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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「失敗」を許さない社会

人間は自分の存在を否定されるのが一番辛い。それは人間が自己愛の塊だからだ。自己愛とは生物的な自己保存本能と同じもので頭から否定すべきものではない。ナルシシズムはその過度なものにすぎず、誰にでもその要素自体はある。
で、下のツィートにあるように、何かを言った後に相手から「何で?」と問い返されるのは、「私はお前の言説を許容できない」と言われたわけであり、それは発言者自身の存在の否定に等しいわけである。だから、議論(ディベート)の上手い人間は、相手の言った内容を絶対に肯定しないか、どうでもいい部分しか肯定しないはずである。そして、「何で?」を繰り返し、相手を追い詰める。社会事象のすべての事柄は、正確さに欠けるのであり、それを「説明」するのは困難なので、どんどん窮地に追い込まれる。誠実な人間ほどディベートでは負けるという、理不尽なことが起きるのである。
もちろん、原則的には原因究明と糾弾は別のことだが、実生活ではだいたい「何で?」は相手を追い詰める糾弾の言葉になっていることが多いはずだ。山本氏も、その認識の上に立って、親や教師が子供を追い詰める行為を批判しているのだろう。
失敗を許さない社会が子供を委縮させ、卑怯な人間や嘘つきを常に再生産していく。



「なぜあなたはその行動をとったのか」を一種の糾弾だと早合点するのは、成長過程でその言葉をそういう意味で使う親や教師の影響が多いと思う。子どもはそれを真似するので子どもも使うが、そもそも原因究明と糾弾は別のこと。

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食品製造のコストカットに伴う危険性

この人のツィッターの内容は、まさにマッチョイズムそのもので、好きにはなれない性格だが、普通の人の言えないことを堂々という点ではなかなか有益なものがあるので、時々覗いてみる。下のツィートも、「身近だが目には見えない危険性」を示している可能性がある。鶏の餌に何かの危険物(成長ホルモンの類か)が含まれるために、卵黄が壊れやすいのではないか。




今週は焼いている最中にハムエッグの卵黄が4回も割れた。思い起こすと数年前にも続発した事があった。鶏のエサが原因で卵殻が割れやすくなるのは聞いた事があるが、卵黄が割れやすいのは何が原因なのだろう?
今日はスーパーの玉子に変更したら全く割れなかったから、俺の技術が原因では無いのは確か。





出雲の「国譲り神話」とは、弥生人対縄文人の戦闘

「ネットゲリラ」記事の野次馬氏の前説部分だけだが、私も野次馬氏(ゲリラ氏)と同意見である。つまり、縄文人(日本原住民)と弥生人(大陸渡来人)は混血によってその純粋形は消滅し、今の日本人は縄文人も弥生人も祖先に持つと考えている。まあ、朝鮮人っぽい顔が弥生人の血を濃厚に持つわけだろう。縄文人というのはアイヌ系か沖縄風の「濃い」顔だと思う。
それはさておき、古代出雲人に縄文人のDNAが濃いというのは当然の話であり、「古事記」の「国譲り神話」というのが弥生王朝(大和朝廷の祖)による出雲王朝の征服だったというのは、その部分を読んだ人なら誰でも即座にそう思うだろう。つまり、征服された側が縄文人だったというのも当然の話になる。この引用された記事の死体は、弥生王朝と出雲王朝の戦闘の死者だったのではないか。だから両者の「純粋形」がきれいに分かれたのだろう。


(以下引用)


つまり麻生は嘘つきってことか?

| コメント(7)
耕作を知らなかったり、効率の悪い農業しか知らない集団の中に、効率の良い近代的な農業を携えた集団が入り込むと、数世代で旧集団を駆逐してしまうわけです。アメリカインディアンとか典型的にそうで、別に虐殺で減ったわけじゃない。新しい効率的な農業集団の人口増加率が高いので、生産性の低い集団はあっという間に少数派に転落してしまうのだ。

