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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

文芸創作における「達磨宗」と「顕宗」

塚本邦夫の、中世和歌についての随筆の中に「達磨宗」という言葉が出てきて、意味が分からないまま読み進めると、こういう文章が出てきた。

「達磨宗は当時も必ずしも否定的貶称ではない。凡俗の及びがたく、深遠な理ある歌として畏敬の意味で用いる例もある。反対用語の顕宗の方こそ、むしろ軽侮の意が加わっていたようだ」


要するに、「達磨宗」とは、禅宗的な表現手法のことだろう。つまり、奇抜な表現であり、何かを指すのにその物を直接指示しないで暗喩的に表現するわけだ。まあ、暗示的表現と言えばいいだけか。それに対して「顕宗」は、すべてを言い尽くすような表現で、芭蕉の「言いおほせて何かある」という批判に見られるように、幼稚で低俗なものになりやすい。

さらに、その少し後を見ると、今書いたばかりの推測が正解だったことが分かる。

「ここにいう『顕宗』とは、明らかに、たとえば六条家などの代表する悪い意味の尚古派の、明快平板な歌風を指しており、『顕宗なりともよきはよく』とは、普通は否定的にしか使われていないことを言うのだ」


この「達磨宗」と「顕宗」は、歌道や韻文だけに限らず、文章表現やドラマ表現においての注意点として記憶する価値があると思う。



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