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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

翁の文(第十一節)

また孔子が、堯舜を自らの思想の基として教えを述べ、文王武王をその規範として王道を説いたのは、これはその時分に斉の桓公晋の文公のことを言って専ら五伯の道を尊んだ、その上に出たものである。また墨子が同じく堯舜を尊んで、夏の道を主張したのは、これはまた孔子が文武を則としたその上に出たものである。さてまた楊朱が帝道を言って黄帝などを尊んだのは、また孔子墨子が説いた王道の上に出たものである。許行が神農を説き、荘子列子の輩が無懐氏ほかの古代の王の世を説いたのはまた皆、その上に出たものである。これらは皆(儒教から見ると)異端のことで、同じ孔子の道にも、儒が分かれて八つとなるとあるので、さまざまに孔子にかこつけて、皆その上に出たのである。告子が性に善なく不善なしと説いたのは、世子が性に善あり悪ありと説いたその上に出たのである。また荀子が性悪説を説いたのは、孟子が性善説を説いたその上に出たのである。楽正子が孝経を作って、曽子の問答にかこつけて、孝を説いたのは、また諸々の道を捨てて、孝へ落とし籠めたものである。(訳者注:この「落とし籠める」という言葉は、思想一般の根本的病いとして重要な思考素だと思う。つまり、思想は常に整理され単純化される傾向があるため、重要なものが切り捨てられることが多い、ということだ。要するに、「捨象」である。)これを知らずに、宋(時代)の儒者は皆これをひとつであると心得、近頃の仁斎(伊藤仁斎)は、孟子のみ孔子の血脈を得たもので、その他の説は皆邪説であると言い、また徂徠(荻生徂徠)は、孔子の道はそのまま先王の道で、子思・孟子などはみなそれに反しているなどと言ったのは、みな大いに見損ないで間違ったことである。この始終を知りたければ「説弊」(富永仲基の書。現存しないらしい)という書物を見るがよい。






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