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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ウレタンマスクとイソシアネート

「in deep」記事の一部で、ウレタンマスクの危険性というか、厳密に言えば「危険である可能性」についての文章である。
まあ、私は反マスク主義者というほどでもないが、世間に流されてマスクをする人間はあまり好きでもないので彼らがその行動でどんな目に遭ってもどうでもいいが、たとえば親や学校からの強制でマスクを着用させられている子供は可哀そうだな、と思う。

(以下引用)

これに関して、旭川医科大学から 2012年に発表されていた「臨床環境」に掲載された論文「環境に広がるイソシアネートの有害性」には、

> 重合不完全で揮発性イソシアネー トを残留させたウレタン製品

という記述があり、つまり、「いい加減に作ったウレタン製品の場合、揮発するイソシアネー トが残留している可能性がある」ようなんですね。

もちろん、ウレタンマスクの大部分は、きちんとした工程で作られ、そういうような「イソシアネー トを残留させた」ようなものは少ないと思いますが、中国製などを含めて「全部が全部そんなにきちんとした製品だろうか」というような懸念です。

先ほどの「環境に広がるイソシアネートの有害性」の冒頭は、以下のような文言で始まります。

ポリウレタンのモノマーであるイソシアネートを吸入または皮膚接触すると、ごく希薄でも感作され、 強い影響を受ける。

ここには、影響を受ける場所として、

・吸入

・皮膚接触

とありますが、マスクという製品は、このどちらの条件も満たすものです。

先ほども書きましたが、マスクというのは、皮膚に長時間装着しているものである場合が多いとともに、「そこを透過した空気を吸入する」ものです。

仮に、作成がいい加減な製品があるとした場合、イソシアネー トが残留しているようなものでは、わりとダイレクトに健康への影響を受ける可能性を否定できません。

今回は、この 2012年の論文をご紹介して、締めさせていただこうと思います。

この論文の中のセクション 3「症状およびこれまでの対応」からです。

 


環境に広がるイソシアネートの有害性

臨床環境 2012年

III. 症状およびこれまでの対応

イソシアネートが体内に入る経路によって毒性は大幅に違い、経口摂取では消化器内でアミンや尿素に変化して容易に排出され易いのであまり害はない。

しかし吸入した場合には、肺胞から血液中に入り、血漿の成分(血清アルブミンやヘモグロビン)とイソシアネートの抱合体になり、全身の臓器に行き渡る。

体内での寿命は人により異なり、半減期は約1日から21日に及ぶ。

イソシアネート抱合体が多く蓄積するのは、上鼻部の臭覚器、気管支、肺など呼吸器と、 次いで腎臓、心臓である。

皮膚からも進入し、呼吸器からと同様に血漿イソシアネート抱合体として全身を循環し、喘息を引き起こす場合もある。

粘膜や皮膚と容易に反応して刺激し、目や皮膚の症状も起こす。著しく感作性で、 極めて低濃度でも感作し、発症率が高い。

日本のウレタン工場作業者を調べて、0.02ppm に10分程度、或いは0.005ppm に労働時間の15%程度の曝露でも感作することを確かめた研究がある。

一度感作されると、その100分の1程度でも症状を再発すると言われ、また、感作以前にも発症することがあるともいう。


 

ここまでです。

表組みの中にあります「イソシアネートによる症状」の中で気になった部分としては、

> 2〜 3ヶ月ないし数年で過敏性獲得

という部分です。

過敏性を獲得すると、「微量でも症状を起こす」ということになると思われますが、もうマスク社会になってから半年ほどになっています。

この中にあります、

> イソシアネート抱合体が多く蓄積するのは、上鼻部の臭覚器、気管支、肺

とか、

> 皮膚からも進入し、全身を循環

というものと、先ほど書きましたマスクの特性、つまり「長時間にわたり皮膚に付着し続けている」ことと、「マスクを通して空気を呼吸器に入れていること」を考えますと、仮にイソシアネートが残留しているような作り方のマスク製品の場合は、急速に健康状態の悪化と関係してしまう可能性があるのかもしれません。

