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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

我が家の来歴

私の兄の書いているブログの記事だが、私自身は我が家の来歴など知らないので、自分自身のために保存しておく。まあ、他人に知られて困る内容でもないし、すでに兄の手で外部に出たのだから、ここに保存してもかまわないだろう。


想像の世界(48) なんとなく、つまらん砂漠に空っ風が吹いているような今の世相ではある。



想像の世界(48)   なんとなく、つまらん砂漠に空っ風が吹いているような今の世相ではある。



クレオパトラより前のエジプトは、すでにピラミッドもできてツタンカーメンの墓もできていた3000年前となり、その墓に入れられた2本の剣は、1本が黄金で今でも輝いているが、もう1本は鉄の剣だ。

ところがその剣も錆びてないのだ。

それで調べてみたところ、鉄分を多く含んだ鉄隕石で作られているようだったのだ。



もっと不思議なことには、当時のエジプトには鉄でできた剣などそれ以外には存在せず、どうそれを考えたら良いのだろう。

日本なら縄文時代よりもっと前で、鉄どころか青銅も黄金もまだないわけだ。

科学のこれだけ進歩した時代でも錆びない鉄の剣なんてびっくりで、どんな学者の発明か、それとも科学者以上の天才職人が生まれたのか、さっぱり想像もつかないのだ。



宮古島で歴史がはっきりしているのは、与那覇豊見親(トゥイミャー)の頃からで、それ以前はやはり想像の時代だからわずか数百年しかわからないのだ。

ちなみに与那覇は僕の父の旧姓で、宮古島の最初の豊見親、つまり王の1族ではあるが、戦いに敗れ下地の一部落、今の与那覇に逃げたわけだ。

だから中山、つまり旧制与那覇の一族も、平良から下地の与那覇、そして上野へ、次に鏡原へと流転をして、最後にまた平良で砂川光子と結婚して、僕らが生まれたわけだ。



砂川家は試験場(シキンバ)と言う農地38町歩を持つ大資産家だったが、おじいさんの代で31町歩はジュリーの家(遊郭)で使い果たした、いわば馬鹿じいさんで、残りの7町歩は日本政府の当時の軍接収されて、おじいさんはそこで亡くなったので大した苦労もなく死ねた幸せもんだが、おばあさんは苦労して砂川の御姉妹を全員美人に育てあげて、その中の1番美人が三女の中山光子に、つまり僕らの母になったわけだ。

確かに僕以外の兄弟はみんなハンサムで、僕だけがむちゃくちゃワンパクに育ったが、これは1人だけ母の姉のハツおばさんの子供みたいに、ずっと小学3年生まで育ったせいかもしれない。

おかげで小さい頃から、“アカンバマーちゃん”、として絶対自分の意思は曲げない性格に育ったのだ。



ま、甥や姪のため、我が子達の為でもあり、中山の歴史をちょっと書いたが、そもそも中山とは父と母が敗戦後変えた姓で、本当ならススカニヤー(白髪家)の与那覇か、シキンバの砂川が僕らの姓だ。

兄等は超現実派なので、やはり医者と言う職業のせいだと思うので、自分がどういう生まれかなどにこだわるのはつまらんと考えるタイプと思うが、僕などは医者等はつまらんと考えるロマン派だから、生まれて6歳までは天才だったが、7歳を迎える前、つまり小学校入学の3日目から登校拒否で勉強も一切拒否したので、つまり6歳まではハツおばさんが遊びの中で基本の勉強が全部を教えたので、小学入学までは圧倒的な知識量で本当に天才だったわけで、たった6歳まで徹底して学べば、後は自然に大学までは合格すると言う良い見本でもあるわけだ。



文学と推理小説が好きで、その分野の本を片っ端から読みあさったもんだが、その中で1番好きなのがドーデーなんだから、やはりロマン派で、後はターザンが好きで、小学生の頃に見たターザン映画は2本ぐらいだが、今も忘れられない。

実際家出してアフリカに行こうとしたのは、モロッコやアルジェに行こうと思ったが、もう一つケニアあたりにはまだジャングルがあり、ヤリや弓を持った土人もうようよいると思っていたのも理由の1つではあったのだ。

でももう今は昔のアフリカ、つまりターザンのアフリカも、外人部隊のアルジェも、ペペルモコのモロッコももうないのだ。

なんとなく、つまらん砂漠に空っ風が吹いているような今の世相ではある。



人類の歴史を考えるが、ツタンカーメンの3000年でもあっという間であり、ピラミッドができたのさえ、まだ諸説ある位で、5000年や6000年も短い歴史で、人類が誕生して200万年だ300万年だと言うが、それすらもあっという間の話に過ぎない。

