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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「定義」の定義とその限界

「紙屋研究所」から記事の一部を転載。
何かの問題を考える際、あるいは議論する際に重要なのは、その問題や問題構成要素の定義だが、定義(という行為・作業)自体に下のような限界、あるいは弱点があるということは覚えておくほうが良さそうだ。

(以下引用)

補足:定義について

 「生物とは何か」を定義する話を上記で書いた。

 ヘーゲルはこのような人間の思考のあり方の意義と限界を記している。その解説本(鰺坂真・有尾善繁・鈴木茂編『ヘーゲル論理学入門』有斐閣新書)から「定義」批判をご紹介する。

 「定義」は、分析的方法によってえられた抽象的普遍、類のことです。特定の特殊な対象は、この類に種差をくわえていくことによって、とらえられます。したがって定義は、具体的な特殊な事物からその特殊性を捨象してえられた、ただの共通性にすぎません。だから幾何学のように、純粋に単純化された、抽象的な空間の諸規定を対象とするものには、よくあてはまります。

 ところが、定義は、たとえば生命・国家などのように、多面的な諸側面からなる生きた全体をとらえるには、きわめて不十分です。というのは、対象の諸側面が豊富であればあるほど、その対象の定義も、ひとそれぞれの見解によってますますさまざまになるからです。定義という普遍的な規定は、事物の質的な差異を捨象してえられるものであり、多様なものの共通性です。定義は、現実の具体的なもののどの側面が本質的なものなのか、という規準を、どこにももってはいません。だからしばしば事物は、表面的な特徴とか指標で定義されたりします。たとえば、人間と他の動物との区別を耳たぶに求めるというようなことも、その一例です。

 さらに現実の事物は、多様であるとともに、多数の不純なものとか、できの悪いものをふくんでいます。定義どおりのものは、どこにも存在していません。そのばあい、定義はその処理に苦慮し、対象があらわれるたびに定義をかえねば説明のつかないことになります。そうするとさまざまな定義がうまれ、どれが事物の真の定義かわからなくなります。逆に、さまざまなものを全部、一つの定義にふくめようとすると、定義それ自体が不明瞭なぼんやりとしたものになります。

 「定義」には、このような制限性があります。(同書p.169-171)

 

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階級社会は必然的に衰退滅亡する

「混沌堂主人雑記(旧題)」引用記事の末尾だが、考察ネタとして面白い。
日中韓三国の比較ではなく、なぜ江戸幕府は滅び、明治政府は成功したか、という問題に通じるのではないか。それは「国民に希望や夢があるか」というのが重要点だと思う。階級社会では一般国民には上昇の可能性がない。明治維新では「四民平等」が謳われ、それは「誰でも努力したら社会的上昇が可能だ」ということで、「末は博士か大臣か」と若者が努力した。それが日本近代化のエネルギーだったと思う。つまり「坂の上の雲」を誰もが見ていたのである。司馬遼太郎は正しい。
で、今や日本は階級社会で、下の人間は努力しても社会的上昇がほぼ不可能である。そんな社会で、誰が身を削って努力するだろうか。誰が、道徳を守るだろうか。誰が結婚し、子供を作ろうと思うだろうか。

(以下引用)

大場:逆に考えてみると、なぜ東アジアで日本だけが近代化に成功したのか。
 西洋、とくにアメリカからの影響を受け、それを国家としてうまく咀嚼し、統合する分厚い中間組織が日本にはあったんです。
 一方で、中国を見ると、孫文が言ったように「すべての中国人は砂のよう」、つまり個々がばらばらで、皇帝の専制支配下でも統合力がなかった。そして朝鮮も官僚と庶民の格差が激しすぎて、社会組織が末端まで整備されていなかった。そういった状況では西洋からの影響を受け入れ、それを基に近代国家を構築するという土壌が日本とはまったく違っていたんですよ。
 だから、日本の近代化の過程と、中国や朝鮮のそれぞれの社会・政治的な背景が、どう近代化の過程に影響を与えたのかを考えると、非常に興味深いと思います。

細部と本質

こういう、豪快なお婆さんは好きだ。
世間は、些細な違い(「美味しんぼ」などもそれ。)を大げさに言い、名前で騙される。
赤字にしたのは、私が感心した部分。完全な論拠である。


(以下引用)

942 :名無し : 23/11/05(日) 23:31:48 ID:Qv.oa.L28


うちの祖母はボルシチもビーフストロガノフも全部ビーフシチューだって言ってた
(ビーツの立場とは)
そしてビーフシチューをごはんにかけたらハヤシライスと変わらないでしょって言ってた

食卓にあがるのはかならずクリームシチューだったけどねー

ロックとパンクに本質的違いはあるか

まあ、かなり表面的な解説に見えるが、それ以上のことはむしろ過剰解釈になるだろう。
要するに、パンクはロックの一ジャンルでしかないということで、音楽的にはより下品で汚らしく荒々しくしたもの、という感じか。どこかのパンクバンドのひとりが言ったように「(パンクの登場で)ロックは死んだ」という偉そうなものではなく、一部の人間にウケるだけの特殊音楽と言うべきだろう。
ただ、若者に共感されるところがあるのは理解できる。つまり、若者の閉塞感と、その「自分たちを閉じ込めるもの」への反感の表現だからだ。しかし、せいぜいがガス抜きであり、パンクから革命が起こることは絶対に無いと断言していいと思う。
むしろ、「型破りな存在」を「ロックだねえ」とは言うが「パンクだねえ」とは言わないところに、パンクの劣弱さ、ロックに比しての小ささがある。形だけの虚勢的反体制だからだ。