なお、この論文には、イソシアネートを利用した主な製品について、以下のような一覧が載せられています。

コンタクトレンズとかマットレス、あるいは包帯といったような「人体に密着する」ものにも結構使われているのですね。

なお、今回の内容と直接関係するものではないですが、マスク着用が義務づけられているイギリスでは、「マスクによる顔の吹き出物」などの症状が出る人が多くなっているらしく、英インディペンデントは、「フェイスマスクニキビの治療に必要なもの」というタイトルの記事を掲載していました。冒頭のイラストはその記事のものです。

いずれにしましても、現在のパンデミックでは、ウイルスそのものとは関係のない健康被害が著しくなっていまして、健康への影響を最低限にするための生活の智恵が必要となっている時代である気がいたします。



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「マグカップに五分目」説

前に、「マグカップに六分目」説を書いたことがあるが、要するに、我々の日常生活の心理を考察すれば、健康に裨益する考えも出てくる、ということだ。つまり、マグカップがあるからそれに八分目くらい入れるというのが我々の心理だ。だが、本当に八割(八分目)入れる必要があるか、その害は無いか、と考えるのが日常生活の心理学である。その結論は、八割入れる必要は無い、というものだった。コーヒーが美味いのは最初の一啜りから数啜りまでであり、その後はだいたいコーヒーが冷めていくままテーブルにカップが残るだけだ。完全に冷めた後に、義務的に残りを啜るわけである。なら、カップに八分目入れる必要は無く、六分目で十分、となる。
で、これは「美味さと温度」の関係から「マグカップに六分目入れるのが最適」としたわけだが、次に「美味さと健康」の問題を考えると、実は「マグカップに五分目」が一番いいだろう、という結論になる。というのは、ブラックコーヒー派でない人間はクリームだけでなく当然砂糖を入れることも多いわけだが、その砂糖の分量が、たとえばいつも角砂糖2個(あるいはシュガースティック2本)とすれば、「マグカップに五分目」にした場合、角砂糖2個では甘すぎるから角砂糖を1個に減らすだろう。その差が大きいのである。たとえば、毎日、コーヒーを4杯飲む人間なら、毎日の角砂糖消費量が8個から4個に減るというのは、健康的に見て大きな差であるわけだ。
で、角砂糖2個を1個に減らして、コーヒーを飲む満足感が半分に減るかと言えば、まったくそんなことはない。なぜなら、コーヒーの分量が「マグカップに五分目」であるから、砂糖の比率はさほど低減せず、コーヒーの甘さは適度に保たれているわけである。
ちなみに、「なら最初から小さいカップを使えよ」と言う人間に対しては、小さいカップだとコーヒーがこぼれやすいし、その小さなカップを見ただけで心理的に、最初から不満感が生じる、と言っておこう。

昔は「葛根湯医者」というのもいたらしい

まあ、葛根湯は超有名だが、インフルらしい症状には麻黄湯くらいまで覚えておけばいいのではないか。
葛根湯は体温を上げ、免疫力を高めるらしい。風邪以外でも有効なのではないか。
葛根湯があまりにも有効なので、どんな病気でも葛根湯を処方する医者が多く、「葛根湯医者」と言われたと落語で聞いたことがある。

医師が本当に使っている市販薬 「風邪には漢方」と声揃える

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NEWS ポストセブン

風邪のときに医師が勧める漢方(写真/GettyImages)

