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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

翁の文(第十二節)

(例によって「富永仲基」による注:翁はこう説いているけれども、孔子が文王武王を則として王道を説いたのは、五伯の道が功利だけを尊んで、事柄がみな偽りに走るのを憂えてである。わざわざ企んでその上に出ようとしたわけではあるまい。また釈迦が六仏を祖として生死を離れよと説いたのも、それ以前の外道たちが皆真実の道でないのを憂えてである。わざわざ企んでその上に出ようとしたのではないだろう。もしまた翁の言葉のように、わざわざ企んでその上に出たものならば、釈迦孔子と言っても皆取るに足らないものと言うべきである。)
さてまた神道と言っても、皆中古の人々が神代の昔にかこつけて、日本の道と名付け、儒仏の上に出たものである。たとえて言えば、インドの光音天、中国の盤古氏の自分にも、仏と言い儒と言う、ひとかどの定まった道があったのではない。仏と言い儒と言うのも、皆後の世の人が、わざわざ仮に(仮説として)作り出した事であるので、神道と言ってもまた神代の昔にあるべきではないのだ。その最初に説き出したものを両部習合(注:真言の教説で解釈された神道説)と言う。儒仏の説を合わせて適当に加減して作ったものである。その次に出たのを本迹縁起(訳者注:本地垂迹説か。)と言う。これはその時分に神道が起こったのをねたんで、仏者が、表には神道を説いて、裏ではこれを仏道へ落としこんだものである。さてその次に出たのを唯一宗源と言う。これは儒仏の道を離れて、ただ純一の神道を説いたものである。この三部の神道は、皆中古のことで、また近頃出てきたのを王道神道と言う。これは神道の道だと言っても格別にその道があるのではなく、王道が神道であると説いたのである。また或いは、表では神道を説いて、裏では儒とひとつである神道も出てきた。これらは皆神代の時代にはなかった事であるが、このようにかこつけて説いて互いにその上に出たものである。これを知らないで、世の愚かな人々が、皆真の道と心得てその身にも間違ったことをし、互いに真偽を争うのは気の毒でもあり愚かしいことでもありまた可笑しくも翁の心には思うのである。


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翁の文(第十一節)

また孔子が、堯舜を自らの思想の基として教えを述べ、文王武王をその規範として王道を説いたのは、これはその時分に斉の桓公晋の文公のことを言って専ら五伯の道を尊んだ、その上に出たものである。また墨子が同じく堯舜を尊んで、夏の道を主張したのは、これはまた孔子が文武を則としたその上に出たものである。さてまた楊朱が帝道を言って黄帝などを尊んだのは、また孔子墨子が説いた王道の上に出たものである。許行が神農を説き、荘子列子の輩が無懐氏ほかの古代の王の世を説いたのはまた皆、その上に出たものである。これらは皆(儒教から見ると)異端のことで、同じ孔子の道にも、儒が分かれて八つとなるとあるので、さまざまに孔子にかこつけて、皆その上に出たのである。告子が性に善なく不善なしと説いたのは、世子が性に善あり悪ありと説いたその上に出たのである。また荀子が性悪説を説いたのは、孟子が性善説を説いたその上に出たのである。楽正子が孝経を作って、曽子の問答にかこつけて、孝を説いたのは、また諸々の道を捨てて、孝へ落とし籠めたものである。(訳者注:この「落とし籠める」という言葉は、思想一般の根本的病いとして重要な思考素だと思う。つまり、思想は常に整理され単純化される傾向があるため、重要なものが切り捨てられることが多い、ということだ。要するに、「捨象」である。)これを知らずに、宋(時代)の儒者は皆これをひとつであると心得、近頃の仁斎(伊藤仁斎)は、孟子のみ孔子の血脈を得たもので、その他の説は皆邪説であると言い、また徂徠(荻生徂徠)は、孔子の道はそのまま先王の道で、子思・孟子などはみなそれに反しているなどと言ったのは、みな大いに見損ないで間違ったことである。この始終を知りたければ「説弊」(富永仲基の書。現存しないらしい)という書物を見るがよい。