(以下引用)


「ロック」「リズム重視のノリ易い音楽のこと」です。

「パンク」「反体制・反権力などのメッセージ性のある音楽のこと」です。

まとめ

まとめ

今回は「ロック」「パンク」の違いをお伝えしました。

「ロックはリズムとノリ」「パンクは反体制主義の歌詞」と覚えておきましょう。

脳とペニスは対立する

まあ、知的な男には性的魅力はゼロだろうね。
知的活動をしながらペニスを立てている男はいないwww つまり、インテリは性的能力が低い。特に、分析とか批判は恋愛(セックス)の障害になる。美人の皮膚を顕微鏡で見て惚れる男はいない。(これは「ガリバー旅行記」の巨人島でのエピソードに通じる。スウィフトは歴史上の知的巨人のひとりであるが女性嫌悪だった。)

(以下引用)

サイエンス

「暴力的な男性にはより多くのセックスパートナーがいる」との研究結果


男性の性的魅力には容姿や知能、性格などのさまざまな要素が含まれていると考えられていますが、「暴力的・攻撃的な行動」も一種の魅力となっている可能性も以前から指摘されています。合計で1万人以上の被験者を追跡したデータを分析した新たな研究により、「暴力的な傾向が強い男性はセックスパートナーが多い」との結果が示されました。

Brains, brawn, and beauty: The complementary roles of intelligence and physical aggression in attracting sexual partners - Seffrin - 2021 - Aggressive Behavior - Wiley Online Library
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/ab.21934

Longitudinal data suggests physically aggressive men tend to have more sex partners
https://www.psypost.org/2021/01/longitudinal-data-suggests-physically-aggressive-men-tend-to-have-more-sex-partners-59146


動物の群れでは最も強いオスがリーダーとなり、多くのメスと性的交渉を結ぶケースがよく観察されます。そこでアメリカ・ペンシルベニア州のメアリーウッド大学で社会学や犯罪学について研究しているPatrick Seffrin准教授は、人間でも暴力的な傾向が性的交渉の成功に結びつくのかどうかを調べる研究を行いました。

Seffrin氏は今回の研究で、現代の人間では祖先と同じく肉体的な攻撃行動が性的魅力を持っているのか、それとも暴力性より知性に魅力を感じるような社会的変化が起きているのかを突き止めようとしたとのこと。Seffrin氏は、「知性と暴力性は人々の中で負の相関関係にあるため、性交渉の成功にこの2つの要因がどう相互作用するのかを知ることは興味深いと考えました」とコメント。また、暴力性や知性がパートナーの数に及ぼす影響の男女差についても、今回の研究における関心の対象だったと述べています。


研究チームはアメリカで行われている縦断研究・National Longitudinal Study of Adolescent to Adult Health(青年期から成人期の健康に関する全国縦断的研究)のデータベースから、1994年~2009年にかけての調査に参加した男性5636人と女性6787人のデータを抽出して分析しました。

被験者らは15年にわたる調査期間中に合計で4回の調査に参加し、研究の一環として言語的な知能テストを受けたほか、暴力・犯罪的行動や学業、性生活などに関する質問にも回答したとのこと。研究チームは肉体的な魅力や健康状態およびその他の要因を制御した上で、暴力的な行動がセックスパートナーの数と関連しているかどうかを調査しました。


分析の結果、男性では暴力的な傾向がセックスパートナーの数と有意に関連している一方、女性の暴力的な傾向はセックスパートナーの数と関連しないことが判明したそうです。男性の場合、前回の調査よりも暴力性が増すにつれてセックスパートナーの数が増加しましたが、女性では暴力性の増加が性的交渉を結ぶ相手の増加につながりませんでした。また、教育レベルの上昇は男性のセックスパートナーの数と長期的に関連していたものの、言語的な知能および高校における学業成績は、セックスパートナーの獲得につながらなかったとのこと。

Seffrin氏は今回の調査結果について、女性が依然として暴力的な行動を性的な魅力と結びつけており、知性は暴力性よりもセックスパートナーの数との相関関係が小さいことを示していると指摘。「したがって、現代の産業社会では高い知性を持っていることがステータス的な報酬につながるにもかかわらず、暴力的な男性は同等の知性と肉体的な魅力を持つが攻撃性が低い男性と比較して、より性的交渉の成功で報われ続けます」と述べました。


なお、今回の研究は異性愛的な規範を基にしたものであり、LGBTQの人々にも同様の結果が当てはまるかどうかは不明だとのこと。また、知性や暴力性がもたらす性的魅力については議論が行われている最中であり、今回のデータはあくまでも理論的な領域にとどまるものだとSeffrin氏は指摘しています。