風邪かな?」と思ったら、とりあえず「何にでも効きそう」という理由で総合感冒薬に手を伸ばす人は多い。だが、内科医の秋津壽男さんは、待ったをかける。

「総合感冒薬には熱や鼻炎、咳やのどの痛みを抑える成分がすべて入っています。カバーする範囲が広い半面、のむ必要のない成分まで含まれているのです」(秋津さん)  そのため病気の専門家である医師たちは、自分が風邪をひいてしまったときには、症状に合わせて市販薬の“使い分け”を実践している。特に多くの医師たちが頼っていたのは、漢方薬だった。内科医の近藤千種さんが言う。 「風邪のひき始めで少しゾクゾクするな、というときには『葛根湯』、寒気がして節々が痛いなど、インフルエンザに似た症状のときは『麻黄湯』をのんでいます」  消化器外科医の白畑敦さんは、風邪やインフルエンザだけでなく、コロナ対策としても漢方薬をのんでいるという。 「『補中益気湯』は中国のコロナウイルスガイドラインでも推奨されています。直接コロナを消滅させる作用があるわけではありませんが、免疫力をアップする効能があるので、かかりにくくなる。インフルエンザ対策としてのんでいる医師もけっこう多いですね。手術後など、体力が低下しているときには欠かせません」(白畑さん)  米ボストン在住の内科医・大西睦子さんも「風邪には漢方」と声をそろえる。 「総合感冒薬がうまく効かずにクリニックを受診する患者が多いですが、漢方をすすめると効果を実感しやすい人が多い。咳なら『麦門冬湯』、鼻水なら『小青竜湯』がよく効きます」  鼻炎薬では『アレグラFX』を推奨する声が多かった。 「花粉症などアレルギー性鼻炎薬。眠くなりにくいのでおすすめです」(麻酔科医の大西良佳さん)  病院の処方薬と同じ成分なので、効果も高いという。 ※女性セブン2020年9月24日・10月1日号

丹田と気合

前回の続きだが、肥田春充の強健術の中で私が少し関心を持った部分を引用しておく。主に丹田と呼吸法である。まあ、要するに下腹部の筋肉に力を入れるのが「気合」だということらしい。丹田とは下腹部の筋肉という解釈でいいのではないか。

(以下引用)

 では、具体的に「下腹部の緊張」、「氣合」とはどのようなことであろうか?

 春充の言葉を見てみよう。

 「(氣合とは)もっと分かり易く具体的に云うと、氣海丹田に力を込めることである。更に生理上から極めて平易にいうと、私が時々繰り返した所の『下腹部の緊張』ということになる。解剖学的に云えは『腹直筋の緊張』である。即ち横隔膜の操練によって、腹部諸機関を圧下すると共に、下腹筋肉を緊張させて、臍下一寸五部の所に力を込めるのである。下腹部の緊張は氣合の全体ではない。けれどもその最大要件である。その根底である。しかもこれを体育に応用し来たった場合、私は飽くまでも科学的に『腹直筋の緊張』を以って足れりとするのである。これだけ呑み込んで置いて呼吸を計り、精神を定め、注意力を集中し、しかも恬淡虚無、以ってこの腹筋の鍛錬を続けて行くならば、その矛盾の妙境から自然と『氣合』は会得せられてくるのであろう。」

 これは、第3冊目の著作となる「心身強健術」(大正3年 武侠世界社刊)からの引用であるが、ここに簡潔に氣合と、下腹部の緊張についての解説を見ることができる。

 このように、初期の強健術では下腹部に力を入れて緊張させることが最も大切な要件であった。これは「腹力」と呼ばれ、これにちなみ2冊目の著作は「腹力体育法」(大正元年 文栄閣刊)であった。この「腹力」が発展して後の「中心力」になるのである。しかし、このことについては後に詳述したい。ここでは、強健術の根本的原則が、「下腹部の緊張=腹力」「氣合」であることに注意をとどめておきたい。

 先述したように春充は、この氣合によって練習回数と時間の短縮を図ることに成功している。春充は言う、

 「運動法で、運動回数が少なく、時間を要せぬのも、これ(氣合)がためである。『氣合』を込めて運動をやれば、時間を長くやる必要は―断じてない。」

 春充は最初この氣合いを、書物をもって会得しようとした。しかし、生まれ故郷で求めた柔道の本には、この氣合について残念ながら一言も触れていなかったと言う。その後、撃剣その他の武芸に関する書物を調べたり、角力や剣舞や礼式の本などを読んでこれを修得しようと努めた。さらに上京してからは、舞や踊り、旧派演劇や軽業等を観察して、氣合の秘密を解こうとした。