 古墳時代の出雲人は、同時代に関東で見つかった人骨や現代の日本人よりも、縄文人に近い遺伝子を持っている――。出雲市で発見された古代人骨のDNA解析から分かった。古代出雲では、大陸から来た弥生人との混血が進んでいない可能性がある。
 出雲市の出雲弥生の森博物館で昨年12月、同市の猪目洞窟遺跡で1948年に発見された古墳時代(3~7世紀)のものとみられる人骨のDNA解析結果の報告会があった。
 調査したのは遺伝子研究の専門家である国立科学博物館人類研究部(茨城県つくば市)の神沢秀明研究員。神沢研究員によると、猪目洞窟遺跡から出た人骨7体の歯や側頭骨から骨粉を採取し、石灰やたんぱく質を溶かすなどしてDNAを抽出した。
 そのうち6体から、母系統から受け継がれるミトコンドリア内のDNA情報を解析。6体のうち3体が日本列島に元々住む縄文系、3体が大陸から渡ってきた渡来系だと判明したという。

おいらの持論なんだが、水稲栽培技術を携えて日本に渡ってきた集団と、以前から住み着いていた水稲栽培技術を持たない集団とは、激しい抗争や戦闘はなかったようなんだが、それは依って立つところのエリアが違っていたからで、低湿地の足がズブズブ埋るな土地というのは、水稲栽培にしか使えないので、喧嘩にならなかった。縄文人はそれこそ「海彦・山彦」で、鳥獣、魚、木の実などを採取したり、山麓で焼畑農業やったり。低湿地には興味がない。それが、2000年かけてゆっくりと融合して来たのが、今の日本です。




人は社会と隔絶して生きられるか

「東海アマ」ブログから転載。前半の他記事引用部分は省略。
僻地での、極貧の一人暮らしの有様が、細かい収支決算付きで書かれていて興味深い。
これほどの極貧生活ではないが、私も「病院に行かない」覚悟をしている。まあ、要するに病院と喧嘩したのである。地元の病院の紹介で行った病院と喧嘩して、地元の病院に戻ると、「紹介状無しでは診察できない」と断られたわけだ。まあ、「紹介状」云々は医療業界の仁義というものだろう。
今後は、大病しても病院には行けない、という覚悟だが、もともと認知症になるまで生きたいとも思っていないから、重病をしたら、その時はその時だ。べつに摂生もしないが不摂生もしないで、死ぬまで生きればいいだけである。
病院に頼れない、というのは現代社会では最大の「社会との隔絶」だろうが、江戸時代くらいまではそれが普通だったのであり、今のように個人が医療組織と強固に結びついている(ほとんど生殺与奪の権を奪われている)状態のほうが異常なのだ、くらいに思っている。



(以下引用)


 私も、上に紹介した人ほどの質素で節約的なライフスタイルを実行しているわけではないが、5万円以下の年金に合わせたライフスタイルを模索している。
 大都会暮らしの人に、田舎暮らし17年の経験から言いたいことは、「過疎の田舎暮らしは安く上がる」ということだ。

 もちろん、高級レストランや映画鑑賞などの贅沢は一切できない。遠いので行く気もしない。
 最大の贅沢が、週に一二回行く喫茶店で、コーヒー一杯400円、8キロほど離れていて、徒歩では無理があるのが辛いところだが、20キロ離れたスーパーやドラッグストアに買い物に行くついでに立ち寄って、週刊誌などで情報を収集することにしている。

 スーパーでは、値引き品を買うことが多い。低年金の老人たちは、19時を回ると、半額値引きサービスが始まるので、この時間帯は、老人たちがたくさん寄ってくる。
 半額の弁当をたくさん買い込んで、数日間も食べ続けることが多いという。

 私は、原則自炊で、米は地元米で10キロ4000円程度と結構高いので、安売りのインスタント食品を食べることも多い。
 外食したくとも、一番近いのが8キロ離れた喫茶店で、千円札が軽く飛んでゆくので、コーヒー以外を注文することはない。そういえば、大好きだった焼き鳥屋などの居酒屋は、もう20年近く行っていない。
 たまに我慢できなくなって、スーパーで焼き鳥と、「信長鬼ころし」という2リットル900円の安酒を買って熱燗にして楽しむ程度。肝硬変になったので深酒はできない。
 野菜は、地元産の直売所がたくさんあって、どこでも朝取れ野菜が安く買える。