翁の文(第十節)

釈迦が六仏を祖とし、然灯仏を思い出して、生死を離れよと勧められたのは、それ以前の外道ども(初期仏教の釈迦以外の修行者たち)が、天を祖として、それを基にして修行したら昇って天に生まれると説いた、その上に出たものである。それ以前の外道どもも、皆互いにその上に出ようとしたもので、鬱陀羅が非非想を説いたのは、阿羅羅の無所有所の上に出たものである。その無所有所の説は、またそれより先の識所の上に出たものである。その識所の説は、またそれより先の空所或いは自在天などを説いた、その上に出たものである。このように段々と説き出して、天を三十二まで説き延ばしたのだ。これは外道の場合で、同じ釈迦の仏法にも、文殊の徒が般若の大乗を作って空を説いたのは、迦葉の輩が阿含を作って有を説いた、その上を出たものである。普賢の徒が法華深密などを作り、不空実相を説いて、それを成道四十余年の後の説法にかこつけたのは、また文殊の説の空の上を出たものである。その次に華厳を作った者が、成道二十七日の説法にかこつけて、日輪がまず諸大山王を照らすのにたとえたのは、またこれを成道の始めにかこつけて諸法の上に出たものである。その次に涅槃(涅槃経)を作った者が、涅槃一昼夜の説法にかこつけて、醍醐が牛乳から出るのにたとえたのは、諸法を合わせてその上に出たものである。また金剛薩埵(の経が?)が大日如来にかこつけて、法華を第八、華厳を第九と立て、釈迦の説法を皆顕教と名付けたのは、これは諸法を離れてまたその上を出たものである。また頓部の経が、一切煩悩、本来自ら離る、一念不生、すなわちこれ成仏など言い、また禅宗に四十余年所説の経巻は、みな不浄を拭う破れ紙など言い出したのは、これは諸法を破って、またその上を出たものである。これを知らないで、菩提留志は、釈迦の一音、色々に聞こえたるなりと言う。また天台は、釈迦の方便によって、一代のうちに説法が五度変わったと言い、また賢首は、衆生の根機に従って、その伝える所がそれぞれ異なるなどと心得たのは、すべて大きな取り損ないの間違いである。このいきさつを知ろうと思うなら、出定(注:「出定後語」のこと。)という書を見るのがよい。





翁の文(第九節)

(例によって、「富永仲基」による注釈:これによって翁も本意を言い表している。まったく三教の道を捨てようというわけではあるまい。ただその真の道を行わそうということである。)
しかしながら、ここに翁の説がある。一般に、昔から道を説き法を始める者は必ずそのかこつけて祖とするものがあって、自分より先に立てた者より上に出ようとするのがその定まった習わしで、後の人は皆これを知らないで迷うことをしている。(訳者注:富永仲基の有名な「加上説」である。)





翁の文(第八節)

そういうわけで、この真の道を捨てて、別に何の道も作り出しにくい証拠には、釈迦も五戒を説き、十善を説き、貪欲、憤怒(注:この漢字の意味はよく分からないので仮にこう訳しておく。)、愚昧の三つを三毒と名付け、父母に孝養し、師や長に仕え奉ることを三福のひとつに連ね、諸々の悪は為すなかれ、諸々の善は行い奉れ、自らその心意を清くすることが諸仏の教えであると説かれている。孔子も孝弟忠恕を説き、忠信篤敬を説き、知仁勇の三つを三徳と名付け、怒りを抑え、欲を塞ぎ、過ちを改め、善に遷るとも説き、君子は常に平静で穏やか、小人はいつも心が憂え痛んでいると説いている。また神道の人も、清浄・質素・正直と説いている。これらはみな真の道に適うもので、至上の言葉で間違っていないものは似ていると言うべきである。であるから三教を学ぶ人も、このように心得て、道理に外れて怪しく異様な行為をせず、人の世に交わってこの世を過ごすならば、それはすなわち真の道を行う人と言うべきである。