 このような努力の結果、体勢の変化は腰が基礎で、その働きを外に表すのは脚であることに気付いたという。そして、腰の大切な所以はどこにあるのかというと、それは腰を据えるということであり、腰を据えるということは、下腹に力を入れることであると結論づけている。そして、この下腹を緊張させて活気を与え、これに生命を点ずるものが氣合であるとしている。また、端的に「氣合即ち下腹の緊張の修練」とも表現している。こうしてみると、氣合、下腹部の緊張、腹力の三語は、ほぼ同義語として用いられていることがわかる。

 また、春充は氣合について次のようにも語っている。

 「鍛冶屋の槌の一上一下にも、理髪師の鋏の虚実の中にも『氣合』はある。機先を制して人を服せしむるのも、端的に発して以外の功を収めるのも、皆『氣合』の力である。暫くこれを自得と云い、修養と云うとは云え。要するに各人が自ら衷に備えている自然の力に他ならぬ。のみならず、虎の躍らんとする、鷹の飛ばんとする、其処に自ずから『氣合』は生ずる。窮鼠却って猫を咬むのは、そこに『氣合』が充ちているからである。寒風が颯々として松の枝を払う。そこにも天来の『気合』はあるのだ。」

・初期強健術の完成とその効果

 この四大要件および氣合、腹力を原理として、初期の強健術は完成した。すべてで10の運動よりなる練修法であり、現在の気合応用強健術の原点となる型である。

 この型の実習により春充は、まず血液の循環が著しくよくなったという。それまで、青白く死んだような皮膚が活き活きとしてくることがはっきりと実感できた。このように血行がよくなると、身体が暖かくなって冬でも薄着となり、冷水をかぶることが好みとなったという。

 そして、肉体の各所には当初の目論見通り、バランスよく隆々たる筋肉がついてきた。また、変化したのは肉体ばかりでは無かった。それまで、陰気であった態度、性格がガラッと変わり、活発で活気が出てきた。そして気持ちにも落ち着きが出、物事に動じなくなった。こうして、冒険的なことを好むようになり、暴風雨の中、川を泳いだり、夜中に高山に登ったりするという無茶を好むようになった。

 このように春充は、身体を改造する練修をして、身体ばかりでなく精神までが大きく変化した。これは、春充自身も予想もしていなかったことである。後にこの原因を強健術の基礎に、「下腹部の緊張」つまり「丹田」を練ることを、取り入れたからであろうと春充は考察している。

 また、精神が壮快になると同時に頭脳も明晰になって記憶力がよくなり、後述するが3大学4学部を優秀な成績で卒業している。

 また、食事も小食になり淡白なものを好み、特に澄んだ水は最も好むものとなったという。

肥田式健康法(強健術)のこと

肥田春充の強健法には昔から興味は持っていたが、その具体的内容がまったく理解できず、長い間忘れていた。この間、甲野善紀の「表の体育裏の体育」を読み直して、再度興味を持ったが、やはりその強健術の内容は理解できない。単に鉄棒を持って相撲で言う蹲踞の姿勢を取るだけのように見えるが、どこにポイントがあるのか分からないわけだ。呼吸の仕方の指示がうるさいが、深く吸って3秒間止め、深く吐いて3秒間止めるという呼吸法に何の意味があるのか分からない。また、腰と腹に同量の力をこめる、というのも意味不明である。
ただ、蹲踞の姿勢そのものに何かの意味(メリット)がありそうな気はする。また、頭部への振動を避ける、というのもかなり意味のあることかと思う。それが彼の後年の超人的な頭脳の能力と関係はあるのかもしれない。我々は日常生活の中で(たとえば、歩く動作ひとつにしても)頭脳に振動を与え続けているのだから。
ただ、彼が食生活で徹底的な禁欲を行っていたことには必ずしも同感はしない。酒や煙草や肉類や菓子を避けて完全な健康体で70歳まで生きるのと、それらをすべて嗜んで、不健康な体で同じく70歳まで生きるのと、どちらが「良い人生」だったということになるのだろうか。

(以下引用)

肥田 春充(ひだ はるみち、1883年12月25日 - 1956年8月24日)は、日本肥田式強健術の創始者。思想家、著述家、体育家、哲学者などとして活躍。

人物[編集]