 私の場合、何に一番金がかかるかというと、上の記事にあるように、やはり車だ。
 しかし、山奥の坂道だらけの過疎地で、車なしで生活するのは無理がある。
 凍結地帯なので、スズキアルト4駆を使っている。リッター23キロ走るが、週一名古屋に行く用事があるので、燃料代は月に1万円くらいかかる。
 車検代が2年で8万円程度、税金が年間7200円、対人対物保険が年間4万円程度、結局、維持費は年間9万円程度、月割りで7500円前後かかってしまう。プラス燃料代だ。

 次に高くつくのは、インターネットで、NTT西日本に月あたり6000円強支払っている。経済的困窮が進むとき、最初に切り捨てるのが、ネット環境ということになる。ガラゲーからスマホに変えたら毎月4300円程度支払うので、併せて1万円になってしまう。
 もう、これだけで毎月3万円近い支出なので、残りを2万円以下でまとめないと破産することになる。
 読者にあっては、私のブログが消えたときは、生活費節約のためネット環境が失われたとご理解いただきたい。

 都会暮らしで一番金がかかるのが借家の家賃だ。
 私は、自分で製作した100万円のキットハウスで、家賃がかからないのが一番助かっている。ただ、EM菌を使った完全自己完結型浄化槽システムを二カ所で自作し、経験を重ねながら研究しているので、この維持費が、毎月数千円と馬鹿にならない。

 冷暖房代は、マイナス10度にもなる内陸の寒冷地でありながら、真夏は40度近くなるので、結構かかる。エアコン暖房を使うと電気代が月に1万円を超えるので、原則使わない。夏場の冷房は、新型エアコンに変えたので、昨年、3000円程度ですんだ。
 灯油は、ファンヒータを使うと、週に18リットル使ってしまう。毎月6000円だ。

 すると残額は1万円弱しか残らず、これで一ヶ月分の食費を賄わねばならないので、必然的に質素なものになる。一日の食費は300~500円程度だが、自炊していると、これでも、そこそこ食べてゆける。
 しかし5万円では収まらないので、差額を貯金から支出することになるが、預金通帳残高は日に日に心細いものになってゆく。

 たとえ健保があっても、病院に行けるほどの金はないので、腸閉塞や尿管結石も自分で治した。現在、たくさんの病気を抱えているが、最後は諦観の域に達するしかない。田舎暮らしは、誰にも頼らない最期の覚悟が必要なのだ。

(以下略)





学界用語の命名のいい加減さ

私は「照葉樹」という言葉自体の意味が分からないので「照葉樹林(帯)文化」という言葉も何となく敬遠していた。今ではその「照葉樹林(帯)文化」という概念も批判が多いらしい。「常緑広葉樹」という言葉なら、言葉自体が対象物を明確にイメージさせる。「照葉樹」では、光に当たりさえすれば針葉樹だろうが葉は照るだろう、としか思わない。
laurelを辞書で引くと、最初に想像したとおり「月桂樹(の葉)」としか書いてなく、それを「照葉(樹)」としたのはどこの誰なのか。つまり、月桂樹の葉に代表されるような葉を持った樹木で構成される森をlaurel forestとしたのを日本人学者が「照葉樹林」としたわけだろう。和洋に渡り、二重に曖昧な学名である。
学界用語(専門用語)というのは実にいい加減な命名をされるもので、特に英文法など、「分詞構文」とか聞いただけで頭痛がするという学生は多かったはずだ。それは学界用語がそのまま学校教育にまで使われた悪弊だろう。医学でも、「認知症」など、最初に聞いた時には「認知」は「症状」ではないのだから「認知障害」だろう、変な名前だと思ったが、今では当たり前に普及している。無理が通れば道理が引っ込むのは世の習いである。




照葉樹林(しょうようじゅりん、laurel forest)とは、森林の群系の一種で、温帯に成立する常緑広葉樹林の一つの型を指す。構成樹種にの表面の照りが強い樹木が多いのでその名がある。