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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

文芸創作における「達磨宗」と「顕宗」

塚本邦夫の、中世和歌についての随筆の中に「達磨宗」という言葉が出てきて、意味が分からないまま読み進めると、こういう文章が出てきた。

「達磨宗は当時も必ずしも否定的貶称ではない。凡俗の及びがたく、深遠な理ある歌として畏敬の意味で用いる例もある。反対用語の顕宗の方こそ、むしろ軽侮の意が加わっていたようだ」


要するに、「達磨宗」とは、禅宗的な表現手法のことだろう。つまり、奇抜な表現であり、何かを指すのにその物を直接指示しないで暗喩的に表現するわけだ。まあ、暗示的表現と言えばいいだけか。それに対して「顕宗」は、すべてを言い尽くすような表現で、芭蕉の「言いおほせて何かある」という批判に見られるように、幼稚で低俗なものになりやすい。

さらに、その少し後を見ると、今書いたばかりの推測が正解だったことが分かる。

「ここにいう『顕宗』とは、明らかに、たとえば六条家などの代表する悪い意味の尚古派の、明快平板な歌風を指しており、『顕宗なりともよきはよく』とは、普通は否定的にしか使われていないことを言うのだ」


この「達磨宗」と「顕宗」は、歌道や韻文だけに限らず、文章表現やドラマ表現においての注意点として記憶する価値があると思う。



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その夏の最後の日

別ブログに書いた記事だが、私自身のお気に入りの文章なので、ここにも載せておく。なお、「ネットフィリックス」は「ネットフリックス」の間違い。



It was the last day of the summer, and the first day of my last days.

「それはその夏の最後の日であり、私の最後の日々の最初の日であった」

実に詩的な文で、何の小説の書き出しかと気になるが、実は「Family guy」というアニメの中で、ブライアンという人語を喋る犬が死に掛かった時に、高度なIQを持った赤ん坊が彼の闘病記を書く、その冒頭の一文である。(と思う。私は英語版で見たので、私の貧弱な英語力で理解した範囲内の話だ。)
なお、「ファミリー・ガイ」はアメリカの谷岡ヤスジのようなもので、一般社会の常識を過激なギャグで笑い飛ばすアニメである。下品だが、痛烈で面白い。
たしか、ネットフィリックスでも見られると思う。でなければhuluか。一見をお勧めする。

武田双雲の字

武田双雲という人は実に器用な感じの字を書くが、あまり好きな字ではない。しかも、下の写真の字はかなり退化していると思う。特に「健」の字は見苦しい。下の「康」の字とバランスを取って目立たなくしているのはさすがだが、「健」単独だと不細工そのものだ。もちろん、「建」の延繞部分の最後を異常に太くすることで1字としてのバランス(字の重心)を取ったのは流石にプロの書家だと思うが、むしろそういう小細工に、良寛が「書家の書」を嫌った理由が何となく分かる。






書道家・武田双雲さん

距離はいつも夢みさせる

三島由紀夫の「英霊の声」の中に、

「距離はいつも夢みさせる」


というフレーズがあり、この作品のわけのわからなさはともかく、このフレーズはいいな、と思った。同じく私の愛するプルーストの詩の一節

「人生におけるあらゆるものは日々転落していく」

と同様、明るさの中の悲劇を感じさせるフレーズである。

村上春樹作品の本質

カズオ・イシグロと村上春樹を比較した記事の一部だが、村上春樹の作品についての本質的な部分を突いている感じがある。もっとも、初期から中期の作品について妥当する評ではないかと思うが、後期の作品は重いテーマを扱っていても、それが本気なのかどうか、「義務的苦悩」「作り物の苦悩」ではないか、という気がするし、テーマが重くなればファンや大衆は離れていくのではないか。
要するに、ライトノベル作家としての村上春樹こそが彼の世界的人気の理由だと私は思っているのだが、であるからにはノーベル賞を彼に与えるのは、たとえばスチーブン・キングにノーベル文学賞を与えるようなものだと思うのである。それよりはボブ・ディランに与えるほうがまだ「文学的」には意義があるのではないか。
「若者の表層的な苦悩」という言葉には棘もあるが、実際、村上春樹の中期までの作品のほとんどはそれだろう。なぜ主人公が苦悩するのか、と言えば、「若さゆえ」と結論するしか無さそうに思う。恋愛が苦悩の原因になるのは、文学的なテーマではあるのだが、その苦悩も「こちら立てればあちらが立たず」という、モテ男の二股恋愛の苦悩のような気がするのである。そこが表層的な苦悩に見えてしまう。こちらとあちらのどちらも得たいという図々しい苦悩だから表層的苦悩だと言っているわけだ。
と言っても実は私は彼の作品は「国境の南太陽の西」しか読んでいない。読まなくても、彼の作品の評などを読めばだいたいその作風は想像できるし、実際に読んだ印象も先入観どおりであった。つまり、ライトノベルである。セックス描写が露骨なのが子供むけライトノベルとの相違である。そこ(セックス描写)が「純文学」と勘違いされた理由だろう。
いや、ライトノベルだからこそ売れるのである。そして、文章は上手い。詩情もある。ユーモアもある。そこが世界的な人気の理由だろうし、それで十分ではないか。本人もそう思っているような気がする。「ノーベル賞」だ何だと騒いでいるのは出版界だけだ。








「実は春樹フィーバーの裏側で言われている説があるのです」とはベテラン編集者だ。

「94年受賞の大江健三郎、00年の高行健など、ノーベル賞作家は社会性のある作品が多い。ずしりと重いのです。イシグロ氏の『わたしを離さないで』の設定は、人間が“オリジナル”と呼ばれる世界。彼らの遺伝子によってつくられたクローンの子供たちが成長し、オリジナルに臓器を提供するために内臓を切除され、モルモットのように死を迎えるストーリー。科学と人間の根源的な罪悪がこめられている。一方、村上作品は卓越した文章力でカルト的人気があるものの、若者の表層的な苦悩というイメージが強い。ヒット作『ノルウェイの森』の映画版が酷評されたのはそのせい。だからノーベル賞が空振りに終わるのでしょう」