地球の歴史、さらに太陽系の歴史、さらに大宇宙の歴史と考えると、さらにその前は何だったのだ。

南億光年の遥かの世界の生まれる前は、何もない“無”らしいが、一生懸命考えても“無”からは何もわからないから厄介だ。



その辺が哲学者の仕事だろうけど、それすら分からず、やはり哲学者や科学者などと名乗るのも辛い話ではある。

世の中利口なものにも限界があり、馬鹿な奴がうじゃうじゃいるから全く以て全ては混沌の中にある。

さて、ツタンカーメンから甥や姪、そして我が子達に思いを馳せ、最後は宇宙の誕生まで考えて見るわけだから、想像の世界も忙しいもんだ。

ということで、今日はこの辺にしておこう。



2018年12月27日
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麺類はおかずか

「ラーメンライス」を知ったのは「男おいどん」だったかなと思うが、まあ、学生ならアリか、という程度で、それが普通に存在するとは思わなかった。麺類をおかずに白飯を食うというのは、関西では普通なのだろうか。






上京して驚いたのはスパゲティ屋さんで、誰もライスを食べてなかったこと。
おかずやん。スパもラーメンも焼きそばも(雅)。





avastとは何か

avastという、アンチウィルスソフトがあるのだが、勝手にパソコンに侵入してきて(インストールされて)、それが入るとパソコンの動作が異常に遅くなるという経験をしている。まあ、その他の原因があるのかもしれないが、とにかく、それ自体がウィルスみたいなソフトである。



我が家の歴史

脳出血後のリハビリのためにブログを書いている、私の兄の書いた文章だが、私自身知らない事実がたくさん書かれていて、まあ、私的メモだが、他人に知られてマズい内容でもないから個人的便宜のためにここに保存しておく。
私自身、あまり長生きするとは思えないので、私自身の遺言代わりにもなるだろう。もしも私が脳溢血にでもなったら、父同様にそのまま死なせてほしい。正岡子規の言うように、「平気で死ぬより、苦難の中でも平気で生きていくほうが偉い」(言葉通りの表記ではなく、そういう趣旨)という点では脳出血後も一生懸命リハビリしながら生きている兄は偉いが、私は「見るべきものは見つ」と思っており、いつ死んでも別にこの世に未練は無い。



(以下引用)


想像の世界(21) 父は60歳で他界したが、わずか1年の別れで母と再会できたのだから、父が1番幸せ者かもしれないな。

想像の世界(21)   父は60歳で他界したが、わずか1年の別れで母と再会できたのだから、父が1番幸せ者かもしれないな。



父と母のことを考えた。



昔、顔も知らないのに宮古中学校(今の宮古高校)で1番優秀な生徒、つまり四年連続唯一の特待生と聞いて、”私の夫は与那覇勇吉にする”、つまり後の中山勇吉と決めた母を、これまた友達が、”勇吉、〇〇家(当時の料亭)の美人の光子がお前と結婚すると言っているよ”、と言うので、ある日父は物陰に隠れて母が現れるのを待っていると、現れた母の姿があまりに美しくて度肝を抜かれ、それから大分経ってから、母に、”俺は勇吉だけど、俺と一緒になってくれるか”、と告白すると、母は、”それではちゃんと食べていけるだけの仕事についてから会いに来てください”、と言ったようだ。

有頂天になって父は早速警察官になり、持ち前の頭の良さと宮古でも有数の柔道の強さでどんどん昇進して、最年少の警部となり、多分その頃に晴れて光子と結ばれたと思われる。



その頃の上司が、あのオリオンビールを作った具志堅そうせいで、警察署長としてとても勇吉を可愛がり、その付き合いは父の死ぬまで続いたのだ。

戦時中は陸軍だったわけだが、ここでも必死に勉強し尉官試験を受け、100人余人中、たったの2名昇官したらしいが、それに父はトップで受かり、もう1人も沖縄人で、外はほとんど内地の人でみんなを驚かせたようだ。

昔といっても、つい73年前まで沖縄は韓国、つまり朝鮮人と台湾人と同様に琉球人として二等国民として扱われており、だからこそ父も、もう1人の沖縄出身の方も必死になったんだと思う。



そして戦地中国では、愛馬も2頭殺され、多数の部下をなくし、敗戦で父がやっとの思いで母と兄と僕を連れて宮古島へ戻って、僕も台湾で6月17日に生まれているので宮古島へは10月頃来たようだ。

おかげで僕は、湾生、つまり台湾生まれの会を作ってくれと先輩から頼まれ、気持ちはあったが記憶が伴わないので断念したのだ。

昔々の写真を見ると、戦時中ながら父が戦前の中国から台湾連隊の副官の頃の幸せそうな父と母、そして兄やハツおばさんや、照子おばさんの姿が今も偲ばれる。



と、なんとなく記憶していたが、ただいつもこの幸せそうな写真は多分第二次世界大戦勃発前の父の少尉時代の写真で、この幸せは父が宮古島の若者として異例の出世で、母達もみんな誇らしく思っていた表れで、つい僕もずっと台湾時代とばっかり思い込んでいたのだと思う。

