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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

若年の好みと老年の好みの変化

下のツィートとは反対方向の意見になるが、人生の残り時間が少なくなってくると、「他人の都合で時間を無駄にさせられること」が非常に苦痛になってくる。これが、自分の都合なら、どんなに無駄にしても気分は悪くないのである。たとえば、ぼうっと野の花や空を眺める時間も楽しい。しかし、駄作映画などを見て無駄にした時間は腹が立つ。いや、駄作だけではない。たとえ名作でも、今の自分の嗜好と合わないものは、それを見た時間が実にもったいなく感じるのである。音楽や映画などの「時間芸術」にはそういう難点がある。
たとえば、先ほどまで、ネットテレビで「スピード」を見ていた(キアヌ・リーブスの顔が好みではないので、今まで見なかったのだが、どんな作品か知るために見たわけだ。)のだが、確かにアクション・サスペンス映画としては完璧に近い作品である。だが、見ている間じゅう、「これを見ているのは、俺にとっては時間の無駄だなあ」という気分で、まったく楽しい気分は無かった。おそらく、「ダイハード」シリーズとか、「スターウォーズ」シリーズも同様の気持ちになるだろう。
これを今さら見ることが自分の人生を豊かにするだろうか、と思うわけだ。
若いころはアクション映画もSF映画もそれなりに好きだったのに、なぜこうなるのか。
逆に、若いころより、今見たほうがその価値が分かる作品もある。「ロッキー・ホラー・ショー」などは、その下品さが若いころは嫌いだったが、年を取ってから見直すと、そのユーモアの質の高さや音楽の質の高さが理解でき、好きな作品のひとつになっている。
ちなみに、若いころから、或る種の「人生映画」は好きで、『東京物語』や『道』や『野いちご』は、わが生涯のベスト10に入れているから、年齢によって好みが変わると言うよりは、「無駄なもの(あまり好みでないもの)で時間を潰すことへの耐性」が無くなるということだろう。



さんがリツイート

駄作映画を観て人生を無駄にした的なツイートをみたけど、時間を損しないためにいいものだけ観たいとか、そういう観かたでは自分が本当に好きなものに出会えないんじゃないかしらん






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クラシック音楽とアニメ

「フィンランディア」は、すべて素晴らしいが、特に構成が素晴らしい曲である。出だしの、陰鬱だが重厚な迫力のある、まるで北欧の鬱蒼とした森や湖を思わせる楽曲から、最後の、まるで神々の闘争にドンパチと花火が揚がるような「ロックな」終曲まで、まさにフィンランドの自然と、そこに住む人々の隠れた情熱の結晶のような名曲だ。
ついでに、「カレリア組曲」も、素晴らしい。その中の「ポホヨラの娘」を、私は大島弓子の「いちご物語」をアニメ化したらテーマ曲に使いたい(使ってほしい)なあ、と昔思ったものである。なお、「フィンランディア」の冒頭は、「つぐみの森」の最初のシーンに使ってみたい。小曲だが、「トゥオネラの白鳥」は、山岸凉子の「白い部屋のふたり」にぴったりだと思う。なぜかシベリウスは少女漫画に似合いそうな気がする。
怪獣映画なら、シベリウスよりも、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」が最適だろう。その中の「重量級の怪物のせめぎ合い」を思わせる部分を、なぜアニメなどに使わないのか。まあ、クラシック好きのアニメ作家が庵野秀明以外にあまりいないためだろう。エヴァンゲリオンでのバッハ(「主よ人の恵みの喜びよ」だったか)など、素晴らしい使い方だった。



  1. 二十歳くらいまではクラシック音楽はあまり聴いてなかったのだけど、たまたまFM東京の「音楽の翼」(というタイトルだったと思う)で「フィンランディア」が流れて、「なんだこのかっこよくて燃える曲は!」と超感動して、以後シベリウスにハマった。

  2. ちなみに、シベリウスの『カレリア組曲』の「間奏曲」を、自衛隊の怪獣迎撃準備のシーンに乗っけると、大変よくマッチすると個人的には思っております。この曲を流しながら、ほら、目を閉じると富士の裾野をM41や61式戦車がやって来る光景が見える(笑)




映画「フリークス」のこと

私はアマゾンという会社が嫌いなのだが、アマゾンプライムビデオというネットテレビは良く見ている。というのは、他のネットテレビと違って、古い白黒映画(洋画がほとんど)がたくさん見られるからである。それらを見ていていつも驚くのは、昔の映画のレベルの高さである。ただ、これは若者には理解できないかもしれない。私が十代二十代くらいだと、まず理解できなかっただろう。
たとえば、数時間前に見ていた「フリークス」(アマゾンでは「怪奇館」とか何とか別の邦題をつけていたが、何だったか忘れた。)は、身体障碍者がウジャウジャ出てくる奇抜な映画で、ホラー映画かと思われそうだが、実は「本当のフリーク(奇形者)は、身体の奇形ではなく、心の奇形である」という、哲学的主題を持った作品なのである。この映画では、サーカス(カーニバル)一座の中の一番の美女(という設定)が、精神的には最大の怪物なのだ。その他の身体障碍者(奇形者)たちは、ほとんどがまともな精神を持っている。しかし、体の奇形のため、その精神まで見てくれる人は少ない。
或る意味では、「エレファントマン」のテーマの先行的作品だと言えるだろう。
まあ、特に女性に見てもらいたい作品だ。「恋をする」というのが、外見だけで決まるなら、奇形者にとって恋というのは存在するのか、という興味深い話でもある。見ているうちに、奇形者たちの外見はほとんど気にならなくなり、むしろ愛らしくすら見えてくる。(この映画に出てくる奇形者たちは、一部を除いてほとんどが現実の奇形者だと思う。今ではPC規制のために作ることが不可能な映画だろう。)
この映画を「ヒューマニズム」映画だとする批評は見たことが無いが、実はヒューマニズムに溢れた作品である。たぶん、淀川長治あたりなら、真価を認めたのではないか。

人間の裸体は本当に美しいか

世の男も女も勘違いしていると思うのだが、人間の裸というのは美しいものではない。衣服を着た姿のほうがずっと美しいのである。だから、西洋画が描いてきた裸婦像というのは、単にエロ視点で描いてきたのであり、人体(女体)が美しいから描いたというのは嘘っぱちだ、というのが私の説www
疑う人は、下の裸体画を見て、本当に美しいと思うかどうか自問自答してみるといい。
それより、乳房や陰部を隠したほうが美しく見えると思うのが、正直な印象ではないか。
下の画像が美しいなら、強制収容所で裸にされた女囚たちの姿も美しいだろう。なお、この画像の肉体の膚の色を白くしたら美しく見えると思うのは白人至上主義の西洋文化に洗脳されているからである。
ちなみに、下の画のモデルはまさしくファッションモデル体型であり、服を着たら美しいだろう、と思う。


さんがリツイート

成田亨さんの画集は裸婦像もあるんですが、後ろになにかいるんです。描かずにはいられんかったのかな。