山梨県南都留郡桂村小沼(現・西桂町小沼)において、医師川合立玄(はるつね)の五男として生をうける。幼少期は病弱な上痩せ細っていたため、「茅棒」のあだ名がつけられ、2度死の宣告を受ける程の虚弱児であった。数え年18歳にして心身改造に志し、古今東西の健康法、運動法を研究実践し、西洋のウエイトトレーニング等に東洋の丹田鍛錬、氣合等を取り入れた独自の心身鍛錬法、川合式強健術(後の、肥田式強健術)を編み出す。この鍛錬は、腹のみに力を入れる丹田鍛錬、腹力をさらに押進め、腰と腹に同量の力を込め、腰腹の中心に力を込めて「腰腹同量の正中心」を鍛錬する所にその大きな特徴がある。その鍛錬によりわずか2年で、体格改造に成功。さらに体力ばかりでなく頭脳も飛躍的に向上し、中央大学法科・明治大学政治科・明治大学商科・早稲田大学文学科の三大学四学科に入学する。在学中は、各大学の剣道、柔道、弓道等の選手となり、明治大学では初めて柔道部を創設し、初代キャプテンとなる。

大学卒業後、処女作『実験 簡易強健術』を出版、強健術を世に問う。この本はベストセラーとなり、世に強健術ブームを巻き起こす。その数ヶ月後、志願兵として近衛歩兵第4連隊に入隊、主計中尉となる。ここでも強健術の研鑚を欠かさず、椅子に腰掛けたままで行える「椅子運動法」等を考案する。

その後1917年(大正6年)、肥田家の婿養子となり、静岡県田方郡対島村八幡野(現・伊東市八幡野)に住み、ここで強健術の鍛錬に没頭するとともに、恩師押川方義らと共に国事に奔走する。1923年(大正12年)に、腰腹同量の聖中心力を悟得してからは精神的な悟境もいよいよ深くなり、の高僧からもその境地を認められる。またそれまで研究していた、自然療法を「天真療法」として大成させ、自身の半生と悟境を綴った主著『聖中心道 肥田式強健術』と合冊で発表する。この本において、中心力を応用した独自の「中心力抜刀術」や「中心力護身術」「中心力雄弁法」「中心練磨法」等を発表している。

太平洋戦争前夜にはこれを回避すべく大川周明などと協力し、私財を擲って奔走した。戦中には憂国の念止み難く、東條英機に終戦勧告を二度に渡って書き、自決の覚悟をするも、自身の悟境より見た「世界人類の救済」との悲願を樹てることにより、死を思い止まる。その後は、人類救済のための宗教哲学の研究に没頭し、この研究を「宇宙大学」と呼ぶ。この時の原稿は積むと人の背丈程にもなり、その一部は死後『宇宙倫理の書』として出版される。

晩年の1955年(昭和30年)には、社団法人「聖中心社」を設立し、多年研究の宗教哲学に基づく平和運動を展開するも、その設立後一年にも満たない1956年(昭和31年)8月24日、人類の前途を憂うる余り、水も取らない49日間の断食の後死去。72歳没。

生涯を通じて多数の政治家軍人学者文人などと親交があり、様々な影響を与えている。主な親交があった人物として、押川方義松村介石新井奥邃二木謙三加藤時次郎、佐藤精一、中里介山徳富蘇峰村井弦斎大川周明蓮沼門三、山下信義らがあげられる。また、実兄 川合信水(山月)(1867 - 1962)は、郡是製糸株式会社に教育部を創設し、後に基督心宗を創始した宗教家、教育家である。

略年譜[編集]