つまり父はまだ少尉の頃で、足に貫通重曹を受ける前の若者の頃で、母も25か26歳位では無いかと思う。



母は1男5女の3女として生を受けたが、優秀だった次女は女学生の頃病気で亡くなったようで、母も養女に出ていたが、兄や妹とはずっと付き合いはあったようだ。

母はもともと砂川姓で、砂川の5人の美人姉妹と言われ、中でも3女の光子
がトップの宮古1の美女と騒がれたようだ。

おかげで戦後もすごく気の強い美人妻として、貧乏ながらも頭の飛び抜けて優秀でタフガイの父と、気の強いNo.1美女の母は平良(ひらら)では皆が恐れ敬うコンビだったようだ。



これは、昔の平良市の市長だった平良重信から直接僕が聞いた話だ。

父は鏡原のススカニャーと言う家で生まれて、家は田舎ではかなりの裕福なマスヤーの分家で、まぁまぁの暮らしといっても尋常小学校でおしまいと言う暮らしだったが、あまりに頭脳明晰で優秀だったので、当時の鏡原小学校の校長と担任は、ススカニャーに何度も足を運び、学費や生活費も自分たちが何とか工面するから、勇吉をせめて中学校に送ろうと口説き続け、やっとの思いで宮古中学校へ父は行けたようだ。

それからの活躍がめざましかったわけなので、光子は自分の夫になる男は勇吉しかないと決めたのだ。



父も母も波瀾万丈な一生だったが、わずかに母が57歳父が60歳で亡くなったのは残念無念である。

でもある意味では、母はずっと父のことを愛していたんだなぁと思う。

そして父も母のことを愛し続けたなぁと思うので、2人はずっと相思相愛の一生だったと思うのだ。



ただ父の事にしろ母の事にしろ、これは全てハツおばさんや勲兄さんから、父の友人知人から聞いた話で、父も母も自分たちの事は一切話した事はなかった。

僕たちのことも見守るだけで、特に親しく楽しく話し合うと言う事は殆どなく、母など僕みたいに小学3年生まで、ハツおばさんに優しく育てられ、実家に戻った者から見ると、母はかなりきつい女だったのだ。

特に中学生、高校生と大きくなるにつれて、7歳年上の兄は徳島大学の医学生として順調に実績を積んでいるのに、僕など小学校入学後からまるで勉強をやらない子供だったので、毎日、”勉強やれ”、”勉強やれ”、と言う母は大嫌いで、まるで鬼婆と感じていたもんだ。



僕の勝手な判断で言うと、兄弟で1番頭の良いのが僕で、次が末弟の剛で、次が兄の勲で、最後が三男の仁と思うが、実際には兄と三男の仁は現役の医者で、末弟の剛は学習塾の先生だから、僕が最下位となるわけだ。

或る意味では、少なくとも医大に1時は通ったんだから、剛もかなりの生活を保障されたはずなのに、やはりそこを退学したのは多分内地にはあまりに優秀な医学生などがゴロゴロいるので嫌になったんじゃないかと思うのだ。

まぁ、僕みたいに平気の平さで、大学でも一生懸命勉強するものが皆変人としか思っていなくて、自分が1番自由でいいやと思っていたのだから、本当に能天気な幸せ者かもしれん。

そして僕は離婚歴ありだし、例え今はとても幸せだとはいっても、威張れるもんでもないし、やはり頭の良さよりも現在の実績かなと考えると、友人知人にも恵まれている勲兄さんがトップで、医者としての実績より以上に愛妻家が目立つ仁が第2位で、ぜひ剛には第3位を保ってくれよとの祈りを込め、僕はビリッケツだが、まぁ1番幸せな男としておこうと勝手に決めたわけだ。



脳出血で父は60歳で他界したが、わずか1年の別れで母と再会できたのだから、父が1番幸せ者かもしれないな。

僕も母につきっきりで、母の最後も看取ることができたし、父の最後も僕が結婚半年位だったから、せめて父を安心させたかなとも思い、勲兄さんと交代して心臓マッサージを延々と続けたが、最後に、”マーもういいよ”、と止められた日の辛さは忘れられない。

母の葬儀も傷痍軍人会会長の妻として、僕が驚きあきれたほど盛大だったし、父の時もそうだった。

まだ3000人余りの会員が生き残っていたことが、或る意味では父も母も幸せな死に時だったのかもしれない。



2018年10月31日