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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

身体と精神

これは単なる推測であり、決定的な根拠は無いし、こういう発言は差別的発言として弾劾されるだろうが、身体障碍者は必然的に精神の発達が阻害されるのではないだろうか。
これは自分自身が老人になって様々な身体の不調を経験しての発言だ。つまり、常に体のどこかに苦痛や気になる異常が存在しながら、別の事、たとえば学習なり哲学的思考などに注意を集中するのは不可能だろう、ということなのである。人生の初期からそういう「精神の鎖」を巻かれながら、明朗快活で前向きな精神に育つのは私には不可能に思える。などと言うと、「五体不満足」の彼はどうなのだ、と言われそうだが、そういうのが例外的だからこそ彼は目立ったのではないか。ひどい言い方をするが、背虫(どう表記するのか分からない)として生まれたら、背虫の精神を持つ、ということだ。
もっと簡単な例を挙げれば、靴の中に砂粒がひとつ入っただけでも我々の精神は集中できなくなるのである。あるいは蚊に刺されても同じだ。もちろん、そういう状態でも仕事は可能だが、それは大きな努力によるものだ。とすれば、難病患者として生まれ育った人間の精神がどのようなものになるのか、推定するのは容易だろう。仮に苦痛は無いが奇形である体で生まれ育ったらどうなるか。そこでも、その奇形に対する周囲の目を意識することで、普通とは異なる精神が発生するのは自然の成り行きだと思う。それが、背虫として生まれたら背虫の精神を持つということなのである。これは、後天的な障害とは別のものだろう。
何が言いたいかと言うと、身体の健康や美は、我々が何となく考えているより生きる上で重要な要素だということである。それに比べると、頭が良いとか学校の成績が良いというのはあまり重要ではないのではないか。
まあ、とにかく、「肉体と精神」を単純に分けて考えるのは違うのではないか、というのが私の考えだ。
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