  • 1883年(明治16年)12月25日 山梨県南都留郡桂村小沼において、川合家の五男として誕生
  • 1888年(明治21年) 重症の麻疹にかかり、2度死の宣告を受けるも一命を取り留める
  • 1900年(明治33年)4月 心身の根本的改造に志し、古今東西の健康法、体育法を研究実践し、独自の鍛錬法を創出する
  • 1902年(明治35年)4月 2年間の鍛錬により筋骨隆々となり、中学に入学する
  • 1907年(明治40年)9月 中央大学法科、明治大学政治科、商科、早稲田大学文学科へ入学
  • 1910年(明治43年)三大学、四学科を卒業
  • 1911年(明治44年)4月 処女作『実験 簡易強健術』文栄閣 刊行 大ベストセラーとなり、各地公官庁、学校にて講演会が数多く開催される 11月 『腹力体育法』文栄閣 刊行 12月 近衛歩兵第四連隊に入営
  • 1913年(大正2年)5月 退営 この年、「二六新報」に強健術の連載を行う
  • 1914年(大正3年)3月 『心身強健術』武侠世界社 刊行
  • 1915年(大正4年)1月 父 立玄死去
  • 1916年(大正5年)8月 『強い身体を造る法』武侠世界社 刊行
  • 1917年(大正6年)2月 静岡県田方郡対島村八幡野の肥田家の婿養子となる
  • 1918年(大正7年)8月 『心身強健体格改造法』 尚文堂 刊行
  • 1920年(大正9年)6月 『強圧微動術』 尚文堂 刊行
  • 1923年(大正12年)1月 『独特なる胃腸の強健法』 尚文堂 刊行 6月 「聖中心力」を悟得し、肥田式強健術がほぼ完成する
  • 1924年(大正13年)9月 講演集『この大獅子吼を聴け』 尚文堂 刊行
  • 1925年(大正14年)10月 『健康の中心を強くする法』尚文社 刊行『川合式強健術』 尚文社 刊行
  • 1927年(昭和2年)4月 『根本的健脳法』 尚文堂 刊行
  • 1936年(昭和11年)10月 『聖中心道 肥田式強健術・天真療法』 聖中心道研究会 刊行
  • 1937年(昭和12年)3月 『講演及び随筆』 聖中心道研究会 刊行 7月 平田内蔵吉との共著『国民体育』 春陽堂 刊行
  • 1938年(昭和13年)2月 平田内蔵吉との共著『国民医術天真法』 春陽堂 刊行
  • 1939年(昭和14年) この頃より、1941年にかけて、日米戦回避のために大川周明らと奔走する
  • 1940年(昭和15年)9月 谷村金一との共著『生は死よりも強し(簡易治療宝典)』 大日本健康増進協会出版部 刊行
  • 1943年(昭和18年) 憂国のあまり、一日として怠らなかった「正中心練磨」の鍛錬を自発的に放棄し、痩せ衰える 10月 東条英機に終戦勧告を書き送る
  • 1944年(昭和19年)2月 東条英機に自決勧告の遺書を書き、自決直前に思い止まる、この時より放棄していた「正中心練磨」を再開し健康を回復する
  • 1946年(昭和21年)4月 深夜連続の「人類救済」のための真の宗教、哲学、科学の学的、体験的研究をはじめる(この研究を「宇宙大学」と呼ぶ)
  • 1952年(昭和27年)3月 『日本の使命』 信修行道(株) 刊行
  • 1955年(昭和30年)10月 肥田通夫との共著『一分間の強健法』 全国農業出版KK 刊行 11月 社団法人「聖中心社」創設
  • 1956年(昭和31年)8月24日 人類の将来を憂い、水もほとんど摂取しない49日間の完全断食の果て、死去

エピソード[編集]

  • 竹内流免許を6ヶ月で取得した。(『一分間の強健法』P19)
  • 剣道の突きで、20貫(75kg)はある大男を、5~6間(9~11m)は吹き飛ばした。(『一分間の強健法』P20)
  • 運動場を10周すると、2位に1週分の差をつけて更に追い越した1位になった。(『一分間の強健法』P20)
  • 学校での教科は国語、漢文、法政経済を得意としており10~15分で試験の答案を書き上げたが、100点以外はとったことがなかった。(『一分間の強健法』P22)
  • 杉の八分板を足の形に踏み抜いた。(『一分間の強健法』P31)
  • 板の太い根元をかかとの形を残してへし折った。(『一分間の強健法』P31)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]