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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

文学における哲学派と科学派

谷崎潤一郎の「『つゆのあとさき』を読む」の冒頭に、

「(露伴)氏の哲学的な、主観的な作風は、夙(つと)に紅葉の客観的な作風に対立していたものであった」

という文章がある。
この中の「哲学的な、主観的な」という部分は、「哲学的」と「主観的」は表裏一体である、あるいはほぼ同義である、という意味かと思われ、私には非常に興味深いが、ここでは論じない。

露伴の作風を「哲学的、主観的」と道破したのは慧眼だと思うが、これは他の評論家や作家などで誰か同じことを言った人はいるのだろうか。露伴の作品は話の筋と脱線部分の境が曖昧で、小説なのか随筆なのか分からないが、読んでいると「菊を採る東籬のもと、悠然南山を見る」という気分になり、それは漱石の初期作品に感じる「俳味」に近い。いわゆる「高踏的」な境地だろうか。

紅葉らの「自然主義」が、「客観的作風」で、それが露伴の「哲学的、主観的」な作風と対立するなら、自然主義とは「科学的」作風と言えるのではないか。つまり、人間や社会を科学的な目で見ようという姿勢だ。それは「理想ではなく現実を見る」姿勢であるから、その作品内容は「間違っている」という批判はしにくい。しかし、「理想を欠いていて、醜い」ことは確かである。その醜さを「社会の鏡」として偽善的な世間に叩きつけたことに大きな意味はあるが、作品そのものとしては「読んでいて楽しくない」のは確かだろう。勉強として、あるいは教科書を読むのが好きな人間のためには意義はあるだろうが、それが「文学」の本道かどうか。私はむしろ「物語性や娯楽性の強い大衆小説」こそが、文学の本道を歩んでいるのではないかと思う。

ただし、小説というのは、どんなことを書いても小説にはなる、というのが最大の特長なのであるから、本道以外の作風が無意味であるわけではけっしてない。
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