蓮宗だけです。それほど日蓮宗は、日蓮が与えた多大な存在意義が深く反映されている宗派であるといえるでしょう。
日蓮宗ではお釈迦様が説かれた教え、妙法蓮華経(法華経)を何よりも大切にしています。日蓮は、法華経はお釈迦様の心そのものを表したもので、題目である「南無妙法蓮華経」の7文字こそ功徳のすべてであると考えました。

当時、法華経以外の経典では、女性や武士をはじめとする一部の人々は成仏できないとされていました。その状況下で、法華経の説く「差別なく万人を平等に成仏できる」という仏教思想の原点に今こそ戻るべきであるとした日蓮の教えは、当時の仏教界に新たな風を吹き込んだのです。

お唱えする言葉

「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」

日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えることを最も重要な修行・信仰だとしています。繰り返すことで、死後に「霊山浄土(りょうぜんじょうど)で釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)にお会いし、成仏することができる」とされているのです。




恋愛することと「恋愛の表現」

小谷野敦が「日本文化論のインチキ」の中で、「恋愛は12世紀西洋の発明だ」という説に関して、「それは、12世紀に西洋の『男が』恋愛を詩や歌の中で表現するようになったということではないか」という趣旨のことを書いているが、これは卓説だと思う。つまり、男が「女を得るために詩や歌を使い、その詩や歌の中で恋に苦しむ自分を描く」と、その詩や歌が吟遊詩人によって広まるわけだ。もちろん、これ(詩歌の中に恋情を描くこと)は日本では古今集の時代には当たり前の現象だったわけで、明治の青年が「近代的自我」の現れとして西洋の文芸の中の恋愛を参考にして、盛んに「西洋的恋愛」を試みたのは、当時の青年が自国の文化にうとかったためで、明治以降の文化が明治維新によってそれ以前の文化から断絶した結果だろう。

敵味方であり共存関係でもあるのが会社と労働者

これは一種の「スト破り」行為になるわけだ。
個人的には会社の覚えがめでたくなるだろうが、社員全員にとっては「迷惑行為」になる。

「あなたはこれまで多くの人が戦って勝ち得てきた権利を無駄にしてる」

というのは、婉曲な言い方で、「あなたはこれまで多くの人が戦って勝ち得てきた権利を敵に与えている」と言うべきだろう。もちろん、会社が労働者の敵だと言うのは言い過ぎだが、労働者の権利に関しては「利益相反」の存在ではある。簡単な例を挙げれば、会社が労働者の給与を引き下げれば、会社には利益、労働者には不利益になる。労働時間も同じだ。と同時に、会社が存続し、利益を上げることで労働者は給与を得るという共存関係でもある。



(以下引用)

ルーマニア出身の友人が週末にEメール返したり会社に行ってるのをみてカナダ人の同僚が、あなたがそんな事するから会社はそれを期待する、あなたはこれまで多くの人が戦って勝ち得てきた権利を無駄にしてる、と言ったそう。それ以後友人は時間外の仕事をセーブするように。色々と考えさせられる。